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田丸先生の追憶 - 寺田 寅彦 ( てらだ とらひこ )

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 なくなってまもない人の追憶書くのはいろいろの意味で困難なものである。第一には、時のパースペクティヴとでもいうのか、近いほうの事がらの印象が遠い以前のそれを掩散(えんさん)したがる傾向がある。第二には、近いほうの事を書こうとすると自然現在環境の中でのいろいろの当たりさわりが生じやすい。第三には、いったいそういうものを書こうというような気持ちにもなりにくいものである、いかにも心ないわざだという気がするのである。それで田丸(たまる)先生場合にしても、なくなられてまもない今日、こんなものを書く気になりかねるのではあるが、理学部編集委員のたっての勧誘によって、ほんの少しばかり自分高等学校時代思い出を主にして書いてみることにした。
 明治二十九年の秋|熊本(くまもと)高等学校入学してすぐに教わった三角術(トリゴノメトリー)の先生がすなわち当時の若い田丸先生であった。トドハンターの本を教科書として使っていた。いちばん最初に試験をしたときの問題が、別にむつかしいはずはなかったのであるが、中学校三角問題のような、公式へはめればすぐできる種類のものでなくて、「吟味」といったような少しねつい種類の問題であったので、みんなすっかり面食らって、きれいに失敗してしまって、ほとんどだれも満足にできたものはなかった。その次の時間先生が教壇に現われて、この悲しむべき事実を報告されたのであったが、その時の先生は実にがっかりしたような困り切ったような悲痛な顔をしておられた。あんなやさしい問題ができないのは実に不思議だと言われるのであった。生徒一同もすっかりしょげてしまい恐縮してしまったのであったが、とにかくもう一ぺん試験のやり直しをすることになり、今度は普通中学校式の問題であったから、みんなどうにか及第点をとって、それで事は落着したのであった。
 たしか二年のときであったと思うが、ある日、運動会のあった翌日だからというので、先生がたに交渉して休みにしてもらおうとした。ほかの先生はだいたい休みということになったが、物理受け持ちの田丸先生はなかなか容易に承諾を与えられなかった。そこで生徒のほうで勝手に休むことに相談一決してみんなで失敬してしまったものである。先生が教場へはいってみるとそこにはたった一人、まじめで勉強家で有名な何某一人のほかにはだれもいなかった。その翌日になると一同で物理講堂へ呼び出されて、当然の譴責(けんせき)を受けなければならなかった。その時の先生の悲痛な真剣な顔を今でもありあり思い出すことができるような気がする。それが生徒に腹を立ててどなりつけるのではなくて、いったいどうして生徒がそういう不都合をあえてするかということに関する反省と自責を基調とする合理的な訓戒であったのだから、元来始めから悪いにきまっている生徒らは、針でさされた風船玉のように小さくなってしまった。化学のK先生がそばにいて取り成しの役を勤められたのにお任せしてとにかく一同で謝罪謹慎の意を表してゆるしてもらうことになったのである。
 われわれの在学中田先生はほとんど一度も欠勤されなかったような気がする。当時一方には、日曜の翌日、すなわち月曜日というと三度に一度は必ず欠勤するという先生もいたので、田丸先生の精勤はかなり有名であった。
 ある時|熊本(くまもと)の町を散歩している先生の姿を見かけた記憶がある。なんでも袖(そで)の短い綿服にもめん袴(ばかま)をはいて、朴歯(ほおば)の下駄(げた)、握り太のステッキといったようないで立ちで、言わば明治初年のいわゆる「書生」のような格好をしておられた。そうして妙な頭巾(ずきん)のような風変わりの帽子をかぶっておられたような気がする。とにかく他の先生がたに比べてよほど書生っぽい質素で無骨な様子をしておられたことはたしかである。
 まじめで、正直で、親切で、それで頭が非常によくて講義が明快だから評判の悪いはずはなかった。しかし茶目気分|横溢(おういつ)していてむつかしい学科はなんでもきらいだという悪太郎どもにとっては、先生の勤勉と、正確というよりも先生の教える学問のむつかしさが少なからず煙たくもあったらしい。当時、アメリカ民謡の曲を取った「ヒラ/\と連隊旗」という唱歌があったが、それを、もう一ぺんもじってこしらえたパロディーの戯歌がはやっていた。その歌詞の中には、先生の名も他の多くの先生がたと一度に槍玉(やりだま)にあげられていた。そうして「いざあばれ、あばあれ」というのがこの愉快な歌のリフレインになっていたのである。
 第二学年学年試験の終わったあとで、その時代にはほとんど常習となっていたように、試験をしくじった同郷同窓のために、先生がたの私宅へ押しかけて「点をもらう」ための運動委員が選ばれた時、自分もその一員にされてしまった。そうしてそのためにもう一人の委員と連れ立って始めて田丸先生下宿を尋ねた。当時先生の宿は西子飼橋(にしこがいばし)という橋の近くで、前記の化学のK先生と同宿しておられた。厳格な先生のところへ、そういう不届き千万な要求を持ち込むのだから心細い。しかられる覚悟をきめて勇気をふるって出かけて行ったが、先生は存外にこうしたわれわれの勝手な申しぶんをともかくも聞き取られた。しかしもちろんそんなことを問題にはされるはずがなかった。その要件の話がすんだあとで、いろいろ雑談をしているうちに、どういうきっかけであったか、先生が次の間からヴァイオリンを持ち出して来られた。まずその物理機構について説明された後に、デモンストレーションのために「君が代」を一ぺんひいて聞かされた。田舎者(いなかもの)の自分は、その時生まれて始めてヴァイオリンという楽器を実見し、始めて、その特殊な音色を聞いたのであった。これは物理教室所蔵の教授標本としての楽器であったのである。それから自分は、全く子供のように急にこの珍しい楽器おもちゃがほしくなったものである。そうして月々十一円ずつ郷里からもらっている学費のうちからひどい工面(くめん)をして定価九円のヴァイオリンを買うに至るまでのいきさつがあったのであるが、これは先生関係のない余談であるからここには略する。とにかく自分がこの楽器をいじるようになったそもそもの動機は田丸先生に「点をもらい」に行った日に発生したのである。ずっと後に先生留学から帰って東京に住まわれるようになってから、ある時期の間は、ずいぶん頻繁(ひんぱん)に先生お宅押しかけて行って先生のピアノの伴奏で自己流の演奏、しかもファーストポジションばかりの名曲弾奏を試みたのであったが、これには上記のような古い因縁があったのである。
 高等学校における田丸先生物理も実に理想的の名講義であったと思う。後に理科大物理学科の課目として教わったものが「物理学」だとすると、その基礎になるべき「物理そのもの」とでもいったようなものを、高等学校在学中に田丸先生からみっしり教わったというような気がする。この時に教わったものが、今日に至るまで実に頭にしみ込み実によく役に立ち、そうしていつでも自分の中で生きてはたらいているのを感ずる。高等学校物理は実にだいじだと思う。
 そのころ先生は時々物理宿題を出して生徒一同から答案を徴し、そうしてそれを詳しく調べた上で一同を集めておいてその答案に対する丁寧な講評をされた。その宿題を解くのが自分には実に楽しみであった。


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