灯明之巻 - 泉 鏡花 ( いずみ きょうか )
燈明之巻
一
「やあ、やまかがしや蝮(まむし)が居(お)るぞう、あっけえやつだ、気をつけさっせえ。」
「ええ。」
何と、足許(あしもと)の草へ鎌首が出たように、立すくみになったのは、薩摩絣(さつまがすり)の単衣(ひとえ)、藍鼠(あいねずみ)無地の絽(ろ)の羽織で、身軽に出立(いでた)った、都会かららしい、旅の客。――近頃は、東京でも地方でも、まだ時季が早いのに、慌てもののせいか、それとも値段が安いためか、道中の晴の麦稈帽(むぎわらぼう)。これが真新しいので、ざっと、年よりは少(わか)く見える、そのかわりどことなく人体(にんてい)に貫目のないのが、吃驚(びっくり)した息もつかず、声を継いで、
「驚いたなあ、蝮は弱ったなあ。」
と帽子の鍔(つば)を――薄曇りで、空は一面に陰気なかわりに、まぶしくない――仰向(あおむ)けに崖(がけ)の上を仰いで、いま野良声を放った、崖縁にのそりと突立(つった)つ、七十余りの爺(じい)さんを視(み)ながら、蝮は弱ったな、と弱った。が、実は蛇ばかりか、蜥蜴(とかげ)でも百足(むかで)でも、怯(おび)えそうな、据(すわ)らない腰つきで、
「大変だ、にょろにょろ居るかーい。」
「はああ、あアに、そんなでもねえがなし、ちょくちょく、鎌首をつん出すでい、気をつけさっせるがよかんべでの。」
「お爺さん、おい、お爺さん。」
「あんだなし。」
と、谷へ返答だまを打込(ぶちこ)みながら、鼻から煙を吹上げる。
「煙草銭(たばこせん)ぐらい心得るよ、煙草銭を。だからここまで下りて来て、草生(くさっぱ)の中を連戻してくれないか。またこの荒墓(あれはか)……」
と云いかけて、
「その何だ。……上の寺の人だと、悪いんだが、まったく、これは荒れているね。卵塔場へ、深入りはしないからよかったけれど、今のを聞いては、足がすくんで動かれないよ。」
「ははははは。」
鼻のさきに漂(ただよ)う煙が、その頸窪(ぼんのくぼ)のあたりに、古寺の破廂(やれびさし)を、なめくじのように這(は)った。
「弱え人だあ。」
「頼むよ――こっちは名僧でも何でもないが、爺さん、爺さんを……導きの山の神と思うから。」
「はて、勿体(もったい)もねえ、とんだことを言うなっす。」
と両(ふた)つ提(さげ)の――もうこの頃では、山の爺が喫(の)む煙草がバットで差支えないのだけれど、事実を報道する――根附(ねつけ)の処を、独鈷(とっこ)のように振りながら、煙管(きせる)を手弄(てなぶ)りつつ、ぶらりと降りたが、股引(ももひき)の足拵(あしごしら)えだし、腰達者に、ずかずか……と、もう寄った。
「いや、御苦労。」
と一基の石塔の前に立並んだ、双方、膝の隠れるほど草深い。
実際、この卵塔場は荒れていた。三方崩れかかった窪地の、どこが境というほどの杭(くい)一つあるのでなく、折朽(おれく)ちた古卒都婆(ふるそとば)は、黍殻(きびがら)同然に薙伏(なぎふ)して、薄暗いと白骨に紛れよう。石碑も、石塔も、倒れたり、のめったり、台に据っているのはほとんどない。それさえ十ウの八つ九つまでは、ほとんど草がくれなる上に、積った落葉に埋(うも)れている。青芒(あおすすき)の茂った、葉越しの谷底の一方が、水田に開けて、遥々(はるばる)と連る山が、都に遠い雲の形で、蒼空(あおぞら)に、離れ島かと流れている。
割合に土が乾いていればこそで――昨日(きのう)は雨だったし――もし湿地だったら、蝮、やまかがしの警告がないまでも、うっかり一歩も入(い)れなかったであろう。
それでもこれだけ分入(わけい)るのさえ、樹の枝にも、卒都婆にも、苔(こけ)の露は深かった。……旅客の指の尖(さき)は草の汁に青く染まっている。雑樹(ぞうき)の影が沁(し)むのかも知れない。
