生前身後の事 - 中里 介山 ( なかざと かいざん )
小生も本年数え年五十になった、少年時代には四十五十といえばもうとてもおじいさんのように思われたが、自分が経来って見るとその時分の子供心と大した変らない、ちっとも年をとった気にはなれない、故人の詩などを見ると四十五十になってそろそろ悲観しかけた調子が随分現われて来るけれども、余はちっとも自分では老いたりという気がしないのみならず、それからそれへと仕事が出て来てどうしてどうしてこれからが本当の仕事ではないか、と、思われる事ばかりだ、瘠我慢(やせがまん)にいうのではない、自分は五十になって老いたりという気がしないのみか若いという気もしない、子供の時と特別に変ったようにも思われない、今の自分としては殆んど年齢を超越してしまっている。
これは一つは自分が未(いま)だ嘗(かつ)て家庭というものを持たず、自分の肉体の分身に対する愛情という経験が無いというのも一つの理由であるかもしれない、何れにしても自分はまだ死に直面しているという気分は毛頭ないけれども、ここに五十になった紀念の意味で少々死後のことを書いて置いて万々一の用心にし、心のこりを少しでも少なくして置きたいものと思うことは無用でもあるまい。
利休が旺(さか)んな時代に、これも並び称された無量居士という隠士は死の直前に於て、それまでに書いた自分の筆蹟類をすっかり買い集めてそれを積み上げて火をつけて焼き亡ぼして往生したということだが、自分もそういうことが出来れば非常に幸だと思っているが、そういうことは出来ない、事と次第によっては死んだ後こそ愈々(いよいよ)世間の口が煩さくなるようになるかも知れぬ、そこで文字に就いては死んだ後までも相当の心遣いを残して置かなければならないことは、さてさて業である。
そこで自分は遺言のつもりで申し遺して置きたいことがある、文字についてばかりではない、自分の有形無形に遺される処のものに就いてここに少しばかり書いて置きたいものだ。
第一 自分の著作は今も全部統一されているといってよろしいから、このままでいつまでも独立統一した出版所の手によって進行せしめて行きたい、それより来る収利については相当に分配して行きたいものだ、必ずしも親類身寄というものでなくてもよろしい、最もよく著者の著作を理解するものによりて保護存養せしめて貰って行けば結構だが、遠い将来のことは是非もないが、国家が著作権或は登録権を保護する限りそうして行って貰いたいものである。
第二 著作に伴ういろいろの興行権は著者一代限り、如何なる事情ありとも他に許可しないこと、出版は直接に著作の精神を読んで貰うことが出来るが、興行複製となると著者の目(ま)のあたりの監督がない限り著作の精神とまるっきり変ったものが出来る憂いがあるから、これは出来得る限りの手段を尽して永久に謝絶禁断してしまいたい事。
第三 余の蔵書遺物等はすべて大菩薩峠紀念館に永久に保存して貰うのが当然だがそれには紀念館を法人にするとか、多くの維持資本を置くとかしなければならないし、それが出来たところで日本の国情では個人や民衆の力ではなかなか管理が六カ敷かろうから、もし紀念館も解散が有効であると見るならば相当の人の評議をもって解散をしても差支えないこと、解散の評議員としては隣人座談会へ常に出席して下さる諸君をお頼み申すがよろしいと思う。
第四 蔵書は紀念館に保存するが不安ならば一まとめにして帝国図書館に寄附して貰いたい、帝国図書館で相当の好意を以て受付けてくれれば結構だが、受付けてくれない時は誰か有志家に一纏(ひとまと)めにして引取って貰うこと、その場合は外国人でも苦しくない、それも然るべき人が見出せない時はすっかり売り払って差支えないこと。
第五 大菩薩峠をはじめ著者の自筆原稿も右に準じて処分をするがよろしいこと。
第六 かりに若(も)し小生に多少の動産不動産があったとしてその場合は半額を余の親族のもので縁の順序によって分つがよろしい、その半額は可然(しかるべく)公共的の事業に使用するがよろしい、尚お配分方法に就いて余が書きのこして置いた時はそれに従って貰うべきこと、余には親類身寄りだからと云って特別に厚くしなければならないとは思っていない、然し多少に不拘(かかわらず)これ等の配分方法について醜い紛議等が生ずるのは不本位千万だから、矢張り隣人座談会へ常々出席の諸君の評議によって裁断して貰うのがよろしいと思う、これ等の諸君のうちから委員を選挙でもして貰って一切の処分をその人達に任せたら、どうかと思う、親類家族の人々よりも余は寧ろそういう方々に処分方の権を依頼したいものだと思っている。
第七 余は死亡した時も格別広告や通知をして貰わないでよろしい、知った人だけが集って夜分こっそりとやってもらいたい、新聞雑誌に写真や記事を出すことは一切お断りするがよろしい、葬儀の宗旨は何でもよろしい、隣人葬とでもいうことにしていただきたい。
第八 石碑、銅像、紀念碑の類は一切やめて、ただ大菩薩峠の上あたりへ「中里介山居士之墓」とでも記した石を一つ押し立てればよろしい、併し遺骸はなるべくゆったりとした構造の丈夫な寝棺に入れて、仰向けに寝かしたままゆったりと葬って貰いたい、穴へは多少金をかけてもよろしいから石造か何かにして置いて棺もその中へ十分ゆとりのあるように収めて貰い都合によっては入口をつけて制限的に棺側まで出入の出来るようにして貰いたいものだ、そうにするには棺も外部を石造か金属性で被(おお)わなければならないかもしれないし、棺の中にも何か防腐用剤を詰めて置く必要が出来るかもしれないが、かなり贅沢(ぜいたく)で費用がかかるかもしれないけれども自分に多少遺財がある限りこれは実行して貰いたい、墓標葬式等の費用は極度に切り詰めてもいいから、墓の内部だけは余裕綽々たるものにして置いて貰いたい、併し基督(キリスト)教式でするように死んだあとの面(かお)を見せて廻す事は厳禁する、棺の中へ入れてしまった以上は絶対に人に見せない事、要するに火葬その他肉体を消滅に帰せしむる方法は一切これを忌避し、肉体をどこまでも尊重してゆったりと据(す)えて置いて貰い、何時息を吹き返しても、さしつかえの無いようにして置いて貰いたいこと、これは戯れに云うのではない、どうも自分は死ぬのと眠るのとが同じように思われてならない、死んでも呼吸だけはしているように思われてならない、そこで特にこのことを御依頼して置くのである。
第九 右の遺骸安置の場所は大菩薩峠の上あたりに越したことはなかろうけれども、あそこまで担ぎ上げるのが難儀とあらばその麓(ふもと)あたりのなるべく人家に遠い処でもよろしい、故郷の地は断じていけない、若し必要があるならば、頭髪でも少し切って故郷には届けてやるがよろしい。
第十 紀念館の所在地も現在のは全部取りこわし或いは移転してもし小さくとも保存するならば東京附近、明治神宮あたりの地があらば幸、従来の地はそのままにして木を植えて置くこと。
演劇と我(1)
妙な廻り合せで余輩は演劇というものに思いの外縁がある、世の中に何が華々しい職業だといって演劇ほどの華々しい仕事はあるまい、ところがこっちは派手を嫌うこと、世間へ面出(かおだ)しをすることを嫌がるに於ては無類の男である、それがつながり連がって行くというのも因縁であろう、さて、この度もまた大菩薩峠の形訳上演ということになった、そこで聊(いささ)か劇に就いての繰り言をこの機会に少々並べて後日の記念に備えて置きたいものだと思う。
抑(そもそ)も余が演劇に本式に関係を持ち出したのはたしか二十四五歳の時、本郷座の「高野の義人」を紀元として見るがよかろう、この時は余は都新聞にいて誰も小説で相当の成功を見ようとは思わなかったのが「高野の義人」が都新聞紙上に連載されて相当の好成績を示していた時分のことだ、当時本郷座は新派の牙城であって巨頭が皆ここに集って歌舞伎の俳優と相対し、天下を二分していたのだが、一時は歌舞伎即ち旧派を圧倒した時代もあったのだが、その時分になるとそれも聊か下火になって毎回どうも思わしからぬ形勢であったのだ、本郷座にも俳優といえば高田実があり、伊井蓉峯があり、藤沢浅次郎があり、河合武雄があり、喜多村緑郎があり、深沢恒造がありその他門下|各々(おのおの)英材が満ち充ちて役者に不足はなかったのだが脚本に全く欠乏していたのである、というのは、不如帰(ほととぎす)でもなし、乳姉妹でもなし、魔風恋風でもなし、新派のやるべきものはやり尽して仝(おな)じ型で鼻についてしまったのだ、脚本家として佐藤紅緑氏が大いに成功もし努めもしたけれどもそれとても隻手をもって無限の供給に堪えきれなくなった俳優の人材に不足はないけれども脚本飢饉の為に新派は衰滅の道を取ろうとしていた時であった、「高野の義人」の時も佐藤紅緑氏が例によって新派の為に書きは書いたが、当人も自信がなく、俳優の幹部も余り気のりがしなかったようだ、そこへ余輩の「高野の義人」に眼をつけたのが高田実であった、何かのはずみに社中の伊原青々園氏に向ってこれを演(や)りたいものだと高田が云い出した、ということを余輩が伊原氏から直接に聞いたのが縁の始りであった。
