狼疾記 - 中島 敦 ( なかじま あつし )
養其一指、而失其肩背、而不知也、則為狼疾人也。
――孟子――
一
スクリインの上では南洋土人の生活の実写がうつされていた。眼の細い・唇の厚い・鼻のつぶれた土人の女たちが、腰にちょっと布片を捲いただけで、乳房をぶらぶらさせながら、前に置いた皿のようなものの中から、何か頻(しき)りにつまんで喰べている。米の飯らしい。丸裸の男の児が駈けて来る。彼も急いでその米をつまんで口に入れる。口一杯頬張りながら眩(まぶ)しそうに此方へ向けた顔には、眼の上と口の周囲とに膿み爛(ただ)れた腫物が出来ている。男の児はまた向うをむいて喰べ始める。
それが消えて、祭か何かの賑かな場面に代る。どんどんどんどんと太鼓の音が遠くなり近くなりして聞える。対(むか)い合った男女の列が一斉に尻を振りながら、それに合わせて動き出す。砂地に照りつける熱帯の陽の強さは、画面の光の白さで、それとはっきり想像される。太鼓が響く。乱暴な男声の合唱がそれに交って聞えて来る。尻が揺れ、腰に纏(まと)った布片がざわざわと揺れる。踊(おどり)から少し離れた老人たちの中心に、酋長(しゅうちょう)らしい男が胡坐(あぐら)をかいている。痩(や)せた・顴骨(かんこつ)の出た老人で、頸(くび)に珠数のような飾を幾つも着けている。撮影されていることを意識してか、妙に落着の無い・蕃地での自信をすっかりなくしてしまったような眼付をして、踊を眺めている。時々思い出したように乱暴な飛躍と喚声と太鼓の強打とを伴うほか、いつまで経っても同じような単調な踊を、しょぼしょぼした目でじっと見詰めている。
見ている中に、三造は、久しく忘れていた或る奇妙な不安が、いつの間にかまた彼の中に忍び込んで来ているのを感じた。
久しい以前のことである。その頃三造はこういうものを――原始的な蛮人の生活の記録を読んだり、その写真を見たりするたびに、自分も彼らの一人として生れてくることは出来なかったものだろうか、と考えたものであった。確かに、とその頃の彼は考えた。確かに自分も彼ら蛮人どもの一人として生れて来ることも出来たはずではないのか? そして輝かしい熱帯の太陽の下に、唯物論も維摩居士(ゆいまこじ)も無上命法も、ないしは人類の歴史も、太陽系の構造も、すべてを知らないで一生を終えることも出来たはずではないのか? この考え方は、運命の不確かさについて、妙に三造を不安にした。「同様に自分は」と、彼は考え続ける。「自分は、今の人間とは違った・更に高い存在――それは他の遊星の上に棲(す)むものであろうと、あるいは我々の眼に見えない存在であろうと、または、時代を異にした・人類の絶滅したあとの地球上に出て来るものであろうと、――に生れて来ることも可能だったのではないか? その正体が解らない故に我々が恐怖の感情を以て偶然と呼んでいるものが、ほんのちょっとその動き方を変えさえしたなら、そのような事が自分に起らなかったと誰が言えよう。そして、もしも自分がそのような存在に生れていたとすれば、今の自分には見ることも聞くことも、ないしは考えることも出来ないような・あらゆる事を見、聞き、考えることが出来たであろう。」こう考えるのは彼にとって堪えがたく恐ろしいことであった。と同時に、堪えがたくいらだたしいものでもあった。この世には自分に見ることも聞くことも考えることも(経験的にではなく能力上)出来ないものが有り得る。自分が違った存在であったら考えることが出来たであろうことを、自分が今の存在であるばかりに考えることも出来ぬ。こう考えて来ると、漠とした不安の中にありながら、なお当時の三造は、一種の屈辱に似たものを覚えるのであった。
スクリインでは先刻の踊の場面が消えて密林の風景にかわっている。手と尾との長い真黒な猿が幾匹となく枝から枝へと跳渡っている。ひょいと立止って此方を見た・その猿の一匹は、眼の縁に白い輪がかかっていて、眼鏡をかけているように見える。嘴(くちばし)の二|呎(フィート)もありそうな鳥が厭な声を立てて枝から飛立つ。
三造の考えは再び「存在の不確かさ」に戻って行く。
彼が最初にこういう不安を感じ出したのは、まだ中学生の時分だった。ちょうど、字というものは、ヘンだと思い始めると、――その字を一部分一部分に分解しながら、一体この字はこれで正しいのかと考え出すと、次第にそれが怪しくなって来て、段々と、その必然性が失われて行くと感じられるように、彼の周囲のものは気を付けて見れば見るほど、不確かな存在に思われてならなかった。それが今ある如くあらねばならぬ理由が何処(どこ)にあるか? もっと遥かに違ったものであっていいはずだ。おまけに、今ある通りのものは可能の中での最も醜悪なものではないのか? そうした気持が絶えず中学生の彼につき纏うのであった。自分の父について考えて見ても、あの眼とあの口と、(その眼や口や鼻を他と切離して一つ一つ熟視する時、特に奇異の感に打たれるのだったが)その他、あの通りの凡(すべ)てを備えた一人の男が、何故自分の父であり、自分とこの男との間に近い関係がなければならなかったのか、と愕然(がくぜん)として、父の顔を見直すことがその頃しばしばあった。何故あの通りでなければならなかったのか。他の男ではいけなかったのだろうか?……周囲の凡てに対し、三造は事ごとにこの不信を感じていた。自分を取囲んでいる・あらゆるものは、何と必然性に欠けていることだろう。世界は、まあ何という偶然的な仮象の集まりなのだろう! 彼はイライラしていつもこのことばかり考えていた。時として何だか凡てが解りかけて来そうな気がすることもないではなかった。それは、つまりその場合その偶然が――何から何まで偶然だということが結局ただ一つの必然なのではないか、という・少年らしい曖昧な考え方であった。それで簡単に解答が与えられたような気がすることもあった。そうでない時もあった。
