狂童女の恋 - 岡本 かの子 ( おかもと かのこ )
狂童女の戀
――きちがひの女の兒に惚れられた話をしませう。
と詩人西原北春氏はこの詩人得意の「水花踊」などまだ始まらぬまだほんのほの/″\と酒の醉ひがまはりかけたばかりのところで――あれが始まるころはまつたく泥醉状態になつた西原氏なので――話し始めた。
支那の李太白らが醉つて名詩を作つたといふのはどれほどの醉ひに達したときか知りませんが、わが國の大詩人西原北春氏にありては、今北春氏が
――きちがひに惚れられた話をしませう。
と厚い童男のやうな唇にいくらか微笑をふくんでいひ出した程度の醉ひの状態が一番、この大詩人の詩的面目の躍如たる表現に適してゐることを私には斷言出來ます。――さきは九歳のこどもですよ。
――會社の重役のお孃さんですよ。
なんと驚いたでせう、といふ氣持ちを、すこしふら/\する手つきに出して西原氏はわれわれにこの話へのより多くの注意を促した。
――僕が目黒の競馬場の奧に棲んでゐたとき、あの邊は開けたばかりだから坂が非常に多かつた。
西原氏はそこでまた、一つ杯を取り上げ口へ運びながら私を上目で視て
――それ、あなたが、僕のあの家へ始めて尋ねて來たでせう、そして、僕んところへ持つて來るメロンを抱きながらあなたは坂を下つて來た。夕陽があまり綺麗だから、あなたは見惚れながらあの坂を降りて來た。すると、中途で石に下駄を奪られ、つまづく拍子にあなたの手に持つてゐたメロンが坂からころ/\ところげ落ちちまつた。あの下が谷でメロンがたうとう見つからなかつた、あの坂ね、あの坂のところで僕はそのお孃さんに見染められたんですよ。
私はその坂を覺えてゐる。
頂上の左右に二三の大邸宅を控へてゐる。雜木の小丘を截つて附けた坂としてはわたりが長く隨つて茅萱野草に掩はれた一方の崖下は深くて長かつた。西原氏がメロンの落ちた谷といつたのはその崖下だつた。左右の荒地、嶮岨に似ず、坂の表面はきめのこまかい赤土で小石が、いくらか散らばつただけの柔和な傾斜面だつた。
ころがせ、ころがせ、びいる樽とめて、とまらぬものならば赤い夕陽の、だら/\坂をころがせ、ころがせ、びいる樽。
西原氏は、嫌味のないさつぱりした調子で、あの坂でつくつた自作の童謠を口ずさみ、しみじみと愉快氣に童男型でありながらまた大人風をも備へた大兵の體を振つた。
――この謠をですね、醉つて私は唄ひながら、あの坂を降りて東京市内から自宅の方へ歸つたものですよ。さうですよ。朝か、晝ごろ出れば大がい夕方醉つて私は市内から歸るのでしたよ。
その西原氏を狂童女がどこから眺めて送迎してゐたものか、西原氏の市中へ出る途を擁してゐて、或朝、まだ醉つてゐない西原氏に一人の品の宜い初老位な奧樣風の女性が、坂の上の大邸宅の一つから出て來て立ち向つた。
――何とも御迷惑なことゝ、重々御察しいたしますが……。
と彼女は、幾度も幾度も、考へ拔いた上のことらしく、語調に惡びれた樣子もなく、すらすらかういつて、西原氏に狂童女に一度會つて呉れるよう、ひたすら頼み入るのだつた。
――氣の違ったまゝで、たゞ/\あなたをお慕ひ申すのがいぢらしくて、失禮とも何とも申し上げ兼ねますが……。
こどもの戀心を汲み取つて述べる母親の口からは、自然とかういつた舊套な抒情詩が滑り出るのだつた。だがこの場合、さういふ口調が却つて舊套を脱して、こどもの氣持ちも母親の氣持ちも、一しよに鮮かに西原氏のこゝろには訴へられたのだ。
てれてはにかんだ詩人は、肉體的にもむづ痒いものが、太い頸を目がけて、背中から匍ひ上つて來るやうなのを、どうしようもなかつた。脱いだ帽子で頸のまはりを磨りまはしながら、
――連れていらつしやい、僕の家でお會ひします。さよなら。
詩人はぽくんと一つ叩頭をして、逃げ出す氣持ちで坂を降りかけたが、何だか物足りないものを殘した氣がしたので、思はず振り向いた。
――お母さん、そのお孃さんはおいくつです。
母親は、こゝに至つて穴にも入りたく、身の置きどころもない樣子をして、手をむやみに磨り合はせてゐたが、顏はぐつと、斜にうつ向けたまゝ、答へたくないものを答へる調子でいつた。
