現代文学の広場 創作方法のこと・そのほか 関連リンク

宮本 百合子 のオススメ作品

作家別索引

作品別索引

現代文学の広場 創作方法のこと・そのほか - 宮本 百合子 ( みやもと ゆりこ )

  • ♪日本現代文学全集(別巻1・2)◎日本現代文学史◎N-389
  • “川端康成”【古都・眠れる美女・千羽鶴・他】新潮現代文学1
  • ★新潮現代文学11船橋聖一「雪夫人絵図」「好きな女の胸飾り
  • 島崎藤村集(一)(二) 8,9 現代文学大系 筑摩書房
  • ■ 柳美里『ゴールド・ラッシュ』 現代文学小説家作家 ■
  • ●昔がたり 野上弥生子 名作自選日本現代文学館
  • ■ 内田春菊『ファザーファッカー』 自伝小説現代文学史 ■
  • 即決★深沢七郎★笛吹川/楢山節考◆新潮現代文学 47
  • “丹羽文雄”【魂の試される時】新潮現代文学10
  • “中野重治”【梨の花・ある楽しさ・他】新潮現代文学3
次のページ
現代文学広場 ――創作方法のこと・そのほか――  去年おしつまってから肉体派小説中間小説作者一部作家批評家との間に、ちょっとしたやりとりがあって注目をひいた。  その討論に、三好十郎出場して「小豚派作家論」という題をもつ彼一流の毒舌的な評論をかいた。肉体派中間小説派の作者たちとその作品のそまつな戦後商品性を、へど的にむき出してその安価さを排撃した。けれども、「小豚派作家論」と題してきり出された勇ましいその評論も、すえは何となししんみりして、最後のくだり一転は筆者がひとしおいとしく思っている心境小説作家尾崎一雄を、ひいきしている故にたしなめるという前おきできめつける、歌舞伎ごのみの思い入れにおわった。ジャーナリズムの上に一年間も八方に向って文学的へどをはきつづけることのできた強壮な三好十郎が、どうして「小豚派作家論」の終りは、そのように我からしんみりとなって、とどのつまりは尾崎一雄におもてを向け、結局君なんかがもうすこし、しっかりしないからいけないのだ、と半ばたしなめ、半ばあきらめて歎息することになったのであったろう。
 三好十郎は、いわゆる肉体派作家中間小説を主張する作家の多くの人々の人生態度作品の安易な商品性を明らか軽蔑する。けれどもその軽蔑にもかかわらず、他の一面では、彼の名づける小豚派文学の、発生社会起源について、否定しきれないものをもっている。はげしい前線生活経験して来た壮年一部作家たちが、戦後日本の錯雑した現実に面して、過去私小説的なリアリズム限界の内にとどまっているにたえないのは必然である。日本社会現実を全面的にすくい上げようとして彼ら一部作家たちは新しい投げ網をこころみている。少くとも、その必然と大胆さは認めてやらなければならない、と。過去私小説やそのリアリズムにあきたりない思いは、三好十郎自身のうちに烈しく存在している。その共感にひかされて、三好十郎毒舌も、しまいはブツブツ、現在肉体派中間小説が、現代文学の新しい局面を展くためには、無益であるばかりか有害でさえあるという事実を批判しきれなかった。
 その討論の時期に、伊藤整東京新聞文芸欄で発言した。肉体小説中間文学に対する彼のもの言いは、非常に機智的であった。否定するかとみれば、一部の肯定もあり、さりながら単純な肯定一本で貫かれているという見解でもなかった。伊藤整を、そのように複雑なもの云いにさせたのは何であったろう。彼にも、過去リアリズム否定と、狭い日常性に封じこまれて来た、日本私小説への反逆がある。彼の知性が、よりひろく、強靭であろうと欲している、その角度から少くとも、私小説的な要素を否定している意味での中間小説に対して、単純な断定をさけさせたのであったと考えられる。
 昨年十二月号『群像』の月評座談会で、林房雄は、宇野浩二の書いた「文学者御前会議」(文学者天皇に会ったときの記録)にふれ、宇野という作家私小説作家性をやっつけた。人も知る天皇主義者である林房雄は、宇野浩二というその人なりのリアリストが、その人なりのリアリズム天皇とその周囲の雰囲気をなみの人間の目やすから観察し、描き出したのを、文学のために生活そのものをたねにする私小説作家気質と罵った。吉田健一の「英国文学論」を引いて、イギリスでのように文学日常生活のふち飾りであるべきだと、林のこんにち的内容をもった「大人文学」論をのべている。そして、同座の中野好夫に向って、あなたもこれから批評家としてやって行くためにはこの点だけはよく心得ておきなさい、といった意味を、きわめて高びしゃに申しわたしている。批評家中野好夫は、林の僭越さにむっとしたからこそ沈黙をもって答えたのだったろう。しかし、読者としては、中野好夫沈黙で答えたもう一つの理由も感じとられなくはなかった。中野好夫場合にも、前にふれた二人の作家と同じように、私小説私小説リアリズム否定している自分自覚されている。その自覚におさえられて宇野リアリズムは別の問題として林のこんにちの「大人文学」論の本質に迫ることをしなかった。
