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猟奇の街 - 佐左木 俊郎 ( ささき としろう )

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 東京は靄(もや)の濃い晩秋だった。街は靄から明けて靄の中に暮れていった。――冷えびえと蠢(うごめ)いているこの羅(うすもの)の陰には何事かがある? 本当に、何事かが起こっているに相違ない?――彼は東京の靄が濃くなるごとに、この抽象的観念に捉(とら)えられるのだった。猟奇的な気持ちでありながら、また一種の恐怖観念なのであった。
 彼はある朝早く、濃い靄に包まれている街の中を工場地帯に向けて歩いていた。どこか遠くの遠くから夜明け足音静かに近づいてくる。――ぎりりゅう、と骨を擦り合わせるように電車が軋(きし)る。犬が底の底から空腹を告げる。自動車警笛が眠い頭を揺り醒(さ)ましていく。気忙(きぜわ)しくドアの開かれる音。――靄の中に錯綜(さくそう)する微(かす)かな雑音が、身辺の危険区域まで近づいてきては遠ざかり、遠ざかってはまた脅かすように羅のすぐ裏まで忍び寄ってくるのだった。
 敷石道を蹴立(けた)てる靴音のその音波で、靄はうらうらと溶けていった。その裂け目からバラック建物浮き出してくる。道は間もなく橋にかかった。黒い木橋は夢の国への通路のように、幽(かす)かに幽かに、その尾を羅の帳(とばり)の奥の奥に引いている。そして空の上には、高層建築蜃気楼(しんきろう)のように茫(ぼう)と浮かんでいた。
「あなた! まあ! あなた! わたしを迎えに戻ってきてくだすったの?」
 彼は驚きの目で振り返りながら立ち止まった。白い着物を着て橋の袂(たもと)に佇(たたず)んでいたその女は、叫びながら彼に跳びついてきた。
「ほんとによく戻ってきてくださったわね。それで、坊やをどうしましょうね?」
 彼女は皓(しろ)い歯を見せて語りかけながら、彼の腕に掴(つか)まった。
「人違いじゃないですか?」
 彼は自分の腕を掴んだ彼女の手を、静かに引き放しながら言った。
「わたしになにもそんな、立派言葉を使わないでもいいのよ」
「はは……どうかしてやしませんか?」
「そりゃ、するはずだわ。何もかも、因(もと)を言えばあなたが悪いからよ」
「ぼくが悪いんですって?」
「いちばん悪いのはそりゃあなたじゃないけれど、やはりあなただって悪いわ。いったい、どうしてあんなに逃げ回ったんですの?」
「はは……困ったな。ぼくはちっとも逃げ回りなんかしやしませんよ。ぼくはこれから工場へ行くところなんです」
工場へ? 工場へだけはおよしなさいよ。あなたはまだ工場へなど行くつもりですの?」
 彼女は目を輝かせながら、また両手で彼の腕に縋(すが)りついた。
大丈夫ですよ。逃げはしないから、大丈夫ですよ」
「ほんとに行かない? どんなことがあっても、工場へだけは行っちゃ駄目よ」
 彼女はそう言って、静かに彼の手を放した。
「行きたくなくたって、行かなければこっちが干乾(ひぼ)しになるじゃないですか?」
「まあ! あなたはまだそんな気持ちでいるの? 困るわね。あなたが逃げ回っている間にわたしたちがどんな目に遭ったか、あなたは知らないんですか? あなたは何もかも知っているくせに、よくもそんな馬鹿(ばか)なことが言えるのね?」
「あなたは人違いをしているんでしょう」
「どうしてあなた、なんて言うの? どうして前のように、おまえ! って言わないの? わたし、前のように、おまえ! って言ってもらいたいわ」
「はは……困った人だな、もういい加減にしてください。工場のほうが遅くなるから……」
「あなたは呆(あき)れた人ね。まだ工場のことを言っているの? あなたは自分逃げ回っている間にどんなことがあったか、本当になんにも知らないの? ごまかしてまた逃げようたって駄目よ。本当にあの工場へだけは、どんなことがあっても行っちゃいけないわ。どんなことがあっても駄目よ」
 彼女はまた固く彼の手を掴んだ。
「困るな。はは……困った人だな」
「あなたは本当に、なにも知らないの? 本当に知らないなら話してあげるわ。まあ、わたしの話を聞いていらっしゃい! ね」
 彼女はそう言いながら、彼を引っ張った。彼は引っ張られるままに橋の袂へ行った。そこには、これから架橋工事が始まるらしく四角に截(き)った御影石(みかげいし)が幾つもごろごろと置いてあった。彼女は彼の手を掴んだままその一つに腰を下ろした。彼もその傍らに腰を据えた。
「そら、あなた、あの泣き声聞こえない? 聞こえるでしょう? 坊やの泣いているのが……ね?」
 彼女はそう言って、靄の上に蜃気楼のように浮かんでいる高層建築のほうを指さしながら、聞き耳を立てるようにした。
「ぼくには、そんな泣き声なんか聞こえませんがね。あなたは頭がどうかなってるのじゃないですか?」
「わたしの頭がどうかなったっていうの? そりゃ、頭もどうにかなりそうだったわ。気がおかしくなりそうだったわ。でもわたし、あなたを捜し当てるまでは、捜し当てるまではと思って、おかしくならないでいたのよ。おかしくならないでいて、あなたに何もかも話してあげなければいけないと思っていたのよ」
 彼女真面目(まじめ)だった。言われてみると、やはり彼女正気らしかった。だいいち、彼女は身奇麗にしていた。


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