――あの、それが、九つなのでございまして……。
これを聞くと西原氏は、おう! と虎のやうに叫んで、坂下目がけて驅け出した。口惜しいやうな、悲しいやうな、剽きんなやうな、何とも名状しがたい氣持ちがあとから押すやうで、西原氏は、毬のやうな身體のはずみを、坂から三四丁先きの我家まで一氣に飛ばした。そして家に有合せた酒をむやみに呑んで、誰にとも知れない恥かしいわく/\した氣持ちで、呑んで呑み拔いた酒に醉ひつぶれて仕舞つた。
あくる日、西原氏は母親に連れて來られた少女に書齋で會つた。聞いた歳よりはずつと大きく見える少女で、富家の子で榮養も好いのであらうが狂女の病的に發達しませた體躯の工合ひが十四、五歳位にも見える。明治初期の美人晝に見るやうな瓜實顏に目鼻立ちが派手についてゐて、凄い美人になりさうな少女だつた。一寸見ると、何處といつてきちがひじみた處も無かつたが、よく見ると、尖つた顎の削げ方と、額が押し竦められたやうに迫つて、それに一文字に濃い兩眉がひとに不安の感じを與へる。
少女は一寸伸び上り、おとなしく西原氏と眞向きの椅子に腰をかけると、眼ばたきもせず、しげしげと西原氏の顏を見惚れるのだつた。
西原氏はまた醉つたあくる日の朝の西原氏なので、昨夜のそわそわした氣持ちも拔けてぽかんとした中に嚴肅なものに對する一種の憧憬れを持つてゐるやうな氣分であつた。それで始めは、この狂少女に對して、たゞ憐れみが先に立ちそれほど見度い顏ならたくさん見せてあげようといつた具合ひに、青年顏と少女顏と壯年顏に佛顏が交つた西原氏のこの日本にあまりたぐひない――恰度西原氏の詩才と同じ樣な特色のある顏を濟して少女の方へ向け默つて鼻で息をしてゐた。
四月の朝の光線が、窓から一ぱいさし込んで、デスクから床の上へ雪崩のやうに落ち散らばつてゐる西原氏の詩稿の書き屑を目眩しく見せた。座敷のさういふ白いものや少女の白い顏に庭樹の芽吹きが薄青く反射した。
西原氏の顏へ向けた少女の凝視があまり續くので、母親が口を切つた。
――英子、折かく先生にお目にかゝつたのですから、何かお話をなさい。
すると少女は舞臺の人形振りのやうにこつんと一つうなづいて、大人のやうに、ゆつくり話し出した。
支那の李太白らが醉つて名詩を作つたといふのはどれほどの醉ひに達したときか知りませんが、わが國の大詩人西原北春氏にありては、今北春氏が
――きちがひに惚れられた話をしませう。
と厚い童男のやうな唇にいくらか微笑をふくんでいひ出した程度の醉ひの状態が一番、この大詩人の詩的面目の躍如たる表現に適してゐることを私には斷言出來ます。――さきは九歳のこどもですよ。
――會社の重役のお孃さんですよ。
なんと驚いたでせう、といふ氣持ちを、すこしふら/\する手つきに出して西原氏はわれわれにこの話へのより多くの注意を促した。
――僕が目黒の競馬場の奧に棲んでゐたとき、あの邊は開けたばかりだから坂が非常に多かつた。
西原氏はそこでまた、一つ杯を取り上げ口へ運びながら私を上目で視て
――それ、あなたが、僕のあの家へ始めて尋ねて來たでせう、そして、僕んところへ持つて來るメロンを抱きながらあなたは坂を下つて來た。夕陽があまり綺麗だから、あなたは見惚れながらあの坂を降りて來た。すると、中途で石に下駄を奪られ、つまづく拍子にあなたの手に持つてゐたメロンが坂からころ/\ところげ落ちちまつた。あの下が谷でメロンがたうとう見つからなかつた、あの坂ね、あの坂のところで僕はそのお孃さんに見染められたんですよ。
私はその坂を覺えてゐる。
頂上の左右に二三の大邸宅を控へてゐる。雜木の小丘を截つて附けた坂としてはわたりが長く隨つて茅萱野草に掩はれた一方の崖下は深くて長かつた。西原氏がメロンの落ちた谷といつたのはその崖下だつた。左右の荒地、嶮岨に似ず、坂の表面はきめのこまかい赤土で小石が、いくらか散らばつただけの柔和な傾斜面だつた。
ころがせ、ころがせ、びいる樽とめて、とまらぬものならば赤い夕陽の、だら/\坂をころがせ、ころがせ、びいる樽。
西原氏は、嫌味のないさつぱりした調子で、あの坂でつくつた自作の童謠を口ずさみ、しみじみと愉快氣に童男型でありながらまた大人風をも備へた大兵の體を振つた。
