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田舎医師の子 - 相馬 泰三 ( そうま たいぞう )

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     一  六年振りに、庸介(ようすけ)が自分郷里へ帰って来たのは七月上旬のことであった。  その日は、その頃のそうした昨日、一昨日と同じように別にこれという事もない日であった。夜の八時頃、彼は、暗く闇に包まれた父の家へ到着した。
 彼は意気地なくおどおどしていた。玄関の戸は事実、彼によって非常注意深く静かに開けられたのであったが、それは彼の耳にのみはあまりに乱暴な大きな音を立てた。「なあにこれは俺の父の家だ。俺の生れた家だ。……俺は今、久しぶりに自分ふるさとへ帰って来たのだ!」彼は、心の中でこう自分自身に力附けようとした。
 誰もそこへ出て来る者がなかった。彼はそこに突立ったまま、何と言葉を発していいか、また、何としていいか自分に解からなかった。「来るのではなかった。やっぱりここは俺の来る所ではなかった。そうだ。……否、まったく何という馬鹿げた事だ。この家は俺の生れた家だ。……それ、その一間(ひとま)を距(へだ)てた向うの襖(ふすま)の中には、現在この俺を生んだ母が何か喋舌(しゃべ)っているではないか。それがこの俺の耳に今聞えているではないか。そら! その襖が開くぞ。……そして、それ、そこへ第一に現われて来るのが、……お前の帰るのを一生懸命に待っていてくれた妹の房子だ。……六年目に会うのだよ。どんなに大きく、可愛らしくなっている事だか。……」そこへ、自分の荷を運んで車夫が入って来た。色の褪(あ)せた粗末革鞄(トランク)をほとんど投げ出すように彼の足許(あしもと)へ置くと、我慢がしきれないと云ったように急いで顔や手に流れている汗を手拭でふいた。
 取次ぎに出て来た一人少女(それが小間使で、お志保というのであるという事を彼は知っているはずはなかった。)が慎(つつ)ましやかに坐って自分を仰ぎ見ているのに気がつくと、彼は「そうだった。」と思った。「どなたさまでいらっしゃいますか。……どちらからお出になりましたので?」少女は黙ってはいるが、その顔の表情が確かにそう云っているのが解かった。彼はあわてて、少しまご附いて、意味もなく、
「あ、私は……。」こう云った。が、ひどく手持不沙汰なのでそのまゝ口を噤(つぐ)んでしまった。ちょうどその時、
「まあ、兄さんだわ。……兄さん!……ほら、やっぱり妾(わたし)が当ってよ。」こう云って妹が元気よく走り出して来てくれなかったら、彼は、飛んでもない、重苦しい翻訳劇の白(せりふ)のような調子で、不恰好(ぶかっこう)な挨拶を云い出したかも知れなかったのである。
 祖母、母、今年十二歳になる姪(めい)の律子などが珍らしがって我慢なくそこへどやどやとやって来た。
「どんなに待ったか知れなかったわ。むろん、先月のうちだとばっかり思っていたのよ。」
 荷物を内へ運び入れながら、妹は無邪気な、馴々しい調子で云った。これが不思議にも堪え難い窮屈さから救い出してくれた。そしてそれからずーッと数時間の間、安易な、日常茶飯の気分が保たれた。

     二

 父は往診に出ていて、まだ帰宅していなかった。
 庸介は暑苦しいので、着て来た洋服をすぐに浴衣(ゆかた)に替えた。そして久し振りの挨拶が一通りすむと、絵団扇(えうちわ)で襲いかかる蚊を追い払いながら、
「明るいうちに着きたいと思いましたが、汽車時間をすっかり間違ってしまったので、それで………」こう云った。
 しかし、それは、全然、嘘であった。庸介を乗せた汽車はその日のお午少し過ぎた頃にこの家から一里半ほど距(へだた)った所にある淋しい、小さな停車場へ着いたのであった。そしてその時、彼は確かにそこへ下車したのであった。赤帽のいない駅なので、自分のお粗末革鞄(トランク)をまるで引摺(ひきず)るようにして、空架橋線路の向う側からこっち側へと昇って降りて来た。改札口を出ると、一人の車夫を探し出して来てそれに荷物を運ばせて、停車場前に列(なら)んでいる、汽車待合所を兼ねた小さな旅舎(はたご)の一つへと上って行った。そしてそこでお茶を命じ、喰いたくもない食事を命じ、それからひどく疲れたから、などと云って、旅行用の空気枕を取り出して横になったりしたのであった。
 夏の太陽が赤々と燃えて、野の末の遠い山の蔭へ落ちかけた頃になって、宿の女中が胡散臭(うさんく)さそうに、
「あの、……お客様はお泊りでござんすのかね。


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