これより先き我輩の高田実に傾倒するは古いものであった、いつの頃であったか神田の三崎町の東京座で――東京座といっても今の若い人達には隔世の歴史だが、当時は東京の三大劇場の一つで今の歌右衛門、当時の芝翫(しかん)が歌舞伎座に反旗を飜してここに立て籠(こも)ったこともあり、また我輩も先代左団次一座に先代猿之助だの今の幸四郎の青年時代の染五郎等の活躍を見たこともある、この劇場で偶然余は新派大合同劇を見た、芸題は「金色夜叉(こんじきやしゃ)」で登場俳優は今云ったような面触(かおぶれ)に中野信近などいったようなのも入ってその頃のオール新派と云ってもよろしい、余輩も新派の芝居というものの代表的なやつを纏(まと)めて見たのは多分これが初めてであったろうと思う年齢は十四五であったと思う、当時神田の三崎町には元寇(げんこう)の役(えき)か何かのパノラマ館があったり、女役者一座の三崎座という小劇場があったり、それからその向い側に川上音次郎が独力で拵えはしたが借金のカタになったりして因縁附の「改良座」という洋式まがいの劇場もあってそこで裁判劇などを見たこともあったが役者の名前などは一切記憶していない、そこで新派劇というものを紀元的に見たのはこの東京座の「金色夜叉」をもって最初とする、たしかカルタ会の場面からなのだが何だかしまりのない舞台面で、書生ッポや若い娘共がガヤガヤ騒いだり、キャーキャー云ったりしている、歌舞伎劇のクラシカルな劇に幼少から見慣れていた眼にはあんまりぞっとしなかったのでこの暇と金をもって他の立派な歌舞伎劇を見ればよかったにと聊(いささ)か後悔しながらそれでも我慢して見て行くうちにだんだん面白くなって行った、当時我輩は金色夜叉をまだ書物では読んでいなかったと思うがその内容は或人から聞いて読みたいと心掛けていて果さず、劇で見る方が先きになったようなあんばいであった、併し、進んで行くうちに漸く感興を催して来て遂に高田実の荒尾譲介にぶっつかってしまったのだ、貫一は藤沢浅次郎であった、お宮は高田門下の山田久州男という女形であって、河井と喜多村はその頃は上方へでも行っていたか出ていなかった、赤樫満枝を女団十郎と称ばれた粂八(くめはち)が新派へ加入して守住月華といってつとめていた、我輩が高田を発見したのは貫一が恋を呪(のろ)うて遂に高利貸となって社会から指弾され旧友に殴打されようとしてすさまじい反抗に生きている処へフラリと旧友の荒尾譲介がやって来て声涙共に下りながら旧友、間貫一(はざまかんいち)を面罵するところから始まったのだ、我輩は無条件に無意識にこの役とこの俳優にグングン惹(ひ)き入れられてしまった、それから次に、芝の山内でお宮の車に曳かれやがてそのお宮を捕えて変節を責める処に至って全く最高潮に達してしまった、余は実にそれまでこんな強い感銘を受けた俳優と場面を見たことがない、その後も今日まで見たことはないと云ってよろしい、高田実の荒尾譲介なるものはその当時よりは遙に肥えた今の余輩の観劇眼をもってしても絶品であるに相違ない、あれは正に空前絶後といってよろしい、我輩の高田実崇拝はその時から始まってその後本当に血の出るような小遣を節約しては彼の芝居を見たものだ、そうして愈々(いよいよ)彼が非凡なる一代の名優であることに随喜渇仰した次第である、併し高田の有ゆる演出のうち矢張り荒尾譲介が最も勝れていたと思う、それは原作そのものが優れていたのと相俟(あいま)って現われた結果である、当時紅葉山人もまだ達者でいて、あれを一見して聞きしに勝る名優だと折紙をつけたということが何かの新聞に出ていたが、事実あれならさしもむずかしやの紅葉山人も不足が云えなかったろうと、我輩も想像している。
今の幸四郎、当時青年俳優中の粋、高麗蔵(こまぞう)もあれに感服して、高田さんにあの譲介につき合ってもらって、自分が貫一をやりたいと云ったというような事も聞いている、その他数知れず演出した高田の芸品のうち何れも彼が絶倫非凡の芸風を示さぬものはないけれども、荒尾譲介ほどのものが産み出せないのは脚本そのもののレベルが高田の持つもののレベルと合奏しきれなかった点もあろうと思う、後の脚本は何れも高田の特徴を認めてそれを仕活すよう活かすようにと企てただけに聊か追従の気味がないではない、紅葉山人の独創と高田実の技量とが名人と名人との兼ね合いであるだけにそこに大きな融合が認められたわけでもあると思われる。
さて我輩は斯(こ)ういう次第で高田実信者であり(年少客気のみならず今日でもあれほどの俳優は無いと信じている)、その俳優にまた駈け出しの一青年である我輩の作物が演って貰えるということは本懐の至りでもあり光栄の至りとでも云わなければならなかったのだ、伊原君は偶然口利きになったけれども高田がどうして我輩の作物にそれほど興味を持っていたのか分らないようであった、また伊原君という人はなかなか利口な常識的な人だから高田のような天才肌の芸風よりは伊井のような人気のあるものを推賞していたようだった、本来座興的にそんな話はあってもものにはなるまいと誰も彼も見ていたのに、高田の殊の外の乗気にずんずん話が進むのに驚異の念を持っていたようだ、然し我輩に云わせると見ず知らずの一介の青年たる我輩の作に当時劇界を二分して新派の王者の地位にいた高田実が異常の注目を払っていたというのは必ずしも偶然とは思われない理由がある、それは高田崇拝の余り余輩は二三の雑誌にその感想を投書して載せられたことがある、それ等が高田の眼に触れて好感を呼びさまされていた素地があった所以(ゆえん)だと思う、そこで話が大いに進んでとうとうこれを通し狂言で本郷座の檜舞台にかけるということになった、折角書きかけた佐藤紅緑氏の脚本は保留ということなのだ。そこで、二十四五歳の貧乏書生たる我輩は、本郷座附の茶屋「つち屋」の二階でこれ等新派の巨星と楼上楼下に集まる新派精鋭の門下の中へ引き据えられたのだ、当時の我輩の貧乏さ加減と質素さ加減は周囲の話の種子であったろうがその辺は後日に書くとして、兎に角ああいう中へ包まれたのでぼうっとしてしまった、それから例の高田を中心に藤沢だの伊井だの喜多村だのという、その当時は男盛りのつわ者の中で圧倒されながらかれこれと近づきやら作中の問答やらをしている、その中で俳優連とは別に一大傑物と近づきになったことは明らかに記憶している、それは即ち後の松竹王国の大谷竹次郎氏だ、これが新派の巨星連の中に挾まって「私が大谷です」としおらしく番頭さんででもあるような風に挨拶をした言葉をよく憶えているが、余り特徴のない大谷君の面だから面の印象は甚だ乏しかったが縞(しま)の羽織のようなじみな身なりをしていた。
当時の松竹というものは関西では既に覇(は)を成していたが東京に於てはまだホヤホヤで而(しか)もどの興行も当ったというためしを聞かない、流石(さすが)の松竹も東京では駄目だろう歯が立つまいという噂が聞えた時代である、それと共にこんどの「高野の義人」もやっぱりいけないだろう、それというのが新派が今まで髷物(まげもの)をやって当ったためしがない、例えば高安月郊氏の江戸城明け渡しその他、何々がその適例だ、こんども享保年間の義民伝まがいのもの、それに作者は一向聞えた人ではなし――というのが一般の定評で、伊原君なども現にその説の是認者であったようだ、ところが蓋(ふた)を明けて見ると舞台が活気横溢、出て来る人物が何れも従来の型外れ、見物はかなり面喰ったようだ、そうして連日の満員続き首尾よく大当りに当ったのだ、松竹新派としても息を吹き返した形だし松竹が東京へ乗り出して来たこれが最初の勝利の合戦であった、そこで序幕の高野山の金剛峰寺大講堂の場が総坊主で押し出した、そんな因縁から大谷は、坊主が好きだというような評判がその後ずっともてはやされたものだ、そんなようなわけで我輩は今日まで大谷君に逢うと旧友に逢うといったような気持もするのである、併し、この一挙は成功したが、それから我輩は劇というものは離れて見ているもので、自分の如きものが接近すべきものではないということと、それから劇評なんぞというものが如何にも興のさめたものだという感じに打たれて演劇熱が急転直下して冷めてしまった、新派もその後はやっぱり脚本に恵まれないで、当時の諸星が皆不遇のうちに空しく材能を抱いて落ちて行ったのだ。
我輩はその後|数多(あまた)の小説を書いたし劇界からも可なりそれが興行方を懇請されたが一切断って劇と関係せず、大菩薩峠が出た後と雖(いえど)も劇の方は見向きもしなかったがそのうちに沢正事件というのが起って来た、此奴はかなりもつれたが未だにその真相を知っているものはあるまいから余り好ましくはないが次に一通り経過を書いて置いて見よう。
演劇と我(2)
自分の身のまわりのことを今更繰返して述べたてるのも嫌な事だがこの生前身後は、まあ我輩の自叙伝のようなものだから、くだらないものであっても記して置いた方がよいと思う、また、こちらでは詰らないことと思っても社会的には存外影響の大きかった事件もある。
さてそんなわけで「高野の義人」の人気を一時期として我輩は芝居熱が全くさめてしまって、演劇は離れて見るもので近付いて自分が触れるべきものではない、と考えたが、その後も都新聞に小説は彼れ是れと執筆していたが劇の方には触れなかった、そのうちに東京劇壇は松竹が全部資本的に占領してしまった、「高野の義人」の時代に於てはまだ歌舞伎座の本城が田村成義の手で経営され、その後継者として新進歌舞伎菊五郎、吉右衛門等を中心とした当時の市村座が歌舞伎後継として控えている、それから少し後に、帝劇及び有楽座が出現する、例の新派の牙城本郷座も松竹に貸してはいたが、坂田庄太という人がまだ持主であったのだ、そういう中へ松竹が切り込んで来て着々と征服して行ったので、愈々(いよいよ)歌舞伎座を乗取る時などは悲愴な葛藤の起ったりしたのなども我輩は遠くで眺めていた、そうしてさしもの田村将軍なるものも既に老衰の境に入っている、東京の歌舞伎俳優は伝統の間に生き、門閥を誇ることの外には何もなし得ない、そこで歌舞伎へ行って見ても市村へ行って見ても吾々(われわれ)は更に何等の新しい迫力を感ずることが出来なかった、新派は前にも云う通り、その位だから活気ある舞台や興行振りは東京の劇壇では全く見ることが出来なかった、東京の劇壇は沈衰、瀕死(ひんし)の状態にいたのである、その間へ松竹が関西から新鋭の興行力をもって乗り込んで来たのである、我輩はいつも思う、あの当時松竹が東京劇壇を征服したのは松竹がえらい、と云うよりは東京劇壇が意気地が無さ過ぎたと云った方がよい、仮りにその当時我輩をして東京劇壇の総参謀にする者があったとすれば、必ずやあんなにもろく松竹には征服させなかった、これは広言でも何でもない、離れて見ているとよく分るものである、当時|若(も)し歌舞伎或いは新派側に我輩を信頼し得るだけの人物がいたならば松竹を決して今日の大を為し得させなかったと信ずる理由がある、然し実際問題としては、そんなら当時我輩を信頼するだけの人物が東京劇壇にあったとして拙者がそれに応じたかどうかという事であるが、それは全く出来ない相談であった、余輩はどんなに頼まれても決して劇界への出馬などは思いも寄らぬことであった、そこで結局、松竹の覇業は新陳代謝の自然の勢というべきものであった、併し冷眼にその雲行を眺めつつ、松竹を圧(おさ)え東京劇壇を振わすだけの方策は我輩の眼と頭にははっきりと分りながらそのままに見過していた。そうしているうちに松竹は歌舞伎の本城を陥れた。
