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演劇漫話 - 岸田 国士 ( きしだ くにお )

  • 『小学校演劇脚本集』日本演劇教育連盟★演劇と教育 晩成書房☆
  • 毛皮族/町田マリー他直筆サイン入り!演劇誌【演劇ぶっく】03/2
  • ■中古雑誌■演劇ぶっく社『演劇ぶっく』1993年4月号(No.42)
  • 学校演劇脚本集’81 編集:日本演劇教育連盟
  • 演劇台本☆エチュード☆文学座付属演劇研究所テキスト
  • 演劇ぶっく99.4/えんぶチャートいのうえ西遊記G2片桐楳図かずお
  • 演劇ぶっく 2005.2 113●三谷幸喜 深津絵里 上川隆也 阿部サダヲ
  • 石原さとみ/主演・出演劇場映画チラシ8種類セット 美品
  • 尾上菊五郎 演劇界臨時増刊 昭和48年 古い歌舞伎資料
  • [演劇] 同時代人としての唐十郎 山口猛 (著)
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岸田國士      一、新劇と旧劇  現今、芝居好きと称する人のうちで、旧劇はつまらないと云つて見に行かない人もあるでせう。しかし、それは極少数の「新しがり」に限られてゐると云つてよろしい。之に反して、新劇は見るに堪へないと公言して憚らない人のうちには、相当、見識のある芸術愛好者が、可なり多くあることは事実です。
 旧劇は一概につまらないと云ふ側の人々は、旧劇には優れた文学が無いからといふ理由を挙げるでせう。しかし、旧劇は、今日ではもう立派文学の羈絆を脱してゐる完成品です。たゞ、旧劇俳優のうちには、その旧劇独自の存在理由に着眼せず、徒らに、「旧劇の文学」に心酔して自己の世界を狭め、自己の芸術を低調ならしめてゐる自称新人の多いことは遺憾であります、従つて、之等の旧劇界の新人等は、たまたま新劇に手を染るに当つても殆ど常に、最も旧劇的な新劇、云ひ換へれば常識的感情を基調とする作品にのみ向はうとする愚かさを繰返してゐます。
 新劇は見るに堪へないといふ連中は、新劇にとつて、必ずしも敵でありません。なぜなら、彼等のうちには、「よりよき新劇」の出現を待ち望んでゐる人もあるでせうから。殊に、今日新劇団と称する如何はしい蜉蝣存在を無視することは、決して、新劇そのものを無視することにはならないからです。
 新劇とは、云ふまでもなく、西洋劇の影響受け現代文学の思潮を根柢とする演劇運動を指してゐます。
 戯曲の方面では、最近、相当目星い作品を生んでゐますが、舞台的には、まだ新劇を演じるために必要な才能教養とを兼ね備へた俳優がゐません。従つて、大部分は素人です。その上、彼等には、御手本がない。先生がない。絶えず同じことを繰り返してゐて進歩しないのも無理はありません。

     二、新劇と云へないもの

 新劇現代劇でなければならないと限つてはゐません。しかし、現今、新作時代劇と云はれてゐるものゝうちに、新劇の名に応はしい作品舞台が、いくつありませう。「藤十郎の恋」や、「坂崎出羽守」や、「お国と五平」や、「伊井大老の死」や、「息子」や、「大仏開眼」や、「生きてゐる小平次」や、「玄朴と長英」や、これら、現代日本劇壇が生んだ評判の時代劇は、多少とも、旧劇にないものを含んではゐますが、之等は畢竟、旧劇の畑にみのり得る果実であると、私は信じてゐるのです。それで、かういふ種類の作品は、所謂新劇の将来にあまり多く寄与する処のない作品であります。
 それからまた、現代生活を取扱つてゐればなんでも新劇かと云へば、さうとも限つてはゐません。新派劇は別として、毎月発表される戯曲を見ても、これはどう演出をすれば新劇になるのかと思はれるやうな作品があります。それは何れも、芝居といふものゝ常識から一歩も脱け出てゐない作品だからです。それはたゞ、人物が類型的だと云ふに留まりません。「作者の観てゐる芝居」が、今迄何処かで観たことのある芝居の寄せ集めに過ぎないと云ふことになるのです。早く云へば、舞台的に何等創造のない芝居は、新劇とは云へません。何となれば、芝居は昔から型に陥り易いものであり、その型を踏襲することによつて旧劇が成立ち、その型を破ることによつて新劇が起つたのですから。そして、俗衆は、自分の観てゐる芝居の中に、自分の知つてゐる型を見出さなければ満足しないといふ恐ろしい習慣を失はずにゐるのです。新劇は、さういふ種類の観客に秋波を送つてはなりません。

