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犬物語 - 内田 魯庵 ( うちだ ろあん )

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 俺かい。俺は昔(むか)しお万の覆(こぼ)した油を甞(な)アめて了つた太郎どんの犬さ。其俺の身の上|咄(ばな)しが聞きたいと。四つ足の俺に咄して聞かせるやうな履歴があるもんか。だが、人間小説家さまが俺の来歴を聞くやうでは先生余程窮したと見えるね。よし/\一番大気※を吐かうかな。
 俺は爰(ここ)から十町離れた乞丐(こじき)横町の裏屋の路次の奥の塵溜(ごみため)の傍(わき)で生れたのだ。俺の母犬(おふくろ)は俺を生むと間もなく暗黒(やみ)の晩に道路(わうらい)で寝惚けた巡行巡査に足を踏まれたので、喫驚(びつくり)してワンと吠えたら狂犬だと云つて殺されて了つたさうだ。自分過失(そさう)を棚へ上げて狂犬呼ばゝりは怪しからぬ咄(はなし)だ。加之(しか)も大切な生命(いのち)を軽卒に奪(と)るとは飛んでもない万物の霊だ。人間の威張臭る此|娑婆(しやば)では泣く子と地頭で仕方が無いが、天国に生れたなら一つ対手(あひて)取つて訴訟を提起(おこ)してやる覚悟だ。
 生れて二タ月目位だな。悪戯な頑童(わんぱく)どのに頸へ縄をくゝし附けられて病院の原に引摺られ、散三(さんざ)責(いぢ)められた上に古井戸の中へ投込まれやうとした処を今の旦那に救けられたのだ。
 乳も碌に飲まない中に母犬(おふくろ)には別れ、宿なしの親なしで随分苦労もしたが、今の旦那には勿躰ないほどお世話になつて、恰(とん)と応挙の描いた狗児(ちんころ)のやうだと仰しやつて大変可愛がられたもんだ。坊様も嬢様も無類の犬煩悩で入らつしやるから、爰の邸へ引取られてからは俺も飛んだ幸福者(しあはせもの)で、今年で八年、終(つひ)に一度|餓(ひも)じい目どころか、両(りやう)に四升(しゝよう)の鬼の牙のやうなお米を頂戴してゐた。憚りながら未だ南京米を口に入れた事の無いお兄(あに)いさんだ。
 俺の血統かい。俺は尋常(たゞ)の地犬(ぢいぬ)サ。雑(まじ)りツけない純粋日本犬(につぽんいぬ)だ。耳の垂れ尻尾を下げた瞳(め)の碧い毛唐の犬がやつて来てから、地犬々々と俺の同類を白痴(ばか)にするが、憚りながら神州の倭魂(やまとだましひ)を伝へた純粋のお犬様だ。西洋臭い顔をした雑種犬(あひのこいぬ)とは、ヘン、種(たね)が違います。
 元来(いつたい)俺の解らないのは無暗やたらに西洋犬を珍重する奴サ。一つ気※|序(つい)でに話して聞かせやう。犬の先祖は狼だといふが、之は間違で、「ドール」といふ山犬の一種だ。今でも英領印度の西境のミドナボールからシヤマルの間に棲んでゐる。世界文明が悉く印度から来たやうに犬も矢張印度を母国として四方に蕃殖したのだ。尤も埃及(エヂプト)では猫と同じやうに犬を尊んで川の神と祀つて、恰度ナイルの氾濫時分にシリヤス星が見えるので、此星を犬星(ドツグスター)と名(なづ)けて犬を星の精だといつたものださうな。アツシリヤでも早くから犬を珍重して今の「マスチツフ」だの「グレイハウンド」だのといふ奴が在(い)たさうだが、爾(そ)んな事は扨(さ)ておき、我々は印度の「ドール」から進化したのだといふが学者一致した説である。狼や「ジヤカル」から発達したといふのは嘘だよ。我々同類を誣(し)ゆるものだよ。
 処で、此「ドール」といふ奴は痛(ひど)く人間を嫌つて決して影を見せないさうだが、敏捷活溌で頗る猟が上手である。豹のやうな木に登るものや象のやうな図抜けて大きな身幹(づうたい)のものゝ外は何でも捕る。虎でさへが「ドール」に会つては辟易(しりごみ)する。無論一疋と一疋とでは虎には及ばないが、「ドール」君は常に大隊を率ゐて一斉襲撃するから大抵な猛虎は忽ち殺されて了ふ。中々|慓悍(へうかん)決死の大将軍である。少(ちつ)と味噌を上げるやうだが、先づ猛獣狩の功者と云つたら「ドール」先生だらう。天晴武勇の振舞は我々犬族の先祖たるに耻ぢずと云ふべしだ。
 さて犬族一統の中で、此「ドール」君の風※(ふうぼう)を最も能く伝へてゐるは我々日本犬だよ。耳から尻尾の具合、面貌(かほつき)までが頗る肖(に)ておる。殊に勇武絶倫、猛獣を物ともせざる勇敢の気象が丸出しである。恐らく「ドール」君正統嫡流だと信じますナ。独り日本犬ばかりでない、日本犬に似てゐる者は悉く勁勇(きやうゆう)無双(ぶさう)である。西蔵犬(チベツトいぬ)、「エスキモー」犬(いぬ)、西比利亜犬(シベリヤいぬ)、我々の兄弟分は何(ど)れも力が強く勇気があつてしたゝかな豪傑である。唯(た)だ何(ど)れも未開の国で野法図(のはふづ)に育つたお庇(かげ)に歴史に功蹟を遺すだけに進歩しなかつたが其性質の勝(すぐ)れて怜悧で勇気のあるのは学者に認められておる。「エスキモー」犬が雪中|橇車(そり)を牽いて数日の道を行つても少しも疲労しない事や、西比利亜犬が旅人(りよじん)を護衛して狼や其他の猛獣を追散らす勇気は実に素晴らしいもんだ。西比利亜では犬を「エンヌ」といふさうで語音(ごいん)が稍(や)や似通つておる。或は日本犬と同種族であるまいかといふ説があるさうだが、如何さま宛(さ)もありさうな事だ哩(わい)。
 それから我々は何しろ二千五百年の歴史ある国に生まれたのだからエスキモー西比利亜の徒輩(てあひ)と違つて立派な来歴がある。桓武天皇九代の皇胤と列べ立てゝは緞帳(どんちやう)の台詞染みて笑止(をか)しくないが、御歴代の天皇様から御鐘愛を蒙むつて恐れ多くも九重(こゝのへ)に咫尺(しせき)し奉つた例(ためし)は君達も忠君無二の日本人だから御存じだらう。勿論|翁丸(おきなまる)のやうな悪戯をして君の勅勘(ちよくかん)を蒙むつた者もあるが、我々は先づ君の御寵愛を忝(かたじけな)ふした方だ。


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