そういう変態な不精な立場で小説に隠れるというわけでもないが、大菩薩峠の筆を進めているうちに、都新聞の読者の中にも相当具眼者もあれば有識者もあって隠然の間に大いなる人気を占めていたのである、そうして好事家(こうずか)の間にはこれを是非劇化したい、俳優は誰れがいい、吉右衛門でなければいけぬとか、菊五郎がいいとかいうような噂が絶えず聞かれていた、併し、小生はそういうことに頓着せずして彼是十年も経たろう、時日の事はまたよく調べて追加しようが、兎に角劇界の事は離れているからよく分り過ぎる程分るのである。
さて、その時分になって都新聞に我輩が紹介で入れた寺沢という男を通じて大阪の沢田正二郎が是非あれをやらして貰いたいとのことだ、沢田正二郎という名は当時坪内博士主宰の劇団や何かでチラホラ聞いていたが、その人も芸風もまだ見たことはない、根津にいる時分よく小石川の植物園へ遊びに行ったものだが、その途中本郷のとある家の路地で、沢田正二郎渡瀬淳子と連名の名札のあるのを見た位のものだ、それが近頃では大阪へ行って新国劇という一団を作りなかなか人気を博しているということであった、そうして是非とも大菩薩峠の机竜之助をやらして貰いたいと寺沢君を通じての申込だ、寺沢も予(かね)てこっちの態度を知っているから「申込んでもそりゃ駄目だ」と断ったが、断られても駄目でも何でもいいから話だけはしてくれろ、斯ういうことで寺沢君から伝達されて来た、その時に余輩はどうしたものか、今までと違ってちょっとそれに耳を傾けたのである。
一体、沢田君はどういう芸風の人か、今まで何をやったのが出色か、というと松井須磨子のサロメにヨカナンを演(や)ったことがあるというような話だ、それは面白そうだ、ヨカナンをやりこなし得るものが机竜之助を演ったらおもしろいに相違ない、兎に角一度会って見よう、ということになって、寺沢の紹介でたしか日比谷の松本楼で初会見をし、食事を共にした後に帝劇を三人で見物した、それが最初の縁であった。
だが、その時は劇上演のことには話は進行しなかったのである、とにかく、尚また沢田君の持つ芸の本質を眼のあたり見せて貰わなければならぬ、自分が見に行きたいがその暇がない、また同君も東京へ来て演る機会は少ない、丁度名古屋まで来て、そこで中村吉蔵君の井伊大老を演るという機会があったから、そこで寺沢君に我輩の代理として沢田君の芸風を見届けに行って貰った、帰って来ての寺沢の報告は甚だよい、沢田は貫禄も相当あるし部下もよき一団を相当集めてある、演らして見たらよいと云う様な提案であったと覚えているそこで我輩は考えた、今や歌舞伎は新興の意気はなく、新派は沈衰して振わず、沢田君あたりを一つ起して東京劇壇に風雲を捲き起させるのも眠気|醒(ざま)しではないかという心持にまで進んで来たのだ、そのうちに沢田は我慢しきれず大阪で成功した意気込をもって東京へ旗揚げに来た、沢田としては最初に大菩薩峠をもって来たかったのだろうけれども我輩はまだ熟しないと見てその機会を与えなかった、そこで沢田は東京の旗揚げに多分明治座であったと思う、そこへ乗り込んで「カレーの市民」というのを最初に国定忠治を後に演ったと思っている、なかなかよく演った、ちょっと類のない芸風もあるし覇気もあるし、殊に国定忠治の中気の場、召捕の場の刀を抜かんとして抜き得ざる焦燥の形などは却々(なかなか)うまいものであった、ただ芸風に誇張と臭味とが多少つき纏っていることは素人(しろうと)出身として無理もないと思われる位のものであった、併しこの一座存外によく演りは演るが、東京の芝居見物には殆んど全く馴染(なじみ)が無い、そこで客足の薄いことは全く気の毒でもあり、会社の女工と覚しいようなのを大挙入場させたりして穴埋をするような景気であったり、十数人の見物しか土間にいなかったりというようなこともあった、その帰り途に横浜でやった時の如きは四五人の見物しか数えられない有様でてれ隠しにテニスか何かをやって誤魔化したというような事実話もある、然しこれは彼及び彼一座の恥でもなければ外聞でもない、如何に相当の実力がありとはいえ顔馴染の無い土地へ来ての全く素人出の旗揚げでは無理のないことでもあるそうして大阪へ帰ったが、次に東京へ乗り出すには是非とも別の看板が必要である、いや別の看板がなければ再びは乗り出せないのだ、如何に乗り出したくても興行主が承知する筈(はず)はなかったのだ、そこで沢田は第二回の出戦に当り大菩薩峠著者を衝(つ)くこと甚だ激しいのは当然の成り行きである、一体大菩薩峠というものが掲載当時からそういう一種の人気を持っていた外に、都新聞という新聞が当時は東京市中へ第一等に売れる新聞であり、演芸界花柳界には圧倒的の勢力を持っていたのである。
こちらは大菩薩峠の著者、相当沢田に対する予備認識も出来たし芸風も眼のあたり特色も看(み)て取っているしその実力に相応して顔馴染の少ない立場にいることに同情も持って居りまたこれを拉(らっ)し来って東京劇壇の眼を醒さしてやろうというような多少の野心もあったものだから、まあともかく脚本を書いて見ろという処まで進むと、沢田は大いに喜んで座付の行友李風(ゆきともりふう)という作者に書かせてその原稿を我輩のもとへ送り届けてよこした、どうも行友君などという人は旧来の作者で我々の思うところを現わし得る人でないという予感もあったけれども、とにかくそれを読むと全然ものになっていないのである、そこで余輩はそのことを云って返してしまった、そうすると、更にまた書き直して送って来た、それもいけない、都合何でも四五回書き改めさせたと思う、最後に至って実によく出来た、固(もと)より行友君という人がそういう人だから内容精神に触れるというわけには行かないが、それにしても練れば練るだけのことはある、最初の原稿とは雲泥(うんでい)の相違ある巧妙な構図が出来上って来た、そこで余輩もこれを賞めて、なおその原稿に詳細な加筆削除を試みたり、附箋をしたりしてこれならばといって帰してやった、(この我輩書き入れの原稿を木村毅君が今所持しているとのことだが、それはたしかに第二回目の時のものだろう、最初のは震災や何かがあり、沢田の身の上にも転変甚だしかったから十中の十までは消滅しているに相違ない)斯うして訂正の脚本原稿と相当に激励の手紙を添えてやると、それを受取ったのが沢田が何でも道後あたりへ乗り込んでいた時ではなかったかと思う、その原稿と手紙を受取って見て沢田と行友とは嬉し泣きに手をとり合って泣いたというようなことがたしか当時の沢田の手紙に書いてあったと思う、その辺までは至極よろしかったが、それからそろそろことがよろしくなくなって来た、もともと我輩の希望には自分の作物の発表慾とか沢田を世間に出すとか何とかいうことよりも、東京劇壇へ一つ爆弾を投じて見たいことにあったのだ、だからその興行は当然東京を初舞台とし、ここから出立しなければならないことに決心していたのだ。
併し彼が関西に根拠を置く実際上の必要から内演試演は彼の地でやり本舞台はこっちで開かねばならぬ、気に入らなければ即座に中止改演ということを堅く約束した、それが為には何処まででも我輩は試演の見分に行く、そうしてその試演が気に入らなければ何時でも止める、或は練りに練り直した上で公開すると斯ういうことを堅く手紙で約束して置いて、そうして大正何年の秋であったか神戸の中央劇場で試演をやるとのことであったから我輩は態々(わざわざ)神戸まで出かけて行ったところが、神戸の中央劇場に辿り着いて見ると試演どころか絵看板をあげて木戸をとっての本興行だ、それを見た我輩の失望落胆から事がこじれて来た。
演劇と我(3)
しかし、沢田君も我輩が態々神戸まで出かけて来たと聞いて、竜之助の衣裳、かつらのまま楽屋から出口まで飛び出して来て我輩に上草履(うわぞうり)を進めたりなどする態度は甚だ慇懃(いんぎん)のものだ、しかしもう開幕間際だったから、楽屋へは行かず直ちに桟敷(さじき)に出て見物したが、竜之助が花道を出て大菩薩峠にかかるその姿勢がまた気に入らなかった、今更故人に対してアラを拾い立てるわけではないが、とにかく沢田君が出ると神戸の見物もなかなか湧いたものだが、舞台へかかる足どりにも八里の難道という足どりは無く、峠の上へ来て四方を見渡す態度にも境界そのものがなくて、どうも見栄(みえ)を切って大向うの掛声を待ち受けるものの如くにしか見えなかったので、あゝこれは見ない方がいいと我輩はそのままサッサと帰って京阪の秋景色を探り木曾路から東京へ帰ってしまった、斯ういう態度は小生の方も少し穏かでないかもしれないが、これはどうも自分の癖で意気の合わぬものを辛抱してまで調子を合せるということは我輩には出来ぬことである、沢田君も多少その辺から癪(しゃく)に障(さわ)っていたかもしれぬ。
そうしているうちに、愈々(いよいよ)また東上してたしか明治座での再度の旗揚であった、そこで我輩もまあ一度だけは東京であのまま演らせて見るほかはあるまい、一度だけは黙認していようという態度をとっていたのが悪かったのだ、神戸の時にすっかり絶縁を宣告して置けばよかったのかもしれないが、生じい親切気を残したのが却って彼の為に毒となったようだ。
