琵琶伝 - 泉 鏡花 ( いずみ きょうか )
一
新婦が、床杯(とこさかずき)をなさんとて、座敷より休息の室(ま)に開きける時、介添の婦人(おんな)はふとその顔を見て驚きぬ。
面貌(めんぼう)ほとんど生色なく、今にも僵(たお)れんずばかりなるが、ものに激したる状(さま)なるにぞ、介添は心許(こころもと)なげに、つい居て着換を捧げながら、
「もし、御気分でもお悪いのじゃございませんか。」
と声を密(ひそ)めてそと問いぬ。
新婦は凄冷(せいれい)なる瞳を転じて、介添を顧みつ。
「何。」
とばかり簡単に言捨てたるまま、身さえ眼をさえ動かさで、一心ただ思うことあるその一方を見詰めつつ、衣を換うるも、帯を緊(し)むるも、衣紋(えもん)を直すも、褄(つま)を揃うるも、皆|他(ひと)の手に打任せつ。
尋常(ただ)ならぬ新婦の気色を危(あやぶ)みたる介添の、何かは知らずおどおどしながら、
「こちらへ。」
と謂(い)うに任せ、渠(かれ)は少しも躊躇(ためら)わで、静々と歩を廊下に運びて、やがて寝室に伴われぬ。
床にはハヤ良人(おっと)ありて、新婦の来(きた)るを待ちおれり。渠は名を近藤重隆と謂う陸軍の尉官(いかん)なり。式は別に謂わざるべし、媒妁(なこうど)の妻退き、介添の婦人(おんな)皆|罷出(まかんで)つ。
ただ二人、閨(ねや)の上に相対し、新婦は屹(きっ)と身体(からだ)を固めて、端然として坐したるまま、まおもてに良人の面(おもて)を瞻(みまも)りて、打解けたる状(さま)毫(すこし)もなく、はた恥らえる風情も無かりき。
尉官は腕を拱(こまぬ)きて、こもまた和(やわら)ぎたる体(てい)あらず、ほとんど五分時ばかりの間、互に眼と眼を見合せしが、遂に良人まず粛(さ)びたる声にて、
「お通。」
とばかり呼懸けつ。
新婦の名はお通ならむ。
呼ばるるに応(こた)えて、
「はい。」
とのみ。渠は判然(きっぱり)とものいえり。
尉官は太(いた)く苛立(いらだ)つ胸を、強いて落着けたらんごとき、沈める、力ある音調もて、
「汝(おまえ)、よく娶(き)たな。」
お通は少しも口籠(くちごも)らで、
「どうも仕方がございません。」
尉官はしばらく黙しけるが、ややその声を高うせり。
「おい、謙三郎はどうした。」
「息災で居(お)ります。」
「よく、汝(おまえ)、別れることが出来たな。」
「詮方(しかた)がないからです。」
「なぜ、詮方がない。うむ。」
お通はこれが答をせで、懐中(ふところ)に手を差入れて一通の書を取出し、良人の前に繰広げて、両手を膝に正してき。尉官は右手(めて)を差伸(さしのば)し、身近に行燈(あんどん)を引寄せつつ、眼(まなこ)を定めて読みおろしぬ。
文字(もんじ)は蓋(けだ)し左(さ)のごときものにてありし。
お通に申残し参らせ候、御身(おんみ)と近藤重隆殿とは許婚(いいなずけ)に有之(これあり)候
然(しか)るに御身は殊の外|彼(か)の人を忌嫌い候様子、拙者の眼に相見え候えば、女(むすめ)ながらも其由(そのよし)のいい聞け難くて、臨終(いまわ)の際まで黙し候
さ候えども、一旦親戚の儀を約束いたし候えば、義理堅かりし重隆殿の先人に対し面目なく、今さら変替(へんがえ)相成らず候あわれ犠牲(いけにえ)となりて拙者の名のために彼の人に身を任せ申さるべく、斯(こ)の遺言を認(したた)め候時の拙者が心中の苦痛を以て、御身に謝罪いたし候
月 日清川|通知(みちとも)
お通殿
二度三度繰返して、尉官は容(かたち)を更(あらた)めたり。
