生活の道より - 宮本 百合子 ( みやもと ゆりこ )
今年の一月から半年ばかりの間、私は大変非人間的条件の下で生活することを余儀なくされた。
今になって見ると、その不自由な生活の終りに近くなってからのことであるが、私は心臓が弱って氷嚢を胸に当てていないと、肺動脈の鬱血で咳が出て苦しい状態にあった。
そういう或る日、塵くさい木造建物の二階の窓際で髪を梳かし、少しさっぱりした心持になって不図わきを見ると、二三冊の本と一緒に「ローザの手紙」という茶色表紙の本が目に入った。
手にとって見ると、ローザ・ルクセンブルグがヨーロッパ大戦中三年四ヵ月の間監禁生活を強いられていた、その期間にカール・リープクネヒトの妻にあてて書いた手紙が集録されたものであった。
ところどころ、それとなく拾い読みをしては私は激しい読書の飢渇を医やしたのであったが、そのような条件の中で偶然私の視野に入って来たこの小さい一冊の書翰集は二様、三様の感想をそのときの私の心に呼び起した。
その本の出版されていることを、私はずっと以前から知っていたし、訳者の井口という人をも少し知っていた。私が最初の小説を発表した時分、和服でまだ帝大の制帽をかぶっていた訳者は、私の仕事について何通かの手紙をくれたし訪問もされた。私はまだごく若くて、その人の専門の学問その他に注意をひかれるより、単純にその人の書く手紙に英語の詩やその他所謂偉大な思想家の著作からの引用文があんまり沢山あることで、何か親しみ難い感情を抱いた。
私は、手紙の中に様々の引用文などをする人の好みとは反対の好みを持っていたのであった。
訳者と私とのつき合いは発展せず、そのまま何年かがすぎ、しかしその人がドイツへゆくとき、又外国で病を得てスイスの療養所にいること、妻子の様子などについて短い消息は、エハガキなどで忘られた時分送られて来た。
それから後の数年の間に、私は日本の知識階級出の一婦人作家としては懸命な発展への道を辿り、訳者は、日本にであろうかベルリンにであろうかドイツ婦人の妻とその間に生れた子供をのこして早世した。
このローザの書翰集の粗末に扱われていたんでいる表紙の上にのこされている訳者の名は、帯もない姿で読んでいる私にそのような十数年以前のことを、おのずから思い出させた。そして長谷川如是閑氏や吉野作造氏の序文がついていることから、当時は全くわからなかったが、その井口という人が新人会初期の時代に青年期を生活した人であったことを理解し、当時の進歩的であった大学生の生活と今日の急進的学生の生活内容との間にある違いの大さを、深く感情を動かして思い較べたのであった。
ローザについては又別のことも思い出された。片山潜がアムステルダムの大会で演説をしたとき、ドイツ語の通訳はクララ・ツェトキンがやり、フランス語へはローザが翻訳して大衆に伝えたという話をきいたことがあった。
片山潜は、ローザの熱情あふれた才能につよく心をひかれた様子で、うむ、あれは傑物だった。葡萄酒がすきで、その大会なんかの時も朝から一杯やって、談論風発という勢だった。クララの方はもっと常識的な女だね。老人は、自分で煮た苺のジャムを食べさせながらそのようなことをも話した。
ローザの手紙はこのほか、カウツキーの妻にやったのを纏めたのが翻訳出版されているのである。しかしこの手紙のところどころ読んで、私が最も強く精神を引立てられたのはローザと自分との間にある歴史の発展の大さということについての実感であった。
獄中におけるローザの手紙は、その中に吐露されている自然の鳥や花に対する優しい情緒や憧憬やに充ちている点で有名である。そのような環境の中にあって公然と書き得る手紙の内容は略(ほぼ)きまったものであることは云えるのだが、私はあのように不屈であり、高い気概に満ちていた尊敬すべきローザでさえも、当時のまだ方向が決定しなかったドイツの運動の段階においてはさけがたいものであったろう或る種の制約をうけていたことを、手紙の多くの箇所に、特に彼女がゲーテの自然科学を研究した観念論者らしい態度に賛同し、自分も環境を無視して今地質の本をよんでいると書いているところで、強く感じたのであった。
情緒の昂揚に全身をまかせ、詩について音楽について、憧憬(あこがれ)ている旅の楽しさについて物語る時、マルクス主義の立場で経済論を書くローザはいつともなく黙祷だの、美しさだの、神秘だのの感情に溺れている。雲の綺麗さに恍惚として彼女は「こんな色や、こんな形があれば、人生は美しく生甲斐がありますわね」とソーニャに書き、「神様や、空や、雲や、人生の凡ての美しいものはウロンケにいのこりはしません」私の生きている限り、私と一緒にいると云っているのである。
これらの言葉は、混り気ないローザの心の虹であり、私の感情に非難を呼びおこすどころか、寧ろこの偉大な活動家であったローザのロマンチックな熱情を、可憐なようにさえ感じた。
私は、一人の平凡な婦人である自分がローザの心持をやさしく眺めて、それをローザが生きていた頃よりは広い土台の上に立って批判をもしていることに、驚かされたのであった。
個人の才能ではローザのようにとびぬけたものでは決してあり得ない一人の女が、猶且つ卓抜なローザをその歴史性によって理解し得るということはどこからその力が生じているのであろうか。私は、そこに、階級の発展が平凡な大衆の一人一人を、いつしか前進させている力の意味深い実際と、ローザが流した血が無駄でなかったこととの実証があると思ったのであった。
私は、その書翰集をよみとおす間もなく、再び流通のわるい空気の中に、汗と小便との匂いがつまっている格子の内に、追い下されたのであったが、なかなか感動は消えず、更に一つのことを思い起した。それはゴーリキイが、どうして今日の彼にまで発展することが出来たかということについて或る人が書いていた言葉であった。
ゴーリキイは、作品の中に「凡て必要なものを獲得し、獲得したものを手離そうとはしない」階級の気分を吹きこんだ。そればかりでなく、自身全くそのように生きて来たから、今日のゴーリキイたり得たというのである。〔一九三四年十二月〕
底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
1980(昭和55)年12月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
1952(昭和27)年10月発行
初出:「知識」
1934(昭和9)年12月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
そういう或る日、塵くさい木造建物の二階の窓際で髪を梳かし、少しさっぱりした心持になって不図わきを見ると、二三冊の本と一緒に「ローザの手紙」という茶色表紙の本が目に入った。
手にとって見ると、ローザ・ルクセンブルグがヨーロッパ大戦中三年四ヵ月の間監禁生活を強いられていた、その期間にカール・リープクネヒトの妻にあてて書いた手紙が集録されたものであった。
ところどころ、それとなく拾い読みをしては私は激しい読書の飢渇を医やしたのであったが、そのような条件の中で偶然私の視野に入って来たこの小さい一冊の書翰集は二様、三様の感想をそのときの私の心に呼び起した。
その本の出版されていることを、私はずっと以前から知っていたし、訳者の井口という人をも少し知っていた。私が最初の小説を発表した時分、和服でまだ帝大の制帽をかぶっていた訳者は、私の仕事について何通かの手紙をくれたし訪問もされた。私はまだごく若くて、その人の専門の学問その他に注意をひかれるより、単純にその人の書く手紙に英語の詩やその他所謂偉大な思想家の著作からの引用文があんまり沢山あることで、何か親しみ難い感情を抱いた。
私は、手紙の中に様々の引用文などをする人の好みとは反対の好みを持っていたのであった。
訳者と私とのつき合いは発展せず、そのまま何年かがすぎ、しかしその人がドイツへゆくとき、又外国で病を得てスイスの療養所にいること、妻子の様子などについて短い消息は、エハガキなどで忘られた時分送られて来た。
それから後の数年の間に、私は日本の知識階級出の一婦人作家としては懸命な発展への道を辿り、訳者は、日本にであろうかベルリンにであろうかドイツ婦人の妻とその間に生れた子供をのこして早世した。
このローザの書翰集の粗末に扱われていたんでいる表紙の上にのこされている訳者の名は、帯もない姿で読んでいる私にそのような十数年以前のことを、おのずから思い出させた。そして長谷川如是閑氏や吉野作造氏の序文がついていることから、当時は全くわからなかったが、その井口という人が新人会初期の時代に青年期を生活した人であったことを理解し、当時の進歩的であった大学生の生活と今日の急進的学生の生活内容との間にある違いの大さを、深く感情を動かして思い較べたのであった。