果して大菩薩峠を持ち来した再度の旗揚げは彼の出世芸であった、その興行的成功は我輩にとっては予想外でも何でも無かったが世間には予想外であった、前の時にあれほどみじめなものが、こんどは連日満員また満員で、満員を掲げなかったのは一日か二日という成績で打ち上げた、それから彼が素晴らしい勢となって一代の流行児となったのだが、こちらはもう彼を一度世に出すだけのことをしてやればよい、彼は彼としての存在を示せばよいのだ、そこで、全く絶縁の筈のところが彼はこの人気に乗じて極力大菩薩峠を利用しようと心懸けた、無理無体に自分の専売ものとして持ち歩こうとしはじめた、そうして著者に対しては十二分の反抗心を蓄えながら作物だけは大いに利用しようとした処に、すさまじい悖反(はいはん)がある、それが為に我輩の悩まされたると手古(てこ)ずらされた事は少々なものでなかった。
余の老婆心では彼のいい処は認めるが、然しながらあの行き方では精々お山の大将で終るだけのもので、あれを打ち破らなければ本ものにならないと見ていたのだが、彼の周囲の文士とか劇作家とかいう手合は徒(いたず)らにその薄っペラなところだけを増長させて、彼を人気天狗に仕立て上げてしまう外には何にもなし得ないものだ、そういう社会の弊風をあさましいものと見た、その中へ春秋社の神田豊穂君だの公園劇場の根岸寛一君だとかいうのが※ったが、事は愈々紛擾を増すばかりで、彼は京阪、九州地方まで無断興行をして歩いたり、ロクでもないレコードを取ったり、傍若無人の反抗振りを示したが、最後に根岸君の手から謝罪的文の一通を取り全く大菩薩峠から絶縁することになって(つまり沢田はもう決して大菩薩峠を演らない)という一札が出来上ってケリがついたのだ、その時に俵藤丈夫君が来て大いにたんかを切って行ったのも覚えている。
大菩薩峠を演らずとも沢田君並にその一党の人気はなかなか盛んのものであった、またいろいろの意味で沢田の人気へ拍車をかけるものが群っている、一時は沢田の外に役者は無いような景気であった、この人気を煽(あお)ることには相当の理由がある、沢正君は早稲田の出身であって、早稲田出身者は人気ものを作ることに於て独特の勢力をもっていると云われる、然し斯ういう勢力はその人を大成せしめずして寧(むし)ろこれを毒すること甚だしいものだと思っている、沢正以前に松井須磨子なるものがあってこれがまた非常な人気を煽られたもので須磨子の外に女優なしと思われるほどに騒がれた、しかし余輩はそれを見てあぶないものだと思った、松井須磨子は早稲田生えぬきの島村抱月の愛弟子(まなでし)である、一体早稲田派が宣伝に巧みなのは大隈侯以来の伝統である、朝に失敗した大隈が野に下って、学校を立て言論界へ多くの人材を送った、そこで早稲田には筆の人が多いし、宣伝機関が自由になる、自然人気ものを作るのはお手のものといった景気がある、前の松井須磨子もそうであるし、今の沢正もそれだ、須磨子なども寄ってたかって高い処へ押し上げてしまってそうして梯子(はしご)を引いたような形だから、ああいう運命に落つるのも已(や)むを得ないのであった、今また沢正にも同じ轍(てつ)を踏ませるな、困ったものだと思いながら眺めていたが、然し彼の行動には我輩に対する見せつけとか当てつけとかいうものが絶えず隠然として流れていた、しかし、こっちはもう自分の作物が彼等の人気に関係しさえしなければそれでいいのだから済ましているうちに彼等自身も絶縁はしながらも絶えずこの大菩薩峠には憧(あこが)れをもち、世間もまたいつかそのうちに沢正によっての机竜之助が見られるものだということを期待していた。
それは大震災前後の事であった、それ以前沢正の傍若無人な人気の増長振りが警視庁あたりでも睨(にら)まれていたようだ、なに警察の干渉などは人気になって却ってよろしいなどと放言していたこと等が甚だ当局の癪にさわっていたようである、そこで、公園劇場での賭博問題がきっかけとなって、彼等一党が総検挙をされたようであった、これで沢正一座も愈々没落かと思われた、これまでの彼の人気と増長ぶりについては喝采(かっさい)する者は絶えず喝采していたが、余輩から見ると、自暴(やけ)の盲動的勇気としか見えなかった、自暴で背水の陣を敷くと人間はなかなか強くもなれるし、また意外な好運も迎えに来るものだと思わしめられないでもないが、無理は無理だ、と我輩のみならず、心ある者は彼をあやぶみきっていたが、果してこの検挙で幕が下りた、これでさすがの驕慢児も往生だと世間は見ていたが、なかなか悪運(?)の強い彼にとって、この検挙拘留中に彼(か)の大震災で、これがまた彼にとって有利と好運とに展開されたのである。
拘留中の沢田とその一党は大震災の為に放免された、それが機会でまた彼が復活して、どういう運動の結果か、復興第一に日比谷公園で大野外劇を演り、沢正が弁慶勧進帳で押し出すというような変態現象を現出してしまった、それから籾山(もみやま)半三郎君が出資者となって赤坂の演技座に大劇場としての仮普請をして、沢正の為に根城を拵(こしら)えてやったり、非常の景気であって、一代も彼を拍手喝采することで持ち切りであったが、あぶない事はいよいよあぶない、大菩薩峠に反いてからの後の沢田というものは全く意地と反抗とヤケとで暴れ廻っているのだ、何も知らない世間はその勇猛な奮闘振りだけを見て喝采するが我輩のように彼の大きくなったのも小さくなったのも内外の悩みも委細心得ているものにとっては、ああいう行き方が不憫で堪らなかった、といってなまじい同情を寄せて撚(よ)りを戻してはよろしくないに相違ない、我輩は頑として近寄ることをしなかったが、その間いろいろの方面からいろいろの意味で懇願したり、釈明したり謝罪的の表明をして来たり、籾山君なども自身幾度び我輩を口説(くど)きに来たかわからないし、沢田君も再々自身もやって来たしいろいろと好意を表したが我輩としてはどうしても作物の上で再び彼と見ゆることは絶対的に許されない事であったのだ。
そのうちに、沢田があの通り若くして斃(たお)れることになってしまった、病名は中耳炎ということであったが、なあに中耳炎のことがあるものか、ああいう無理の行き方をすればまいって了(しま)うのはあたり前である、沢正なればこそあれだけにやったのだ、普通の人なら少くとも五年前に死んでいたのだ、その後は意地だけであそこまで通して来たのだ、中耳炎というのはその当座の病名だけのものだ、我輩から云わせれば社会の軽薄なる人気が寄ってたかって彼を虐殺してしまったのだ、丁度、松井須磨子を殺したように、また後の文士直木三十五と称するこれは素質から云っても程度から云っても須磨子や沢正に下ること数等のものだが、そんなような手合をすら稀(まれ)に見る天才かの如く持ち上げて、そうして過分の労力を消耗させて殆んど虐殺に等しい最期をさせた、余輩は斯ういう行き方を非常に嫌う、もし沢正にして他の人気やグループを悉(ことごと)く脱出しても真に大菩薩峠の作意を諒解し、我輩の忠言を聴き節を屈し己(おの)れを捨て、そうして磨きをかけたならばはじめて古今無類の立派な名優が出来上ったに相違ないと我輩は思う、世間の賞(ほ)めるのは彼の最も悪いところを賞めるのである、彼の最もよいと云われるところは我輩から見れば毫釐(ごうり)の差が天地の距りとなっている、彼が最後まで机竜之助を演りたい演りたいということに憧(こが)れて憧れ死にをしたような心中は、真に惜しいことであるが、この一枚の隔たりがとうとう彼には見破られないで亡くなったのだ。
その当時彼に対して面会を避けたり要求懇請を突っぱねたりつれない挙動のみを見せた我輩に対し負けず嫌いの彼がどの位内心悲憤していたかということも想像出来るし、その悲憤に対して何も知らぬファンが一にも二にも彼に同情するの余り、我輩を悪(あし)ざまにした、我輩の蒙(こうむ)った不愉快も少々なものではなかった、当時、彼から来た手紙なども見ないで放っぽり出していたのだが、近頃或事件の必要から古い手紙類を整理したところ、一通の封の切らないやつが出て来た、今日これを書く機会に封を切って見よう。
冠省
御無沙汰に打過ぎて居りまするがお変なき事と大慶に存じます。
扨て
いろ/\御無理を申して御煩せしてからもう三年に近くなります、小生が御音信をしたり、御訪ねをすると屹度(きつと)大人のお煩ひになることを恐れますが、でも小生の止むに止まれぬ願を更めてお胸にお止め下さいまし、あれからとても諦めねばならぬ事と押へ忘れ様とつとめて長い月日が立ちました、でも絶えず私の頭の中に往来するのをどうする事も出来ずに歯を喰ひしばつて我慢をして来ましたが、今年は私共新国劇も愈々満十周年を数へますので、いさゝか其紀念を致したいのでございます。
で其紀念興行(六月)を催すに何よりも吐胸を突いて来るものはお作大菩薩峠の事でございます。
私は過去の一切に就いてお心にそまなかつた事を更めて陳謝いたします。
どうぞ私共の苦闘十年にめでゝお作上演をお許容下さいまし。
只管(ひたすら)に願上ます。
これまでの行がかり上いろ/\な方面への責任等は総べてを私が背負ひまして御迷惑はかけますまひ、一度拝眉心からお願したいと存じて居ります。頓首
三月十一日早朝
沢田正二郎
この手紙の表書きには本所区向島須崎町八九番地とあって日附は三月十一日になっているが、年号はちょっとわからない、兎に角我輩が早稲田鶴巻町にいる時分使に持たせてよこしたので郵便ではなかったからスタンプもない、これを今T君に筆記をして貰っている今日、即ち昭和九年の六月十八日にはじめて封を切って読み下して見ると感慨無量なるものがある。
我輩はこれほどに切なる沢田君の手紙をも封を切らずに十年間も放り出して置くような人間である、如何に自分が無情漢であるかということの証拠になるかもしれないが、この無情は持って生れた我輩の一つの特質なるを如何ともすることが出来ない、凡(およ)そ好かれたり、よろこばれたりするような親切は本当の親切ではない、本当の親切は大いに憎まれなければならない、大いに怨(うら)まれて憎まれるほどの親切でなければ骨にも身にもなるものではないという片意地が我輩には今日でもあるのである、彼の心の中の或ものを微塵に砕いてその後に来るものでなければ本当のものではない、然るにとうとうこの機会が到来しないで沢田は死んでしまった。
