独房 - 小林 多喜二 ( こばやし たきじ )
誰でもそうだが、田口もあすこから出てくると、まるで人が変ったのかと思う程、饒舌(じょうぜつ)になっていた。八カ月もの間、壁と壁と壁と壁との間に――つまり小ッちゃいの一間(ひとま)に、たった一人ッ切りでいたのだから、自分で自分の声をきけるのは、独(ひと)り言(ごと)でもした時の外はないわけだ。何かものをしゃべると云ったところで、それも矢張り独り言でもした時のこと位だろう。その長い間、たゞ堰(せ)き止められる一方でいた言葉が、自由になった今、後から後からと押しよせてくるのだ。
保釈になった最初の晩、疲れるといけないと云うので、早く寝ることにしたのだが、田口はとうとう一睡もしないで、朝まで色んなことをしゃべり通してしまった。自分では興奮も何もしていないと云っていたし、身体の工合も顔色も別にそんなに変っていなかったが、約一年目に出てきたシャバは、矢張り知らずに彼を興奮させていたのだろう。
これは、田口の話である。別に小説と云うべきものでもない。
ズロースを忘れない娘さん
S署から「たらい廻(ま)わし」になって、Y署に行った時だった。
俺の入った留置場は一号監房だったが、皆はその留置場を「特等室」と云って喜んでいた。
「お前さん、いゝ処(ところ)に入れてもらったよ。」と云われた。
そこは隣りの家がぴッたりくッついているので、留置場の中へは朝から晩まで、ラジオがそのまんま聞えてきた。――野球の放送も、演芸も、浪花節も、オーケストラも。俺はすっかり喜んでしまった。これなら特等室だ、蒸(む)しッ返えしの二十九日も退屈なく過ごせると思った。然し皆はそのために「特等室」と云っているのではなかった。始め、俺にはワケが分らなかった。
ところが、二日目かに、モサ(スリのこと)で入っていた目付のこわい男が、ニヤ/\してながら自分の坐っている側へ寄って来てみれと云った。俺は好奇心にかられて、そこへズッて行くと、
「あすこを見ろ。」
と云って、窓から上を見上げた。
俺はそれで「特等室」の本当の意味が分った。
高い金棒の窓の丁度真ッ上が隣りの家の「物ほし」になっていて、十六七の娘さんが丁度洗濯物をもって、そこの急な梯子(はしご)を上って行くところだった。――それが真ッ下から、そのまゝ見上げられた。
その後、誰か一人が合図をすると、皆は看守に気取られないように、――顔は看守の方へ向けたまゝ、身体だけをズッて寄って行くことになった。
「ちえッ! 又、ズロースをはいてやがる!」
なれてくると、俺もそんな冗談を云うようになった。
「共産党がそんなことを云うと、品なしだぜ。」
とエンコ(公園)に出ている不良がひやかした。
よく小説にあるように、俺たちは何時でもむずかしい、深刻な面をして、此処(ここ)に坐ってばかりいるわけではないのだ。この決してズロースを忘れない娘さんに対する毎日々々の「期待」が、蒸しッ返えしの長い長い二十九日を、案外のん気に過ごさしてくれたようである。勿論(もちろん)その間に、俺は二三度調べに出て、竹刀(しない)で殴(な)ぐられたり、靴のまゝで蹴(け)られたり、締めこみをされたりして、三日も横になったきりでいたこともある。別の監房にいる俺たちの仲間も、帰えりには片足を引きずッて来たり、出て行く時に何んでもなかった着物が、背中からズタ/\に切られて戻ってきたりした。
「やられた」
と云って、血の気のなくなった顔を俺たちに向けたりした。
俺たちはその度に歯ぎしりをした。然し、そうでない時、俺たちは誰よりも一番|燥(はし)ゃいで、元気で、ふざけたりするのだ。
十日、七日、五日……。だん/\日が減って行った。そうだ、丁度あと三日という日の午後、夕立がやってきた。
「干物! 干物!」
となりの家の中では、バタ/\と周章(あわ)てゝるらしい。
しめた! 俺はニヤリとした。それは全く天裕(てんゆう)だった。――今日は忘れるぞ。
雨戸がせわしく開いて、娘さんが梯子を駈け上がって行く。俺は知らずに息をのんでいた。
畜生! 何んてことだ、又忘れてやがらない! 俺たちはがっかりしてしまった。
「六号!」
その時、看守が大声で怒鳴(どな)った。