「通、吾(おれ)は良人だぞ。」
お通は聞きて両手を支(つか)えぬ。
「はい、貴下(あなた)の妻でございます。」
その時尉官は傲然(ごうぜん)として俯向(うつむ)けるお通を瞰下(みおろ)しつつ、
「吾のいうことには、汝(おまえ)、きっと従うであろうな。」
此方(こなた)は頭(こうべ)を低(た)れたるまま、
「いえ、お従わせなさらなければ不可(いけ)ません。」
尉官は眉を動かしぬ。
「ふむ。しかし通、吾を良人とした以上は、汝、妻たる節操は守ろうな。」
お通は屹(きっ)と面を上げつ、
「いいえ、出来さえすれば破ります。」
尉官は怒気心頭を衝(つ)きて烈火のごとく、
「何だ!」
とその言を再びせしめつ。お通は怯(お)めず、臆(おく)する色なく、
「はい。私に、私に、節操を守らねばなりませんという、そんな、義理はございませんから、出来さえすれば破ります!」
恐気(おそれげ)もなく言放てる、片頬に微笑(えみ)を含みたり。
尉官は直ちに頷(うなず)きぬ。胸中|予(あらかじ)めこの算ありけむ、熱の極は冷となりて、ものいいもいと静(しずか)に、
「うむ、きっと節操を守らせるぞ。」
渠は唇頭(しんとう)に嘲笑(ちょうしょう)したりき。
二
相本謙三郎はただ一人清川の書斎に在り。当所(あてど)もなく室(へや)の一方を見詰めたるまま、黙然(もくねん)として物思えり。渠(かれ)が書斎の椽前(えんさき)には、一個|数寄(すき)を尽したる鳥籠(とりかご)を懸けたる中に、一羽の純白なる鸚鵡(おうむ)あり、餌(え)を啄(ついば)むにも飽きたりけむ、もの淋しげに謙三郎の後姿を見|遣(や)りつつ、頭(かしら)を左右に傾けおれり。一室|寂(じゃく)たることしばしなりし、謙三郎はその清秀なる面(おもて)に鸚鵡を見向きて、太(いた)く物案ずる状(さま)なりしが、憂うるごとく、危(あやぶ)むごとく、はた人に憚(はばか)ることあるもののごとく、「琵琶(びわ)。
と声を密(ひそ)めてそと問いぬ。
新婦は凄冷(せいれい)なる瞳を転じて、介添を顧みつ。
「何。」
とばかり簡単に言捨てたるまま、身さえ眼をさえ動かさで、一心ただ思うことあるその一方を見詰めつつ、衣を換うるも、帯を緊(し)むるも、衣紋(えもん)を直すも、褄(つま)を揃うるも、皆|他(ひと)の手に打任せつ。
尋常(ただ)ならぬ新婦の気色を危(あやぶ)みたる介添の、何かは知らずおどおどしながら、
「こちらへ。」
と謂(い)うに任せ、渠(かれ)は少しも躊躇(ためら)わで、静々と歩を廊下に運びて、やがて寝室に伴われぬ。
床にはハヤ良人(おっと)ありて、新婦の来(きた)るを待ちおれり。渠は名を近藤重隆と謂う陸軍の尉官(いかん)なり。式は別に謂わざるべし、媒妁(なこうど)の妻退き、介添の婦人(おんな)皆|罷出(まかんで)つ。
ただ二人、閨(ねや)の上に相対し、新婦は屹(きっ)と身体(からだ)を固めて、端然として坐したるまま、まおもてに良人の面(おもて)を瞻(みまも)りて、打解けたる状(さま)毫(すこし)もなく、はた恥らえる風情も無かりき。
尉官は腕を拱(こまぬ)きて、こもまた和(やわら)ぎたる体(てい)あらず、ほとんど五分時ばかりの間、互に眼と眼を見合せしが、遂に良人まず粛(さ)びたる声にて、
「お通。」
とばかり呼懸けつ。
新婦の名はお通ならむ。
呼ばるるに応(こた)えて、
「はい。」
とのみ。渠は判然(きっぱり)とものいえり。
尉官は太(いた)く苛立(いらだ)つ胸を、強いて落着けたらんごとき、沈める、力ある音調もて、