彼の病気が愈々危篤の時余は東京にいなかったと思うが、余の家族のものは余に代って見舞の電報を打ったということだが、こちらは何の見舞もせず、また先方からも何とも挨拶はなかった。
利休が旺(さか)んな時代に、これも並び称された無量居士という隠士は死の直前に於て、それまでに書いた自分の筆蹟類をすっかり買い集めてそれを積み上げて火をつけて焼き亡ぼして往生したということだが、自分もそういうことが出来れば非常に幸だと思っているが、そういうことは出来ない、事と次第によっては死んだ後こそ愈々(いよいよ)世間の口が煩さくなるようになるかも知れぬ、そこで文字に就いては死んだ後までも相当の心遣いを残して置かなければならないことは、さてさて業である。
そこで自分は遺言のつもりで申し遺して置きたいことがある、文字についてばかりではない、自分の有形無形に遺される処のものに就いてここに少しばかり書いて置きたいものだ。
第一 自分の著作は今も全部統一されているといってよろしいから、このままでいつまでも独立統一した出版所の手によって進行せしめて行きたい、それより来る収利については相当に分配して行きたいものだ、必ずしも親類身寄というものでなくてもよろしい、最もよく著者の著作を理解するものによりて保護存養せしめて貰って行けば結構だが、遠い将来のことは是非もないが、国家が著作権或は登録権を保護する限りそうして行って貰いたいものである。
第二 著作に伴ういろいろの興行権は著者一代限り、如何なる事情ありとも他に許可しないこと、出版は直接に著作の精神を読んで貰うことが出来るが、興行複製となると著者の目(ま)のあたりの監督がない限り著作の精神とまるっきり変ったものが出来る憂いがあるから、これは出来得る限りの手段を尽して永久に謝絶禁断してしまいたい事。
第三 余の蔵書遺物等はすべて大菩薩峠紀念館に永久に保存して貰うのが当然だがそれには紀念館を法人にするとか、多くの維持資本を置くとかしなければならないし、それが出来たところで日本の国情では個人や民衆の力ではなかなか管理が六カ敷かろうから、もし紀念館も解散が有効であると見るならば相当の人の評議をもって解散をしても差支えないこと、解散の評議員としては隣人座談会へ常に出席して下さる諸君をお頼み申すがよろしいと思う。
第四 蔵書は紀念館に保存するが不安ならば一まとめにして帝国図書館に寄附して貰いたい、帝国図書館で相当の好意を以て受付けてくれれば結構だが、受付けてくれない時は誰か有志家に一纏(ひとまと)めにして引取って貰うこと、その場合は外国人でも苦しくない、それも然るべき人が見出せない時はすっかり売り払って差支えないこと。
第五 大菩薩峠をはじめ著者の自筆原稿も右に準じて処分をするがよろしいこと。
第六 かりに若(も)し小生に多少の動産不動産があったとしてその場合は半額を余の親族のもので縁の順序によって分つがよろしい、その半額は可然(しかるべく)公共的の事業に使用するがよろしい、尚お配分方法に就いて余が書きのこして置いた時はそれに従って貰うべきこと、余には親類身寄りだからと云って特別に厚くしなければならないとは思っていない、然し多少に不拘(かかわらず)これ等の配分方法について醜い紛議等が生ずるのは不本位千万だから、矢張り隣人座談会へ常々出席の諸君の評議によって裁断して貰うのがよろしいと思う、これ等の諸君のうちから委員を選挙でもして貰って一切の処分をその人達に任せたら、どうかと思う、親類家族の人々よりも余は寧ろそういう方々に処分方の権を依頼したいものだと思っている。
第七 余は死亡した時も格別広告や通知をして貰わないでよろしい、知った人だけが集って夜分こっそりとやってもらいたい、新聞雑誌に写真や記事を出すことは一切お断りするがよろしい、葬儀の宗旨は何でもよろしい、隣人葬とでもいうことにしていただきたい。
第八 石碑、銅像、紀念碑の類は一切やめて、ただ大菩薩峠の上あたりへ「中里介山居士之墓」とでも記した石を一つ押し立てればよろしい、併し遺骸はなるべくゆったりとした構造の丈夫な寝棺に入れて、仰向けに寝かしたままゆったりと葬って貰いたい、穴へは多少金をかけてもよろしいから石造か何かにして置いて棺もその中へ十分ゆとりのあるように収めて貰い都合によっては入口をつけて制限的に棺側まで出入の出来るようにして貰いたいものだ、そうにするには棺も外部を石造か金属性で被(おお)わなければならないかもしれないし、棺の中にも何か防腐用剤を詰めて置く必要が出来るかもしれないが、かなり贅沢(ぜいたく)で費用がかかるかもしれないけれども自分に多少遺財がある限りこれは実行して貰いたい、墓標葬式等の費用は極度に切り詰めてもいいから、墓の内部だけは余裕綽々たるものにして置いて貰いたい、併し基督(キリスト)教式でするように死んだあとの面(かお)を見せて廻す事は厳禁する、棺の中へ入れてしまった以上は絶対に人に見せない事、要するに火葬その他肉体を消滅に帰せしむる方法は一切これを忌避し、肉体をどこまでも尊重してゆったりと据(す)えて置いて貰い、何時息を吹き返しても、さしつかえの無いようにして置いて貰いたいこと、これは戯れに云うのではない、どうも自分は死ぬのと眠るのとが同じように思われてならない、死んでも呼吸だけはしているように思われてならない、そこで特にこのことを御依頼して置くのである。
第九 右の遺骸安置の場所は大菩薩峠の上あたりに越したことはなかろうけれども、あそこまで担ぎ上げるのが難儀とあらばその麓(ふもと)あたりのなるべく人家に遠い処でもよろしい、故郷の地は断じていけない、若し必要があるならば、頭髪でも少し切って故郷には届けてやるがよろしい。
第十 紀念館の所在地も現在のは全部取りこわし或いは移転してもし小さくとも保存するならば東京附近、明治神宮あたりの地があらば幸、従来の地はそのままにして木を植えて置くこと。
演劇と我(1)
妙な廻り合せで余輩は演劇というものに思いの外縁がある、世の中に何が華々しい職業だといって演劇ほどの華々しい仕事はあるまい、ところがこっちは派手を嫌うこと、世間へ面出(かおだ)しをすることを嫌がるに於ては無類の男である、それがつながり連がって行くというのも因縁であろう、さて、この度もまた大菩薩峠の形訳上演ということになった、そこで聊(いささ)か劇に就いての繰り言をこの機会に少々並べて後日の記念に備えて置きたいものだと思う。
抑(そもそ)も余が演劇に本式に関係を持ち出したのはたしか二十四五歳の時、本郷座の「高野の義人」を紀元として見るがよかろう、この時は余は都新聞にいて誰も小説で相当の成功を見ようとは思わなかったのが「高野の義人」が都新聞紙上に連載されて相当の好成績を示していた時分のことだ、当時本郷座は新派の牙城であって巨頭が皆ここに集って歌舞伎の俳優と相対し、天下を二分していたのだが、一時は歌舞伎即ち旧派を圧倒した時代もあったのだが、その時分になるとそれも聊か下火になって毎回どうも思わしからぬ形勢であったのだ、本郷座にも俳優といえば高田実があり、伊井蓉峯があり、藤沢浅次郎があり、河合武雄があり、喜多村緑郎があり、深沢恒造がありその他門下|各々(おのおの)英材が満ち充ちて役者に不足はなかったのだが脚本に全く欠乏していたのである、というのは、不如帰(ほととぎす)でもなし、乳姉妹でもなし、魔風恋風でもなし、新派のやるべきものはやり尽して仝(おな)じ型で鼻についてしまったのだ、脚本家として佐藤紅緑氏が大いに成功もし努めもしたけれどもそれとても隻手をもって無限の供給に堪えきれなくなった俳優の人材に不足はないけれども脚本飢饉の為に新派は衰滅の道を取ろうとしていた時であった、「高野の義人」の時も佐藤紅緑氏が例によって新派の為に書きは書いたが、当人も自信がなく、俳優の幹部も余り気のりがしなかったようだ、そこへ余輩の「高野の義人」に眼をつけたのが高田実であった、何かのはずみに社中の伊原青々園氏に向ってこれを演(や)りたいものだと高田が云い出した、ということを余輩が伊原氏から直接に聞いたのが縁の始りであった。
これより先き我輩の高田実に傾倒するは古いものであった、いつの頃であったか神田の三崎町の東京座で――東京座といっても今の若い人達には隔世の歴史だが、当時は東京の三大劇場の一つで今の歌右衛門、当時の芝翫(しかん)が歌舞伎座に反旗を飜してここに立て籠(こも)ったこともあり、また我輩も先代左団次一座に先代猿之助だの今の幸四郎の青年時代の染五郎等の活躍を見たこともある、この劇場で偶然余は新派大合同劇を見た、芸題は「金色夜叉(こんじきやしゃ)」で登場俳優は今云ったような面触(かおぶれ)に中野信近などいったようなのも入ってその頃のオール新派と云ってもよろしい、余輩も新派の芝居というものの代表的なやつを纏(まと)めて見たのは多分これが初めてであったろうと思う年齢は十四五であったと思う、当時神田の三崎町には元寇(げんこう)の役(えき)か何かのパノラマ館があったり、女役者一座の三崎座という小劇場があったり、それからその向い側に川上音次郎が独力で拵えはしたが借金のカタになったりして因縁附の「改良座」という洋式まがいの劇場もあってそこで裁判劇などを見たこともあったが役者の名前などは一切記憶していない、そこで新派劇というものを紀元的に見たのはこの東京座の「金色夜叉」をもって最初とする、たしかカルタ会の場面からなのだが何だかしまりのない舞台面で、書生ッポや若い娘共がガヤガヤ騒いだり、キャーキャー云ったりしている、歌舞伎劇のクラシカルな劇に幼少から見慣れていた眼にはあんまりぞっとしなかったのでこの暇と金をもって他の立派な歌舞伎劇を見ればよかったにと聊(いささ)か後悔しながらそれでも我慢して見て行くうちにだんだん面白くなって行った、当時我輩は金色夜叉をまだ書物では読んでいなかったと思うがその内容は或人から聞いて読みたいと心掛けていて果さず、劇で見る方が先きになったようなあんばいであった、併し、進んで行くうちに漸く感興を催して来て遂に高田実の荒尾譲介にぶっつかってしまったのだ、貫一は藤沢浅次郎であった、お宮は高田門下の山田久州男という女形であって、河井と喜多村はその頃は上方へでも行っていたか出ていなかった、赤樫満枝を女団十郎と称ばれた粂八(くめはち)が新派へ加入して守住月華といってつとめていた、我輩が高田を発見したのは貫一が恋を呪(のろ)うて遂に高利貸となって社会から指弾され旧友に殴打されようとしてすさまじい反抗に生きている処へフラリと旧友の荒尾譲介がやって来て声涙共に下りながら旧友、間貫一(はざまかんいち)を面罵するところから始まったのだ、我輩は無条件に無意識にこの役とこの俳優にグングン惹(ひ)き入れられてしまった、それから次に、芝の山内でお宮の車に曳かれやがてそのお宮を捕えて変節を責める処に至って全く最高潮に達してしまった、余は実にそれまでこんな強い感銘を受けた俳優と場面を見たことがない、その後も今日まで見たことはないと云ってよろしい、高田実の荒尾譲介なるものはその当時よりは遙に肥えた今の余輩の観劇眼をもってしても絶品であるに相違ない、あれは正に空前絶後といってよろしい、我輩の高田実崇拝はその時から始まってその後本当に血の出るような小遣を節約しては彼の芝居を見たものだ、そうして愈々(いよいよ)彼が非凡なる一代の名優であることに随喜渇仰した次第である、併し高田の有ゆる演出のうち矢張り荒尾譲介が最も勝れていたと思う、それは原作そのものが優れていたのと相俟(あいま)って現われた結果である、当時紅葉山人もまだ達者でいて、あれを一見して聞きしに勝る名優だと折紙をつけたということが何かの新聞に出ていたが、事実あれならさしもむずかしやの紅葉山人も不足が云えなかったろうと、我輩も想像している。
今の幸四郎、当時青年俳優中の粋、高麗蔵(こまぞう)もあれに感服して、高田さんにあの譲介につき合ってもらって、自分が貫一をやりたいと云ったというような事も聞いている、その他数知れず演出した高田の芸品のうち何れも彼が絶倫非凡の芸風を示さぬものはないけれども、荒尾譲介ほどのものが産み出せないのは脚本そのもののレベルが高田の持つもののレベルと合奏しきれなかった点もあろうと思う、後の脚本は何れも高田の特徴を認めてそれを仕活すよう活かすようにと企てただけに聊か追従の気味がないではない、紅葉山人の独創と高田実の技量とが名人と名人との兼ね合いであるだけにそこに大きな融合が認められたわけでもあると思われる。
さて我輩は斯(こ)ういう次第で高田実信者であり(年少客気のみならず今日でもあれほどの俳優は無いと信じている)、その俳優にまた駈け出しの一青年である我輩の作物が演って貰えるということは本懐の至りでもあり光栄の至りとでも云わなければならなかったのだ、伊原君は偶然口利きになったけれども高田がどうして我輩の作物にそれほど興味を持っていたのか分らないようであった、また伊原君という人はなかなか利口な常識的な人だから高田のような天才肌の芸風よりは伊井のような人気のあるものを推賞していたようだった、本来座興的にそんな話はあってもものにはなるまいと誰も彼も見ていたのに、高田の殊の外の乗気にずんずん話が進むのに驚異の念を持っていたようだ、然し我輩に云わせると見ず知らずの一介の青年たる我輩の作に当時劇界を二分して新派の王者の地位にいた高田実が異常の注目を払っていたというのは必ずしも偶然とは思われない理由がある、それは高田崇拝の余り余輩は二三の雑誌にその感想を投書して載せられたことがある、それ等が高田の眼に触れて好感を呼びさまされていた素地があった所以(ゆえん)だと思う、そこで話が大いに進んでとうとうこれを通し狂言で本郷座の檜舞台にかけるということになった、折角書きかけた佐藤紅緑氏の脚本は保留ということなのだ。そこで、二十四五歳の貧乏書生たる我輩は、本郷座附の茶屋「つち屋」の二階でこれ等新派の巨星と楼上楼下に集まる新派精鋭の門下の中へ引き据えられたのだ、当時の我輩の貧乏さ加減と質素さ加減は周囲の話の種子であったろうがその辺は後日に書くとして、兎に角ああいう中へ包まれたのでぼうっとしてしまった、それから例の高田を中心に藤沢だの伊井だの喜多村だのという、その当時は男盛りのつわ者の中で圧倒されながらかれこれと近づきやら作中の問答やらをしている、その中で俳優連とは別に一大傑物と近づきになったことは明らかに記憶している、それは即ち後の松竹王国の大谷竹次郎氏だ、これが新派の巨星連の中に挾まって「私が大谷です」としおらしく番頭さんででもあるような風に挨拶をした言葉をよく憶えているが、余り特徴のない大谷君の面だから面の印象は甚だ乏しかったが縞(しま)の羽織のようなじみな身なりをしていた。
当時の松竹というものは関西では既に覇(は)を成していたが東京に於てはまだホヤホヤで而(しか)もどの興行も当ったというためしを聞かない、流石(さすが)の松竹も東京では駄目だろう歯が立つまいという噂が聞えた時代である、それと共にこんどの「高野の義人」もやっぱりいけないだろう、それというのが新派が今まで髷物(まげもの)をやって当ったためしがない、例えば高安月郊氏の江戸城明け渡しその他、何々がその適例だ、こんども享保年間の義民伝まがいのもの、それに作者は一向聞えた人ではなし――というのが一般の定評で、伊原君なども現にその説の是認者であったようだ、ところが蓋(ふた)を明けて見ると舞台が活気横溢、出て来る人物が何れも従来の型外れ、見物はかなり面喰ったようだ、そうして連日の満員続き首尾よく大当りに当ったのだ、松竹新派としても息を吹き返した形だし松竹が東京へ乗り出して来たこれが最初の勝利の合戦であった、そこで序幕の高野山の金剛峰寺大講堂の場が総坊主で押し出した、そんな因縁から大谷は、坊主が好きだというような評判がその後ずっともてはやされたものだ、そんなようなわけで我輩は今日まで大谷君に逢うと旧友に逢うといったような気持もするのである、併し、この一挙は成功したが、それから我輩は劇というものは離れて見ているもので、自分の如きものが接近すべきものではないということと、それから劇評なんぞというものが如何にも興のさめたものだという感じに打たれて演劇熱が急転直下して冷めてしまった、新派もその後はやっぱり脚本に恵まれないで、当時の諸星が皆不遇のうちに空しく材能を抱いて落ちて行ったのだ。
我輩はその後|数多(あまた)の小説を書いたし劇界からも可なりそれが興行方を懇請されたが一切断って劇と関係せず、大菩薩峠が出た後と雖(いえど)も劇の方は見向きもしなかったがそのうちに沢正事件というのが起って来た、此奴はかなりもつれたが未だにその真相を知っているものはあるまいから余り好ましくはないが次に一通り経過を書いて置いて見よう。
演劇と我(2)
自分の身のまわりのことを今更繰返して述べたてるのも嫌な事だがこの生前身後は、まあ我輩の自叙伝のようなものだから、くだらないものであっても記して置いた方がよいと思う、また、こちらでは詰らないことと思っても社会的には存外影響の大きかった事件もある。
さてそんなわけで「高野の義人」の人気を一時期として我輩は芝居熱が全くさめてしまって、演劇は離れて見るもので近付いて自分が触れるべきものではない、と考えたが、その後も都新聞に小説は彼れ是れと執筆していたが劇の方には触れなかった、そのうちに東京劇壇は松竹が全部資本的に占領してしまった、「高野の義人」の時代に於てはまだ歌舞伎座の本城が田村成義の手で経営され、その後継者として新進歌舞伎菊五郎、吉右衛門等を中心とした当時の市村座が歌舞伎後継として控えている、それから少し後に、帝劇及び有楽座が出現する、例の新派の牙城本郷座も松竹に貸してはいたが、坂田庄太という人がまだ持主であったのだ、そういう中へ松竹が切り込んで来て着々と征服して行ったので、愈々(いよいよ)歌舞伎座を乗取る時などは悲愴な葛藤の起ったりしたのなども我輩は遠くで眺めていた、そうしてさしもの田村将軍なるものも既に老衰の境に入っている、東京の歌舞伎俳優は伝統の間に生き、門閥を誇ることの外には何もなし得ない、そこで歌舞伎へ行って見ても市村へ行って見ても吾々(われわれ)は更に何等の新しい迫力を感ずることが出来なかった、新派は前にも云う通り、その位だから活気ある舞台や興行振りは東京の劇壇では全く見ることが出来なかった、東京の劇壇は沈衰、瀕死(ひんし)の状態にいたのである、その間へ松竹が関西から新鋭の興行力をもって乗り込んで来たのである、我輩はいつも思う、あの当時松竹が東京劇壇を征服したのは松竹がえらい、と云うよりは東京劇壇が意気地が無さ過ぎたと云った方がよい、仮りにその当時我輩をして東京劇壇の総参謀にする者があったとすれば、必ずやあんなにもろく松竹には征服させなかった、これは広言でも何でもない、離れて見ているとよく分るものである、当時|若(も)し歌舞伎或いは新派側に我輩を信頼し得るだけの人物がいたならば松竹を決して今日の大を為し得させなかったと信ずる理由がある、然し実際問題としては、そんなら当時我輩を信頼するだけの人物が東京劇壇にあったとして拙者がそれに応じたかどうかという事であるが、それは全く出来ない相談であった、余輩はどんなに頼まれても決して劇界への出馬などは思いも寄らぬことであった、そこで結局、松竹の覇業は新陳代謝の自然の勢というべきものであった、併し冷眼にその雲行を眺めつつ、松竹を圧(おさ)え東京劇壇を振わすだけの方策は我輩の眼と頭にははっきりと分りながらそのままに見過していた。そうしているうちに松竹は歌舞伎の本城を陥れた。