     三、演劇の為めの演劇

芸術の為めの芸術」といふ語は解釈のし方で、いろいろな攻撃受けますが、「演劇の為めの演劇」と、私が云へば、これも、いろいろな方面から苦情が出ることゝ思ひます。
 今日、「少数好事家の為の演劇」がよくないといふので、「民衆の為めの演劇」が唱道せられ、「俳優の為の演劇」が幅を利かしてゐる時に「文学者の為めの演劇」が一向に振はないでゐるといふ様に……。また、或る時は「演出家の為めの演劇」が栄え、「舞台装置家の為めの演劇」が出現し、「右翼思想の為めの演劇」があると同時に「左傾思想の為めの演劇」が存在を主張するといふ有様です。
 そして、結局、「興行主の為めの演劇」「俗衆の為めの演劇」「人気俳優の為めの演劇」以外に何も残らないではありませんか。
 それならばまだしも、「演劇の為めの演劇」があつて、それをめいめいが勝手利用するやうにした方がよくはないでせうか。
演劇の為めの演劇」とは、つまり、「演劇愛するものゝ為めの演劇」であります。演劇を、演劇以外のものゝ為めに愛する人々があると仮定すれば、さういふ人々は、真に演劇愛するものとは云へません。役者を見たさに芝居に行くといふ人々さへも、それは、演劇の為めに演劇愛するものではなく、演劇に取つては寧ろ有難くない味方であります。
 それならば、「演劇の為めの演劇」とはどういふものかと云へば、演劇本質を発揮するためにあらゆる要件を具備した演劇であります。脚本文学の他の部門より独立し、舞台装置絵画建築の後を追はず、俳優物真似ににつかず、舞踊に走らず、演劇は、一個それ自身の美を以て芸術の一様式たる実を挙げることに努力するのです。演劇でなければ表現できないものが人生のうちにあることを発見した古人の純粋感覚を、われわれはもつことができないのでせうか。

     四、劇を書くが故に劇作家なる劇作家

「詩を作るが故に詩人なる詩人」と「詩人なるが故に詩を作る詩人」とを区別した人が仏蘭西にあります。劇作家についても同じやうな区別ができさうに思はれます。
 此の区別、此のニユアンスはやがて、詩の本質、劇の本質を雄弁に語らうとするものです。
「劇を書くが故に劇作家なる劇作家」が如何に多いことでせう。そして「劇作家なるが故に劇を書く劇作家」が如何に少いことでせう。
劇作家なるが故に劇を書く劇作家」は、劇を生む人々です。「劇を書くが故に劇作家なる劇作家」は劇を製造する人々です。前者作品は一つの有機的組織であるのに反して、後者のそれは、常に機械構成であります。従つて、後者は「味」よりも「力」を、「香」よりも「刺激」を、「光り」よりも「色」を、「弾力」よりも「硬さ」を、「密度」よりも「重さ」を尊重する傾きがあります。一つは「生き」、一つは「動」くのであります。云ひ換れば、前者は、「生命」を与へることによつて「動き」をつけ、後者は「動き」をつけることによつて、「生命」の仮感を与へようとするのです。


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