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火の唇 - 原 民喜 ( はら たみき )

  • 古書≪森鴎外集≫7 青年、舞姫他 【 森鴎外】河出書房 貴重 初版
  • 「森鴎外私論」吉野俊彦 森鴎外評論-批評-書籍・10冊 N21681
  • 岩波文庫1675昭和41年/阿部一族他二編森鴎外 岩波書店
  • 600円~ 岩波文庫【青年】森鴎外 (プチソフト1)
  • ◆◇森鴎外著「舞姫・山椒大夫  他四篇」(旺文社文庫)◇◆
  • ◆◇ 森鴎外著「青年」(新潮文庫) ◇◆  名著! 
  • ◆◇森鴎外著「舞姫・うたかたの記  他三篇」(岩波文庫)◇◆
  • ◆新品DVD★『NHK 名作の風景 8』森鴎外 正岡子規 夏目漱石1円
  • 森鴎外 高瀬舟・高瀬舟縁起・寒山捨得・寒山捨得縁起 CD 未開封
  • 森鴎外 舞姫 雁 井上靖 訳編 明治の古典8 初版
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 いぶきが彼のなかを突抜けて行つた。一つの物語は終らうとしてゐた。世界は彼にとつてまだ終らうとしてゐなかつた。すべてが終るところからすべては新らしく始まる、すべてが終るところからすべては新らしく……と繰返しながら彼はいつもの時刻にいつもの路を歩いてゐた。女はもうゐなかつた、手袋を外して彼のために別れの握手をとりかはした女は……。あの手の感触は熱つかつたのだらうか、冷やりとしてゐたのだらうか……彼はオーバーのポケツトに突込んでゐる両手を内側に握り締めてみた。が何ものも把へることは出来なかつた。影のやうな女だつたのだが、彼もまた女にとつて影のやうな男にすぎなかつたのだ。影と影はひつそりとした足どりで濠端に添ふ舗道を歩いてゐた。そして、最後にたつた一度、別れの握手をとりかはした、たつたそれだけの交渉にすぎなかつた、淋しい淋しい物語だつた。
 いぶきが彼のなかを突抜けて行く。淋しい淋しい物語の後を追ふやうに、彼は濠端に添ふ舗道を歩いて行く。枯れた柳の木の柔らかな影や、傍にある静かな水の姿が彼をうつとりと涙ぐまさうとする。すべてが終るところから、すべては新しく……彼はくるりと靴の踵をかへして、胸を張り眼を見ひらく。と、風景も彼にむかつて、胸を張り眼を見ひらいてくる。決然と分岐する舗装道路高層ビルの一連が、その上に展がる茜色の水々しい空が、突然、彼に壮烈な世界を投げかける。世界はまだ終つてはゐないのだ。世界はあの時もまた新しく始まらうとしてゐた。あの時……原子爆弾破滅した、あの街は、銀色に燻る破片と赤く爛れた死体で酸鼻を極めてゐた。傾いた夏の陽ざしで空は夢のやうに茫と明るかつた。橋梁は崩れ堕ちず不思議と川の上に残されてゐた。その橋の上を生存者の群がぞろぞろと通過した。その橋の上で颯爽と風に頭髪を飜へしながら自転車でやつて来る若い健康さうな女を視た。それは悲惨に抵抗しようとする生存者の奇妙なリズムを含んでゐた。だが、その瞬間から、彼の脳裏に何か焦点ははつきりとしないが、広漠たる空間を横切る新しい女の幻影が閃いた。

イブ
ニユー・イブ

 イブは今も彼が見上げる空の一角を横切つてゆくやうだ。茜色の水々しい空には微かに横雲が浮んでゐて、それは広島の惨劇の跡の、あの日の空と似てくる。いぶきが彼のなかを突抜けてゆく。

 彼がその女と知遇つたのは、ある会合の席上であつた。火の気のないビルの一室は煙草の煙で濛々と悲しさうだつた。女は赤いマフラをしてゐた。その眼はビルの窓ガラスのやうに冷たかつた。二度目に遇つたのも、やはりその侘しいビルの一室であつた。会合が終つたとき女がはじめて彼に口をきいた。それから駅まで一緒に歩いた。
「わたしと交際つてみて下さい。またいつかお会ひ致しませう」
 みて下さい……といま言葉が彼の意識に絡まつた。が、彼はさり気なく冷やかに肯いた。冷やかに……だが、その頃、彼は身を置ける一つの部屋さへ持てず、転々と他人の部屋に割込んで暮してゐた。そんな部屋の片隅でノートに書いてゐた。
〈踏みはづすべき階段もなく、足は宙に浮いてゐる。もしかすると彼は堕落してゐるのだらうか。だが、僕の眼は真さかさまに上を向いてゐて、堕落してゆく体と反対に、ぐんぐん上の方へ釣上げられてゆく。絶叫もきこえない。歓喜も湧かない、すべては宙に浮んだまま。(無限階段)〉
 女は彼と反対側の電車で帰つた。淋しさうな女だが、とにかくああして帰つて行く場所はあるのかと、何となしに彼は吻とした。人間地上にはつきりした巣をもつていること(それは妻が生きてゐた頃なら別に不思議でもなかつたが)今では彼にとつて殆ど驚異に近かつた。あの時……、彼の頭上に真暗なものが崩れ落ちると、その時から、彼には空間が殆ど絶え間なく波のやうに揺れ迫つた。その時から、彼は地上の巣を喪ひ、空間はひつきりなしに揺れ返つたのだ。


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