 昨年は一般批評の沈滞した年としてかえりみられている。民主主義文学運動が沈滞して、批評の沈滞がひきおこされた点からだけ見ようとしているひともあったようだ。しかし、批評が無力であった根本原因は、ある人のいうように、民主主義文学も「たかがしれた」からだけではない。戦後、すべての批評家作家読者過去私小説とその手法では再現されきれない社会現実とその心理があることをいら立たしく意識しているのに――肉体派小説中間小説商品性に対してはおのずから批判が感じられているのに――さて、それならば爪先をそろえて颯爽と、どのようなより社会的な創作の方向に進んでゆくかとなると、三好十郎のところでも、伊藤整のところでも、自身の文学の課題として解決が見出されていない。したがって、批評家である中野好夫の足も、私小説とその方法否定という線であしぶみをくりかえすことになっているからであった。
 現代文学における各作家社会認識或は社会感覚と各自の創作方法との間には、おおいがたいギャップがある。その歴史的な亀裂の間から、肉体派小説論、中間派小説論が日本小説フィクション性を主張して湧き出たが、その文学空虚実体があきられて、記録文学流行を導き出し、その目新しさも忽ち古びて現在では実名小説がはやりはじめた。その実名小説も多くは、高見順をして「これはなかなか死ねないぞ」と苦笑させるほどの人生文学的程度である。
 こんにち、文壇作家たちが、めいめいの特色となっている角度ニュアンスを失うまいとしながら社会現実観と自己の創作方法との間に生じている悲劇的な裂けめにはさまって苦闘しているばかりではない。現代文学のその裂けめから、おびただしい土砂崩壊がおこっている。それがより若い文壇世代の足を埋めているばかりか、不可避的にそれらの文学読者であるよりひろい人民層の中から新しく別個の社会的素質をもってのび立って来ようとしている民主的な文学の芽生えさえも、その成長を歪め、畸型にする作用を及ぼしている。いわゆるかすとり小説影響がどんなにひどいかということは、さきごろ国立癩療養所の病者によってつくられた作品集をよんでも、まざまざと感じられた。これらの不幸な人々は、自身の不幸についてさえまともな人生問題社会問題として正面からとりくむ態度を、いわゆる流行小説の手法にはぐらかされている。安価フィクションとよみもの的な情景の設定で、人間の悲痛を猟奇にすりかえてしまっている。
 勤労者としての生活を営んでいる人々の「文学ずき」が、同じく現代文学におこっているなだれの下じきになっている。そして「細雪」は「天然映画のようにたっぷりして、刺戟がなくて、たのしめるもの」(東京新聞)として数十万部をうりつくしていると語られている。ある種の人々は、日本現代文学植民地化される人民日常生活のふち飾りと化して、現実生活では見たこともないのびやかな生活の語られる白昼夢のようなものにしてしまうことをいとっていない。むしろそれに拍車をかけている。けれども、ここに一つ、人間理性文学真実にとって、おもしろい現実がある。それは、ひごろ「細雪」の世界に随喜して、最大限のほめ言葉を惜しまない人々でも、ノーベル賞世界平和賞のために日本から送られるべき候補作品としてはただ一人も「細雪」を推薦しなかった事実である。炬燵(こたつ)の中の雪見酒めいた文学風情は、第二次大戦後の人類が、平和をもとめ、生活安定をもとめてたたかっている苦痛と良心に対して、さすがにあつかましく押し出すにたえ得なかったのであった。
 この実例は、ある人々の日ごろの社会的、文学態度の安易さがばくろされたモメントとして見るよりは、むしろ、現代文学のこの崩壊にかかわらず、やはり文学につながる理性人間的良心のうちには、くらましきれない責任感がのこされている、という角度から観られてよいと思う。なぜなら、この一つの事実の中にも、現代文学に要求されているのは、社会性であるという確実な証拠があらわれているからである。
 三好十郎毒舌が呟きに終り、中野好夫沈黙するのも、現在より多く否定的な文学現象でしかあらわされていない文学動きの中にさえ、明日文学がよりひろい社会実在として展開することを期待する心が働いているからである。


次のページ

宮本 百合子 (みやもと ゆりこ) 以外のオススメ作品

現代文学の広場 創作方法のこと・そのほか のリンク元

「現代文学の広場 創作方法のこと・そのほか-宮本 百合子」の関連ページ


関連ページ
Web Services by Yahoo! JAPAN