「汝(おまえ)、よく娶(き)たな。」
お通は少しも口籠(くちごも)らで、
「どうも仕方がございません。」
尉官はしばらく黙しけるが、ややその声を高うせり。
「おい、謙三郎はどうした。」
「息災で居(お)ります。」
「よく、汝(おまえ)、別れることが出来たな。」
「詮方(しかた)がないからです。」
「なぜ、詮方がない。うむ。」
お通はこれが答をせで、懐中(ふところ)に手を差入れて一通の書を取出し、良人の前に繰広げて、両手を膝に正してき。尉官は右手(めて)を差伸(さしのば)し、身近に行燈(あんどん)を引寄せつつ、眼(まなこ)を定めて読みおろしぬ。
文字(もんじ)は蓋(けだ)し左(さ)のごときものにてありし。
お通に申残し参らせ候、御身(おんみ)と近藤重隆殿とは許婚(いいなずけ)に有之(これあり)候
然(しか)るに御身は殊の外|彼(か)の人を忌嫌い候様子、拙者の眼に相見え候えば、女(むすめ)ながらも其由(そのよし)のいい聞け難くて、臨終(いまわ)の際まで黙し候
さ候えども、一旦親戚の儀を約束いたし候えば、義理堅かりし重隆殿の先人に対し面目なく、今さら変替(へんがえ)相成らず候あわれ犠牲(いけにえ)となりて拙者の名のために彼の人に身を任せ申さるべく、斯(こ)の遺言を認(したた)め候時の拙者が心中の苦痛を以て、御身に謝罪いたし候
月 日清川|通知(みちとも)
お通殿
二度三度繰返して、尉官は容(かたち)を更(あらた)めたり。
「通、吾(おれ)は良人だぞ。」
お通は聞きて両手を支(つか)えぬ。
「はい、貴下(あなた)の妻でございます。」
その時尉官は傲然(ごうぜん)として俯向(うつむ)けるお通を瞰下(みおろ)しつつ、
「吾のいうことには、汝(おまえ)、きっと従うであろうな。」
此方(こなた)は頭(こうべ)を低(た)れたるまま、
「いえ、お従わせなさらなければ不可(いけ)ません。」
尉官は眉を動かしぬ。
「ふむ。しかし通、吾を良人とした以上は、汝、妻たる節操は守ろうな。」
お通は屹(きっ)と面を上げつ、
「いいえ、出来さえすれば破ります。」
尉官は怒気心頭を衝(つ)きて烈火のごとく、
「何だ!」
とその言を再びせしめつ。お通は怯(お)めず、臆(おく)する色なく、
「はい。私に、私に、節操を守らねばなりませんという、そんな、義理はございませんから、出来さえすれば破ります!」
恐気(おそれげ)もなく言放てる、片頬に微笑(えみ)を含みたり。
尉官は直ちに頷(うなず)きぬ。胸中|予(あらかじ)めこの算ありけむ、熱の極は冷となりて、ものいいもいと静(しずか)に、
「うむ、きっと節操を守らせるぞ。」
渠は唇頭(しんとう)に嘲笑(ちょうしょう)したりき。
二
相本謙三郎はただ一人清川の書斎に在り。当所(あてど)もなく室(へや)の一方を見詰めたるまま、黙然(もくねん)として物思えり。渠(かれ)が書斎の椽前(えんさき)には、一個|数寄(すき)を尽したる鳥籠(とりかご)を懸けたる中に、一羽の純白なる鸚鵡(おうむ)あり、餌(え)を啄(ついば)むにも飽きたりけむ、もの淋しげに謙三郎の後姿を見|遣(や)りつつ、頭(かしら)を左右に傾けおれり。一室|寂(じゃく)たることしばしなりし、謙三郎はその清秀なる面(おもて)に鸚鵡を見向きて、太(いた)く物案ずる状(さま)なりしが、憂うるごとく、危(あやぶ)むごとく、はた人に憚(はばか)ることあるもののごとく、「琵琶(びわ)。
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