――この謠をですね、醉つて私は唄ひながら、あの坂を降りて東京市内から自宅の方へ歸つたものですよ。さうですよ。朝か、晝ごろ出れば大がい夕方醉つて私は市内から歸るのでしたよ。
その西原氏を狂童女がどこから眺めて送迎してゐたものか、西原氏の市中へ出る途を擁してゐて、或朝、まだ醉つてゐない西原氏に一人の品の宜い初老位な奧樣風の女性が、坂の上の大邸宅の一つから出て來て立ち向つた。
――何とも御迷惑なことゝ、重々御察しいたしますが……。
と彼女は、幾度も幾度も、考へ拔いた上のことらしく、語調に惡びれた樣子もなく、すらすらかういつて、西原氏に狂童女に一度會つて呉れるよう、ひたすら頼み入るのだつた。
――氣の違ったまゝで、たゞ/\あなたをお慕ひ申すのがいぢらしくて、失禮とも何とも申し上げ兼ねますが……。
こどもの戀心を汲み取つて述べる母親の口からは、自然とかういつた舊套な抒情詩が滑り出るのだつた。だがこの場合、さういふ口調が却つて舊套を脱して、こどもの氣持ちも母親の氣持ちも、一しよに鮮かに西原氏のこゝろには訴へられたのだ。
てれてはにかんだ詩人は、肉體的にもむづ痒いものが、太い頸を目がけて、背中から匍ひ上つて來るやうなのを、どうしようもなかつた。脱いだ帽子で頸のまはりを磨りまはしながら、
――連れていらつしやい、僕の家でお會ひします。さよなら。
詩人はぽくんと一つ叩頭をして、逃げ出す氣持ちで坂を降りかけたが、何だか物足りないものを殘した氣がしたので、思はず振り向いた。
――お母さん、そのお孃さんはおいくつです。
母親は、こゝに至つて穴にも入りたく、身の置きどころもない樣子をして、手をむやみに磨り合はせてゐたが、顏はぐつと、斜にうつ向けたまゝ、答へたくないものを答へる調子でいつた。
――あの、それが、九つなのでございまして……。
これを聞くと西原氏は、おう! と虎のやうに叫んで、坂下目がけて驅け出した。口惜しいやうな、悲しいやうな、剽きんなやうな、何とも名状しがたい氣持ちがあとから押すやうで、西原氏は、毬のやうな身體のはずみを、坂から三四丁先きの我家まで一氣に飛ばした。そして家に有合せた酒をむやみに呑んで、誰にとも知れない恥かしいわく/\した氣持ちで、呑んで呑み拔いた酒に醉ひつぶれて仕舞つた。
あくる日、西原氏は母親に連れて來られた少女に書齋で會つた。聞いた歳よりはずつと大きく見える少女で、富家の子で榮養も好いのであらうが狂女の病的に發達しませた體躯の工合ひが十四、五歳位にも見える。明治初期の美人晝に見るやうな瓜實顏に目鼻立ちが派手についてゐて、凄い美人になりさうな少女だつた。一寸見ると、何處といつてきちがひじみた處も無かつたが、よく見ると、尖つた顎の削げ方と、額が押し竦められたやうに迫つて、それに一文字に濃い兩眉がひとに不安の感じを與へる。
少女は一寸伸び上り、おとなしく西原氏と眞向きの椅子に腰をかけると、眼ばたきもせず、しげしげと西原氏の顏を見惚れるのだつた。
西原氏はまた醉つたあくる日の朝の西原氏なので、昨夜のそわそわした氣持ちも拔けてぽかんとした中に嚴肅なものに對する一種の憧憬れを持つてゐるやうな氣分であつた。それで始めは、この狂少女に對して、たゞ憐れみが先に立ちそれほど見度い顏ならたくさん見せてあげようといつた具合ひに、青年顏と少女顏と壯年顏に佛顏が交つた西原氏のこの日本にあまりたぐひない――恰度西原氏の詩才と同じ樣な特色のある顏を濟して少女の方へ向け默つて鼻で息をしてゐた。
四月の朝の光線が、窓から一ぱいさし込んで、デスクから床の上へ雪崩のやうに落ち散らばつてゐる西原氏の詩稿の書き屑を目眩しく見せた。座敷のさういふ白いものや少女の白い顏に庭樹の芽吹きが薄青く反射した。
西原氏の顏へ向けた少女の凝視があまり續くので、母親が口を切つた。
――英子、折かく先生にお目にかゝつたのですから、何かお話をなさい。
すると少女は舞臺の人形振りのやうにこつんと一つうなづいて、大人のやうに、ゆつくり話し出した。
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