それが消えて、祭か何かの賑かな場面に代る。どんどんどんどんと太鼓の音が遠くなり近くなりして聞える。対(むか)い合った男女の列が一斉に尻を振りながら、それに合わせて動き出す。砂地に照りつける熱帯の陽の強さは、画面の光の白さで、それとはっきり想像される。太鼓が響く。乱暴な男声の合唱がそれに交って聞えて来る。尻が揺れ、腰に纏(まと)った布片がざわざわと揺れる。踊(おどり)から少し離れた老人たちの中心に、酋長(しゅうちょう)らしい男が胡坐(あぐら)をかいている。痩(や)せた・顴骨(かんこつ)の出た老人で、頸(くび)に珠数のような飾を幾つも着けている。撮影されていることを意識してか、妙に落着の無い・蕃地での自信をすっかりなくしてしまったような眼付をして、踊を眺めている。時々思い出したように乱暴な飛躍と喚声と太鼓の強打とを伴うほか、いつまで経っても同じような単調な踊を、しょぼしょぼした目でじっと見詰めている。
見ている中に、三造は、久しく忘れていた或る奇妙な不安が、いつの間にかまた彼の中に忍び込んで来ているのを感じた。
久しい以前のことである。その頃三造はこういうものを――原始的な蛮人の生活の記録を読んだり、その写真を見たりするたびに、自分も彼らの一人として生れてくることは出来なかったものだろうか、と考えたものであった。確かに、とその頃の彼は考えた。確かに自分も彼ら蛮人どもの一人として生れて来ることも出来たはずではないのか? そして輝かしい熱帯の太陽の下に、唯物論も維摩居士(ゆいまこじ)も無上命法も、ないしは人類の歴史も、太陽系の構造も、すべてを知らないで一生を終えることも出来たはずではないのか? この考え方は、運命の不確かさについて、妙に三造を不安にした。「同様に自分は」と、彼は考え続ける。「自分は、今の人間とは違った・更に高い存在――それは他の遊星の上に棲(す)むものであろうと、あるいは我々の眼に見えない存在であろうと、または、時代を異にした・人類の絶滅したあとの地球上に出て来るものであろうと、――に生れて来ることも可能だったのではないか? その正体が解らない故に我々が恐怖の感情を以て偶然と呼んでいるものが、ほんのちょっとその動き方を変えさえしたなら、そのような事が自分に起らなかったと誰が言えよう。そして、もしも自分がそのような存在に生れていたとすれば、今の自分には見ることも聞くことも、ないしは考えることも出来ないような・あらゆる事を見、聞き、考えることが出来たであろう。」こう考えるのは彼にとって堪えがたく恐ろしいことであった。と同時に、堪えがたくいらだたしいものでもあった。この世には自分に見ることも聞くことも考えることも(経験的にではなく能力上)出来ないものが有り得る。自分が違った存在であったら考えることが出来たであろうことを、自分が今の存在であるばかりに考えることも出来ぬ。こう考えて来ると、漠とした不安の中にありながら、なお当時の三造は、一種の屈辱に似たものを覚えるのであった。
スクリインでは先刻の踊の場面が消えて密林の風景にかわっている。手と尾との長い真黒な猿が幾匹となく枝から枝へと跳渡っている。ひょいと立止って此方を見た・その猿の一匹は、眼の縁に白い輪がかかっていて、眼鏡をかけているように見える。嘴(くちばし)の二|呎(フィート)もありそうな鳥が厭な声を立てて枝から飛立つ。
三造の考えは再び「存在の不確かさ」に戻って行く。
彼が最初にこういう不安を感じ出したのは、まだ中学生の時分だった。ちょうど、字というものは、ヘンだと思い始めると、――その字を一部分一部分に分解しながら、一体この字はこれで正しいのかと考え出すと、次第にそれが怪しくなって来て、段々と、その必然性が失われて行くと感じられるように、彼の周囲のものは気を付けて見れば見るほど、不確かな存在に思われてならなかった。それが今ある如くあらねばならぬ理由が何処(どこ)にあるか? もっと遥かに違ったものであっていいはずだ。おまけに、今ある通りのものは可能の中での最も醜悪なものではないのか? そうした気持が絶えず中学生の彼につき纏うのであった。自分の父について考えて見ても、あの眼とあの口と、(その眼や口や鼻を他と切離して一つ一つ熟視する時、特に奇異の感に打たれるのだったが)その他、あの通りの凡(すべ)てを備えた一人の男が、何故自分の父であり、自分とこの男との間に近い関係がなければならなかったのか、と愕然(がくぜん)として、父の顔を見直すことがその頃しばしばあった。何故あの通りでなければならなかったのか。他の男ではいけなかったのだろうか?……周囲の凡てに対し、三造は事ごとにこの不信を感じていた。自分を取囲んでいる・あらゆるものは、何と必然性に欠けていることだろう。世界は、まあ何という偶然的な仮象の集まりなのだろう! 彼はイライラしていつもこのことばかり考えていた。時として何だか凡てが解りかけて来そうな気がすることもないではなかった。それは、つまりその場合その偶然が――何から何まで偶然だということが結局ただ一つの必然なのではないか、という・少年らしい曖昧な考え方であった。それで簡単に解答が与えられたような気がすることもあった。そうでない時もあった。
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