そういう変態な不精な立場で小説に隠れるというわけでもないが、大菩薩峠の筆を進めているうちに、都新聞の読者の中にも相当具眼者もあれば有識者もあって隠然の間に大いなる人気を占めていたのである、そうして好事家(こうずか)の間にはこれを是非劇化したい、俳優は誰れがいい、吉右衛門でなければいけぬとか、菊五郎がいいとかいうような噂が絶えず聞かれていた、併し、小生はそういうことに頓着せずして彼是十年も経たろう、時日の事はまたよく調べて追加しようが、兎に角劇界の事は離れているからよく分り過ぎる程分るのである。
さて、その時分になって都新聞に我輩が紹介で入れた寺沢という男を通じて大阪の沢田正二郎が是非あれをやらして貰いたいとのことだ、沢田正二郎という名は当時坪内博士主宰の劇団や何かでチラホラ聞いていたが、その人も芸風もまだ見たことはない、根津にいる時分よく小石川の植物園へ遊びに行ったものだが、その途中本郷のとある家の路地で、沢田正二郎渡瀬淳子と連名の名札のあるのを見た位のものだ、それが近頃では大阪へ行って新国劇という一団を作りなかなか人気を博しているということであった、そうして是非とも大菩薩峠の机竜之助をやらして貰いたいと寺沢君を通じての申込だ、寺沢も予(かね)てこっちの態度を知っているから「申込んでもそりゃ駄目だ」と断ったが、断られても駄目でも何でもいいから話だけはしてくれろ、斯ういうことで寺沢君から伝達されて来た、その時に余輩はどうしたものか、今までと違ってちょっとそれに耳を傾けたのである。
一体、沢田君はどういう芸風の人か、今まで何をやったのが出色か、というと松井須磨子のサロメにヨカナンを演(や)ったことがあるというような話だ、それは面白そうだ、ヨカナンをやりこなし得るものが机竜之助を演ったらおもしろいに相違ない、兎に角一度会って見よう、ということになって、寺沢の紹介でたしか日比谷の松本楼で初会見をし、食事を共にした後に帝劇を三人で見物した、それが最初の縁であった。
だが、その時は劇上演のことには話は進行しなかったのである、とにかく、尚また沢田君の持つ芸の本質を眼のあたり見せて貰わなければならぬ、自分が見に行きたいがその暇がない、また同君も東京へ来て演る機会は少ない、丁度名古屋まで来て、そこで中村吉蔵君の井伊大老を演るという機会があったから、そこで寺沢君に我輩の代理として沢田君の芸風を見届けに行って貰った、帰って来ての寺沢の報告は甚だよい、沢田は貫禄も相当あるし部下もよき一団を相当集めてある、演らして見たらよいと云う様な提案であったと覚えているそこで我輩は考えた、今や歌舞伎は新興の意気はなく、新派は沈衰して振わず、沢田君あたりを一つ起して東京劇壇に風雲を捲き起させるのも眠気|醒(ざま)しではないかという心持にまで進んで来たのだ、そのうちに沢田は我慢しきれず大阪で成功した意気込をもって東京へ旗揚げに来た、沢田としては最初に大菩薩峠をもって来たかったのだろうけれども我輩はまだ熟しないと見てその機会を与えなかった、そこで沢田は東京の旗揚げに多分明治座であったと思う、そこへ乗り込んで「カレーの市民」というのを最初に国定忠治を後に演ったと思っている、なかなかよく演った、ちょっと類のない芸風もあるし覇気もあるし、殊に国定忠治の中気の場、召捕の場の刀を抜かんとして抜き得ざる焦燥の形などは却々(なかなか)うまいものであった、ただ芸風に誇張と臭味とが多少つき纏っていることは素人(しろうと)出身として無理もないと思われる位のものであった、併しこの一座存外によく演りは演るが、東京の芝居見物には殆んど全く馴染(なじみ)が無い、そこで客足の薄いことは全く気の毒でもあり、会社の女工と覚しいようなのを大挙入場させたりして穴埋をするような景気であったり、十数人の見物しか土間にいなかったりというようなこともあった、その帰り途に横浜でやった時の如きは四五人の見物しか数えられない有様でてれ隠しにテニスか何かをやって誤魔化したというような事実話もある、然しこれは彼及び彼一座の恥でもなければ外聞でもない、如何に相当の実力がありとはいえ顔馴染の無い土地へ来ての全く素人出の旗揚げでは無理のないことでもあるそうして大阪へ帰ったが、次に東京へ乗り出すには是非とも別の看板が必要である、いや別の看板がなければ再びは乗り出せないのだ、如何に乗り出したくても興行主が承知する筈(はず)はなかったのだ、そこで沢田は第二回の出戦に当り大菩薩峠著者を衝(つ)くこと甚だ激しいのは当然の成り行きである、一体大菩薩峠というものが掲載当時からそういう一種の人気を持っていた外に、都新聞という新聞が当時は東京市中へ第一等に売れる新聞であり、演芸界花柳界には圧倒的の勢力を持っていたのである。
こちらは大菩薩峠の著者、相当沢田に対する予備認識も出来たし芸風も眼のあたり特色も看(み)て取っているしその実力に相応して顔馴染の少ない立場にいることに同情も持って居りまたこれを拉(らっ)し来って東京劇壇の眼を醒さしてやろうというような多少の野心もあったものだから、まあともかく脚本を書いて見ろという処まで進むと、沢田は大いに喜んで座付の行友李風(ゆきともりふう)という作者に書かせてその原稿を我輩のもとへ送り届けてよこした、どうも行友君などという人は旧来の作者で我々の思うところを現わし得る人でないという予感もあったけれども、とにかくそれを読むと全然ものになっていないのである、そこで余輩はそのことを云って返してしまった、そうすると、更にまた書き直して送って来た、それもいけない、都合何でも四五回書き改めさせたと思う、最後に至って実によく出来た、固(もと)より行友君という人がそういう人だから内容精神に触れるというわけには行かないが、それにしても練れば練るだけのことはある、最初の原稿とは雲泥(うんでい)の相違ある巧妙な構図が出来上って来た、そこで余輩もこれを賞めて、なおその原稿に詳細な加筆削除を試みたり、附箋をしたりしてこれならばといって帰してやった、(この我輩書き入れの原稿を木村毅君が今所持しているとのことだが、それはたしかに第二回目の時のものだろう、最初のは震災や何かがあり、沢田の身の上にも転変甚だしかったから十中の十までは消滅しているに相違ない)斯うして訂正の脚本原稿と相当に激励の手紙を添えてやると、それを受取ったのが沢田が何でも道後あたりへ乗り込んでいた時ではなかったかと思う、その原稿と手紙を受取って見て沢田と行友とは嬉し泣きに手をとり合って泣いたというようなことがたしか当時の沢田の手紙に書いてあったと思う、その辺までは至極よろしかったが、それからそろそろことがよろしくなくなって来た、もともと我輩の希望には自分の作物の発表慾とか沢田を世間に出すとか何とかいうことよりも、東京劇壇へ一つ爆弾を投じて見たいことにあったのだ、だからその興行は当然東京を初舞台とし、ここから出立しなければならないことに決心していたのだ。
併し彼が関西に根拠を置く実際上の必要から内演試演は彼の地でやり本舞台はこっちで開かねばならぬ、気に入らなければ即座に中止改演ということを堅く約束した、それが為には何処まででも我輩は試演の見分に行く、そうしてその試演が気に入らなければ何時でも止める、或は練りに練り直した上で公開すると斯ういうことを堅く手紙で約束して置いて、そうして大正何年の秋であったか神戸の中央劇場で試演をやるとのことであったから我輩は態々(わざわざ)神戸まで出かけて行ったところが、神戸の中央劇場に辿り着いて見ると試演どころか絵看板をあげて木戸をとっての本興行だ、それを見た我輩の失望落胆から事がこじれて来た。
演劇と我(3)
しかし、沢田君も我輩が態々神戸まで出かけて来たと聞いて、竜之助の衣裳、かつらのまま楽屋から出口まで飛び出して来て我輩に上草履(うわぞうり)を進めたりなどする態度は甚だ慇懃(いんぎん)のものだ、しかしもう開幕間際だったから、楽屋へは行かず直ちに桟敷(さじき)に出て見物したが、竜之助が花道を出て大菩薩峠にかかるその姿勢がまた気に入らなかった、今更故人に対してアラを拾い立てるわけではないが、とにかく沢田君が出ると神戸の見物もなかなか湧いたものだが、舞台へかかる足どりにも八里の難道という足どりは無く、峠の上へ来て四方を見渡す態度にも境界そのものがなくて、どうも見栄(みえ)を切って大向うの掛声を待ち受けるものの如くにしか見えなかったので、あゝこれは見ない方がいいと我輩はそのままサッサと帰って京阪の秋景色を探り木曾路から東京へ帰ってしまった、斯ういう態度は小生の方も少し穏かでないかもしれないが、これはどうも自分の癖で意気の合わぬものを辛抱してまで調子を合せるということは我輩には出来ぬことである、沢田君も多少その辺から癪(しゃく)に障(さわ)っていたかもしれぬ。
そうしているうちに、愈々(いよいよ)また東上してたしか明治座での再度の旗揚であった、そこで我輩もまあ一度だけは東京であのまま演らせて見るほかはあるまい、一度だけは黙認していようという態度をとっていたのが悪かったのだ、神戸の時にすっかり絶縁を宣告して置けばよかったのかもしれないが、生じい親切気を残したのが却って彼の為に毒となったようだ。
果して大菩薩峠を持ち来した再度の旗揚げは彼の出世芸であった、その興行的成功は我輩にとっては予想外でも何でも無かったが世間には予想外であった、前の時にあれほどみじめなものが、こんどは連日満員また満員で、満員を掲げなかったのは一日か二日という成績で打ち上げた、それから彼が素晴らしい勢となって一代の流行児となったのだが、こちらはもう彼を一度世に出すだけのことをしてやればよい、彼は彼としての存在を示せばよいのだ、そこで、全く絶縁の筈のところが彼はこの人気に乗じて極力大菩薩峠を利用しようと心懸けた、無理無体に自分の専売ものとして持ち歩こうとしはじめた、そうして著者に対しては十二分の反抗心を蓄えながら作物だけは大いに利用しようとした処に、すさまじい悖反(はいはん)がある、それが為に我輩の悩まされたると手古(てこ)ずらされた事は少々なものでなかった。