蝙蝠(こうもり)が居そうな鼻の穴に、煙は残って、火皿に白くなった吸殻を、ふっふっと、爺は掌(てのひら)の皺(しわ)に吹落し、眉をしかめて、念のために、火の気のないのを目でためて、吹落すと、葉末にかかって、ぽすぽすと消える処を、もう一つ破草履(やれぞうり)で、ぐいと踏んで、
「ようござらっせえました、御参詣(ごさんけい)でがすかな。」
「さあ……」
と、妙な返事をする。
「南無(なむ)、南無、何かね、お前様、このお墓に所縁の方でがんすかなす。」
胡桃(くるみ)の根附を、紺小倉のくたびれた帯へ挟んで、踞(しゃが)んで掌を合せたので、旅客も引入れられたように、夏帽を取って立直った。
「所縁にも、無縁にも、お爺さん、少し墓らしい形の見えるのは、近間では、これ一つじゃあないか――それに、近い頃、参詣があったと見える、この線香の包紙のほぐれて残ったのを、草の中に覗(のぞ)いたものは、一つ家(や)の灯のように、誰だって、これを見当(みあて)に辿(たど)りつくだろうと思うよ。山路(やまみち)に行暮れたも同然じゃないか。」
碑の面(おもて)の戒名は、信士とも信女(しんにょ)とも、苔に埋れて見えないが、三つ蔦(づた)の紋所が、その葉の落ちたように寂しく顕(あら)われて、線香の消残った台石に――田沢氏――と仄(ほのか)に読まれた。
「は、は、修行者のように言わっしゃる、御遠方からでがんすかの、東京からなす。」
「いや、今朝は松島から。」
と袖を組んで、さみしく言った。
「御風流でがんす、お楽(たのし)みでや。」
「いや、とんでもない……波は荒れるし。」
「おお。」
「雨は降るし。」
「ほう。」
「やっと、お天気になったのが、仙台からこっちでね、いや、馬鹿々々しく、皈(かえ)って来た途中ですよ。」
成程、馬鹿々々しい……旅客は、小県(おがた)、凡杯(ぼんはい)――と自称する俳人である。
何と、足許(あしもと)の草へ鎌首が出たように、立すくみになったのは、薩摩絣(さつまがすり)の単衣(ひとえ)、藍鼠(あいねずみ)無地の絽(ろ)の羽織で、身軽に出立(いでた)った、都会かららしい、旅の客。――近頃は、東京でも地方でも、まだ時季が早いのに、慌てもののせいか、それとも値段が安いためか、道中の晴の麦稈帽(むぎわらぼう)。これが真新しいので、ざっと、年よりは少(わか)く見える、そのかわりどことなく人体(にんてい)に貫目のないのが、吃驚(びっくり)した息もつかず、声を継いで、
「驚いたなあ、蝮は弱ったなあ。」
と帽子の鍔(つば)を――薄曇りで、空は一面に陰気なかわりに、まぶしくない――仰向(あおむ)けに崖(がけ)の上を仰いで、いま野良声を放った、崖縁にのそりと突立(つった)つ、七十余りの爺(じい)さんを視(み)ながら、蝮は弱ったな、と弱った。が、実は蛇ばかりか、蜥蜴(とかげ)でも百足(むかで)でも、怯(おび)えそうな、据(すわ)らない腰つきで、
「大変だ、にょろにょろ居るかーい。」
「はああ、あアに、そんなでもねえがなし、ちょくちょく、鎌首をつん出すでい、気をつけさっせるがよかんべでの。」
「お爺さん、おい、お爺さん。」
「あんだなし。」
と、谷へ返答だまを打込(ぶちこ)みながら、鼻から煙を吹上げる。
「煙草銭(たばこせん)ぐらい心得るよ、煙草銭を。だからここまで下りて来て、草生(くさっぱ)の中を連戻してくれないか。またこの荒墓(あれはか)……」
と云いかけて、
「その何だ。……上の寺の人だと、悪いんだが、まったく、これは荒れているね。卵塔場へ、深入りはしないからよかったけれど、今のを聞いては、足がすくんで動かれないよ。」
「ははははは。」