見付けられたな、と思った。俺はギョッとした。見付けられたとすれば、俺だけではない、これから入ってくる何百という人たちの、こッそり蔵(しま)いこんでいた楽しみが奪われてしまうんだ。窓でも閉められてみろ、此処はそのまゝ穴蔵になってしまう。
保釈になった最初の晩、疲れるといけないと云うので、早く寝ることにしたのだが、田口はとうとう一睡もしないで、朝まで色んなことをしゃべり通してしまった。自分では興奮も何もしていないと云っていたし、身体の工合も顔色も別にそんなに変っていなかったが、約一年目に出てきたシャバは、矢張り知らずに彼を興奮させていたのだろう。
これは、田口の話である。別に小説と云うべきものでもない。
ズロースを忘れない娘さん
S署から「たらい廻(ま)わし」になって、Y署に行った時だった。
俺の入った留置場は一号監房だったが、皆はその留置場を「特等室」と云って喜んでいた。
「お前さん、いゝ処(ところ)に入れてもらったよ。」と云われた。
そこは隣りの家がぴッたりくッついているので、留置場の中へは朝から晩まで、ラジオがそのまんま聞えてきた。――野球の放送も、演芸も、浪花節も、オーケストラも。俺はすっかり喜んでしまった。これなら特等室だ、蒸(む)しッ返えしの二十九日も退屈なく過ごせると思った。然し皆はそのために「特等室」と云っているのではなかった。始め、俺にはワケが分らなかった。
ところが、二日目かに、モサ(スリのこと)で入っていた目付のこわい男が、ニヤ/\してながら自分の坐っている側へ寄って来てみれと云った。俺は好奇心にかられて、そこへズッて行くと、
「あすこを見ろ。」
と云って、窓から上を見上げた。
俺はそれで「特等室」の本当の意味が分った。
高い金棒の窓の丁度真ッ上が隣りの家の「物ほし」になっていて、十六七の娘さんが丁度洗濯物をもって、そこの急な梯子(はしご)を上って行くところだった。――それが真ッ下から、そのまゝ見上げられた。
その後、誰か一人が合図をすると、皆は看守に気取られないように、――顔は看守の方へ向けたまゝ、身体だけをズッて寄って行くことになった。
「ちえッ! 又、ズロースをはいてやがる!」
なれてくると、俺もそんな冗談を云うようになった。
「共産党がそんなことを云うと、品なしだぜ。」
とエンコ(公園)に出ている不良がひやかした。
よく小説にあるように、俺たちは何時でもむずかしい、深刻な面をして、此処(ここ)に坐ってばかりいるわけではないのだ。この決してズロースを忘れない娘さんに対する毎日々々の「期待」が、蒸しッ返えしの長い長い二十九日を、案外のん気に過ごさしてくれたようである。勿論(もちろん)その間に、俺は二三度調べに出て、竹刀(しない)で殴(な)ぐられたり、靴のまゝで蹴(け)られたり、締めこみをされたりして、三日も横になったきりでいたこともある。別の監房にいる俺たちの仲間も、帰えりには片足を引きずッて来たり、出て行く時に何んでもなかった着物が、背中からズタ/\に切られて戻ってきたりした。
「やられた」
と云って、血の気のなくなった顔を俺たちに向けたりした。
俺たちはその度に歯ぎしりをした。然し、そうでない時、俺たちは誰よりも一番|燥(はし)ゃいで、元気で、ふざけたりするのだ。
十日、七日、五日……。だん/\日が減って行った。そうだ、丁度あと三日という日の午後、夕立がやってきた。
「干物! 干物!」
となりの家の中では、バタ/\と周章(あわ)てゝるらしい。
しめた! 俺はニヤリとした。それは全く天裕(てんゆう)だった。――今日は忘れるぞ。
雨戸がせわしく開いて、娘さんが梯子を駈け上がって行く。俺は知らずに息をのんでいた。
畜生! 何んてことだ、又忘れてやがらない! 俺たちはがっかりしてしまった。
「六号!」
その時、看守が大声で怒鳴(どな)った。
見付けられたな、と思った。俺はギョッとした。見付けられたとすれば、俺だけではない、これから入ってくる何百という人たちの、こッそり蔵(しま)いこんでいた楽しみが奪われてしまうんだ。窓でも閉められてみろ、此処はそのまゝ穴蔵になってしまう。
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