余の老婆心では彼のいい処は認めるが、然しながらあの行き方では精々お山の大将で終るだけのもので、あれを打ち破らなければ本ものにならないと見ていたのだが、彼の周囲の文士とか劇作家とかいう手合は徒(いたず)らにその薄っペラなところだけを増長させて、彼を人気天狗に仕立て上げてしまう外には何にもなし得ないものだ、そういう社会の弊風をあさましいものと見た、その中へ春秋社の神田豊穂君だの公園劇場の根岸寛一君だとかいうのが※ったが、事は愈々紛擾を増すばかりで、彼は京阪、九州地方まで無断興行をして歩いたり、ロクでもないレコードを取ったり、傍若無人の反抗振りを示したが、最後に根岸君の手から謝罪的文の一通を取り全く大菩薩峠から絶縁することになって(つまり沢田はもう決して大菩薩峠を演らない)という一札が出来上ってケリがついたのだ、その時に俵藤丈夫君が来て大いにたんかを切って行ったのも覚えている。
大菩薩峠を演らずとも沢田君並にその一党の人気はなかなか盛んのものであった、またいろいろの意味で沢田の人気へ拍車をかけるものが群っている、一時は沢田の外に役者は無いような景気であった、この人気を煽(あお)ることには相当の理由がある、沢正君は早稲田の出身であって、早稲田出身者は人気ものを作ることに於て独特の勢力をもっていると云われる、然し斯ういう勢力はその人を大成せしめずして寧(むし)ろこれを毒すること甚だしいものだと思っている、沢正以前に松井須磨子なるものがあってこれがまた非常な人気を煽られたもので須磨子の外に女優なしと思われるほどに騒がれた、しかし余輩はそれを見てあぶないものだと思った、松井須磨子は早稲田生えぬきの島村抱月の愛弟子(まなでし)である、一体早稲田派が宣伝に巧みなのは大隈侯以来の伝統である、朝に失敗した大隈が野に下って、学校を立て言論界へ多くの人材を送った、そこで早稲田には筆の人が多いし、宣伝機関が自由になる、自然人気ものを作るのはお手のものといった景気がある、前の松井須磨子もそうであるし、今の沢正もそれだ、須磨子なども寄ってたかって高い処へ押し上げてしまってそうして梯子(はしご)を引いたような形だから、ああいう運命に落つるのも已(や)むを得ないのであった、今また沢正にも同じ轍(てつ)を踏ませるな、困ったものだと思いながら眺めていたが、然し彼の行動には我輩に対する見せつけとか当てつけとかいうものが絶えず隠然として流れていた、しかし、こっちはもう自分の作物が彼等の人気に関係しさえしなければそれでいいのだから済ましているうちに彼等自身も絶縁はしながらも絶えずこの大菩薩峠には憧(あこが)れをもち、世間もまたいつかそのうちに沢正によっての机竜之助が見られるものだということを期待していた。
それは大震災前後の事であった、それ以前沢正の傍若無人な人気の増長振りが警視庁あたりでも睨(にら)まれていたようだ、なに警察の干渉などは人気になって却ってよろしいなどと放言していたこと等が甚だ当局の癪にさわっていたようである、そこで、公園劇場での賭博問題がきっかけとなって、彼等一党が総検挙をされたようであった、これで沢正一座も愈々没落かと思われた、これまでの彼の人気と増長ぶりについては喝采(かっさい)する者は絶えず喝采していたが、余輩から見ると、自暴(やけ)の盲動的勇気としか見えなかった、自暴で背水の陣を敷くと人間はなかなか強くもなれるし、また意外な好運も迎えに来るものだと思わしめられないでもないが、無理は無理だ、と我輩のみならず、心ある者は彼をあやぶみきっていたが、果してこの検挙で幕が下りた、これでさすがの驕慢児も往生だと世間は見ていたが、なかなか悪運(?)の強い彼にとって、この検挙拘留中に彼(か)の大震災で、これがまた彼にとって有利と好運とに展開されたのである。
拘留中の沢田とその一党は大震災の為に放免された、それが機会でまた彼が復活して、どういう運動の結果か、復興第一に日比谷公園で大野外劇を演り、沢正が弁慶勧進帳で押し出すというような変態現象を現出してしまった、それから籾山(もみやま)半三郎君が出資者となって赤坂の演技座に大劇場としての仮普請をして、沢正の為に根城を拵(こしら)えてやったり、非常の景気であって、一代も彼を拍手喝采することで持ち切りであったが、あぶない事はいよいよあぶない、大菩薩峠に反いてからの後の沢田というものは全く意地と反抗とヤケとで暴れ廻っているのだ、何も知らない世間はその勇猛な奮闘振りだけを見て喝采するが我輩のように彼の大きくなったのも小さくなったのも内外の悩みも委細心得ているものにとっては、ああいう行き方が不憫で堪らなかった、といってなまじい同情を寄せて撚(よ)りを戻してはよろしくないに相違ない、我輩は頑として近寄ることをしなかったが、その間いろいろの方面からいろいろの意味で懇願したり、釈明したり謝罪的の表明をして来たり、籾山君なども自身幾度び我輩を口説(くど)きに来たかわからないし、沢田君も再々自身もやって来たしいろいろと好意を表したが我輩としてはどうしても作物の上で再び彼と見ゆることは絶対的に許されない事であったのだ。
そのうちに、沢田があの通り若くして斃(たお)れることになってしまった、病名は中耳炎ということであったが、なあに中耳炎のことがあるものか、ああいう無理の行き方をすればまいって了(しま)うのはあたり前である、沢正なればこそあれだけにやったのだ、普通の人なら少くとも五年前に死んでいたのだ、その後は意地だけであそこまで通して来たのだ、中耳炎というのはその当座の病名だけのものだ、我輩から云わせれば社会の軽薄なる人気が寄ってたかって彼を虐殺してしまったのだ、丁度、松井須磨子を殺したように、また後の文士直木三十五と称するこれは素質から云っても程度から云っても須磨子や沢正に下ること数等のものだが、そんなような手合をすら稀(まれ)に見る天才かの如く持ち上げて、そうして過分の労力を消耗させて殆んど虐殺に等しい最期をさせた、余輩は斯ういう行き方を非常に嫌う、もし沢正にして他の人気やグループを悉(ことごと)く脱出しても真に大菩薩峠の作意を諒解し、我輩の忠言を聴き節を屈し己(おの)れを捨て、そうして磨きをかけたならばはじめて古今無類の立派な名優が出来上ったに相違ないと我輩は思う、世間の賞(ほ)めるのは彼の最も悪いところを賞めるのである、彼の最もよいと云われるところは我輩から見れば毫釐(ごうり)の差が天地の距りとなっている、彼が最後まで机竜之助を演りたい演りたいということに憧(こが)れて憧れ死にをしたような心中は、真に惜しいことであるが、この一枚の隔たりがとうとう彼には見破られないで亡くなったのだ。
その当時彼に対して面会を避けたり要求懇請を突っぱねたりつれない挙動のみを見せた我輩に対し負けず嫌いの彼がどの位内心悲憤していたかということも想像出来るし、その悲憤に対して何も知らぬファンが一にも二にも彼に同情するの余り、我輩を悪(あし)ざまにした、我輩の蒙(こうむ)った不愉快も少々なものではなかった、当時、彼から来た手紙なども見ないで放っぽり出していたのだが、近頃或事件の必要から古い手紙類を整理したところ、一通の封の切らないやつが出て来た、今日これを書く機会に封を切って見よう。
冠省
御無沙汰に打過ぎて居りまするがお変なき事と大慶に存じます。
扨て
いろ/\御無理を申して御煩せしてからもう三年に近くなります、小生が御音信をしたり、御訪ねをすると屹度(きつと)大人のお煩ひになることを恐れますが、でも小生の止むに止まれぬ願を更めてお胸にお止め下さいまし、あれからとても諦めねばならぬ事と押へ忘れ様とつとめて長い月日が立ちました、でも絶えず私の頭の中に往来するのをどうする事も出来ずに歯を喰ひしばつて我慢をして来ましたが、今年は私共新国劇も愈々満十周年を数へますので、いさゝか其紀念を致したいのでございます。
で其紀念興行(六月)を催すに何よりも吐胸を突いて来るものはお作大菩薩峠の事でございます。
私は過去の一切に就いてお心にそまなかつた事を更めて陳謝いたします。
どうぞ私共の苦闘十年にめでゝお作上演をお許容下さいまし。
只管(ひたすら)に願上ます。
これまでの行がかり上いろ/\な方面への責任等は総べてを私が背負ひまして御迷惑はかけますまひ、一度拝眉心からお願したいと存じて居ります。頓首
三月十一日早朝
沢田正二郎
この手紙の表書きには本所区向島須崎町八九番地とあって日附は三月十一日になっているが、年号はちょっとわからない、兎に角我輩が早稲田鶴巻町にいる時分使に持たせてよこしたので郵便ではなかったからスタンプもない、これを今T君に筆記をして貰っている今日、即ち昭和九年の六月十八日にはじめて封を切って読み下して見ると感慨無量なるものがある。
我輩はこれほどに切なる沢田君の手紙をも封を切らずに十年間も放り出して置くような人間である、如何に自分が無情漢であるかということの証拠になるかもしれないが、この無情は持って生れた我輩の一つの特質なるを如何ともすることが出来ない、凡(およ)そ好かれたり、よろこばれたりするような親切は本当の親切ではない、本当の親切は大いに憎まれなければならない、大いに怨(うら)まれて憎まれるほどの親切でなければ骨にも身にもなるものではないという片意地が我輩には今日でもあるのである、彼の心の中の或ものを微塵に砕いてその後に来るものでなければ本当のものではない、然るにとうとうこの機会が到来しないで沢田は死んでしまった。
彼の病気が愈々危篤の時余は東京にいなかったと思うが、余の家族のものは余に代って見舞の電報を打ったということだが、こちらは何の見舞もせず、また先方からも何とも挨拶はなかった。
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生前身後の事 (せいぜんしんごのこと) のリンク元
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