鼻のさきに漂(ただよ)う煙が、その頸窪(ぼんのくぼ)のあたりに、古寺の破廂(やれびさし)を、なめくじのように這(は)った。
「弱え人だあ。」
「頼むよ――こっちは名僧でも何でもないが、爺さん、爺さんを……導きの山の神と思うから。」
「はて、勿体(もったい)もねえ、とんだことを言うなっす。」
と両(ふた)つ提(さげ)の――もうこの頃では、山の爺が喫(の)む煙草がバットで差支えないのだけれど、事実を報道する――根附(ねつけ)の処を、独鈷(とっこ)のように振りながら、煙管(きせる)を手弄(てなぶ)りつつ、ぶらりと降りたが、股引(ももひき)の足拵(あしごしら)えだし、腰達者に、ずかずか……と、もう寄った。
「いや、御苦労。」
と一基の石塔の前に立並んだ、双方、膝の隠れるほど草深い。
実際、この卵塔場は荒れていた。三方崩れかかった窪地の、どこが境というほどの杭(くい)一つあるのでなく、折朽(おれく)ちた古卒都婆(ふるそとば)は、黍殻(きびがら)同然に薙伏(なぎふ)して、薄暗いと白骨に紛れよう。石碑も、石塔も、倒れたり、のめったり、台に据っているのはほとんどない。それさえ十ウの八つ九つまでは、ほとんど草がくれなる上に、積った落葉に埋(うも)れている。青芒(あおすすき)の茂った、葉越しの谷底の一方が、水田に開けて、遥々(はるばる)と連る山が、都に遠い雲の形で、蒼空(あおぞら)に、離れ島かと流れている。
割合に土が乾いていればこそで――昨日(きのう)は雨だったし――もし湿地だったら、蝮、やまかがしの警告がないまでも、うっかり一歩も入(い)れなかったであろう。
それでもこれだけ分入(わけい)るのさえ、樹の枝にも、卒都婆にも、苔(こけ)の露は深かった。……旅客の指の尖(さき)は草の汁に青く染まっている。雑樹(ぞうき)の影が沁(し)むのかも知れない。
蝙蝠(こうもり)が居そうな鼻の穴に、煙は残って、火皿に白くなった吸殻を、ふっふっと、爺は掌(てのひら)の皺(しわ)に吹落し、眉をしかめて、念のために、火の気のないのを目でためて、吹落すと、葉末にかかって、ぽすぽすと消える処を、もう一つ破草履(やれぞうり)で、ぐいと踏んで、
「ようござらっせえました、御参詣(ごさんけい)でがすかな。」
「さあ……」
と、妙な返事をする。
「南無(なむ)、南無、何かね、お前様、このお墓に所縁の方でがんすかなす。」
胡桃(くるみ)の根附を、紺小倉のくたびれた帯へ挟んで、踞(しゃが)んで掌を合せたので、旅客も引入れられたように、夏帽を取って立直った。
「所縁にも、無縁にも、お爺さん、少し墓らしい形の見えるのは、近間では、これ一つじゃあないか――それに、近い頃、参詣があったと見える、この線香の包紙のほぐれて残ったのを、草の中に覗(のぞ)いたものは、一つ家(や)の灯のように、誰だって、これを見当(みあて)に辿(たど)りつくだろうと思うよ。山路(やまみち)に行暮れたも同然じゃないか。」
碑の面(おもて)の戒名は、信士とも信女(しんにょ)とも、苔に埋れて見えないが、三つ蔦(づた)の紋所が、その葉の落ちたように寂しく顕(あら)われて、線香の消残った台石に――田沢氏――と仄(ほのか)に読まれた。
「は、は、修行者のように言わっしゃる、御遠方からでがんすかの、東京からなす。」
「いや、今朝は松島から。」
と袖を組んで、さみしく言った。
「御風流でがんす、お楽(たのし)みでや。」
「いや、とんでもない……波は荒れるし。」
「おお。」
「雨は降るし。」
「ほう。」
「やっと、お天気になったのが、仙台からこっちでね、いや、馬鹿々々しく、皈(かえ)って来た途中ですよ。」
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