ローザについては又別のことも思い出された。片山潜がアムステルダムの大会で演説をしたとき、ドイツ語の通訳はクララ・ツェトキンがやり、フランス語へはローザが翻訳して大衆に伝えたという話をきいたことがあった。
片山潜は、ローザの熱情あふれた才能につよく心をひかれた様子で、うむ、あれは傑物だった。葡萄酒がすきで、その大会なんかの時も朝から一杯やって、談論風発という勢だった。クララの方はもっと常識的な女だね。老人は、自分で煮た苺のジャムを食べさせながらそのようなことをも話した。
ローザの手紙はこのほか、カウツキーの妻にやったのを纏めたのが翻訳出版されているのである。しかしこの手紙のところどころ読んで、私が最も強く精神を引立てられたのはローザと自分との間にある歴史の発展の大さということについての実感であった。
獄中におけるローザの手紙は、その中に吐露されている自然の鳥や花に対する優しい情緒や憧憬やに充ちている点で有名である。そのような環境の中にあって公然と書き得る手紙の内容は略(ほぼ)きまったものであることは云えるのだが、私はあのように不屈であり、高い気概に満ちていた尊敬すべきローザでさえも、当時のまだ方向が決定しなかったドイツの運動の段階においてはさけがたいものであったろう或る種の制約をうけていたことを、手紙の多くの箇所に、特に彼女がゲーテの自然科学を研究した観念論者らしい態度に賛同し、自分も環境を無視して今地質の本をよんでいると書いているところで、強く感じたのであった。
情緒の昂揚に全身をまかせ、詩について音楽について、憧憬(あこがれ)ている旅の楽しさについて物語る時、マルクス主義の立場で経済論を書くローザはいつともなく黙祷だの、美しさだの、神秘だのの感情に溺れている。雲の綺麗さに恍惚として彼女は「こんな色や、こんな形があれば、人生は美しく生甲斐がありますわね」とソーニャに書き、「神様や、空や、雲や、人生の凡ての美しいものはウロンケにいのこりはしません」私の生きている限り、私と一緒にいると云っているのである。
これらの言葉は、混り気ないローザの心の虹であり、私の感情に非難を呼びおこすどころか、寧ろこの偉大な活動家であったローザのロマンチックな熱情を、可憐なようにさえ感じた。
私は、一人の平凡な婦人である自分がローザの心持をやさしく眺めて、それをローザが生きていた頃よりは広い土台の上に立って批判をもしていることに、驚かされたのであった。
個人の才能ではローザのようにとびぬけたものでは決してあり得ない一人の女が、猶且つ卓抜なローザをその歴史性によって理解し得るということはどこからその力が生じているのであろうか。私は、そこに、階級の発展が平凡な大衆の一人一人を、いつしか前進させている力の意味深い実際と、ローザが流した血が無駄でなかったこととの実証があると思ったのであった。
私は、その書翰集をよみとおす間もなく、再び流通のわるい空気の中に、汗と小便との匂いがつまっている格子の内に、追い下されたのであったが、なかなか感動は消えず、更に一つのことを思い起した。それはゴーリキイが、どうして今日の彼にまで発展することが出来たかということについて或る人が書いていた言葉であった。
ゴーリキイは、作品の中に「凡て必要なものを獲得し、獲得したものを手離そうとはしない」階級の気分を吹きこんだ。そればかりでなく、自身全くそのように生きて来たから、今日のゴーリキイたり得たというのである。〔一九三四年十二月〕
底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
1980(昭和55)年12月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
1952(昭和27)年10月発行
初出:「知識」
1934(昭和9)年12月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
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