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病院の窓 - 石川 啄木 ( いしかわ たくぼく )

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 野村良吉は平日(いつも)より少し早目に外交から歸つた。二月中旬過の、珍らしく寒さの緩(ゆる)んだ日で、街々の雪がザクザク融けかかつて來たから、指先に穴のあいた足袋が氣持惡く濡れて居た。事務室に入つて、受付の廣田に聞くと、同じ外勤の上島長野未だ歸つて來ないと云ふ。時計は一時十六分を示して居た。
 暫時(しばらく)其處の煖爐(ストーブ)にあたつて、濡れた足袋を赤くなつて燃えて居る煖爐に自暴(やけ)に擦(こす)り附けると、シュッシュッと厭(いや)な音がして、變な臭氣が鼻を撲(う)つ。苦い顏をして階段を上つて、懷手をした儘耳を欹てて見たが、森閑として居る。右の手を出して、垢着いた毛糸の首卷と毛羅紗鳥打帽を打釘に懸けて、其手で扉(ドア)を開けて急がしく編輯局を見※した。一月程前に來た竹山と云ふ編輯主任は、種々の新聞を取散らかした中で頻りに何か書いて居る。主筆は例の如く少し曲つた廣い背を此方に向けて、煖爐の傍の窓際で新着の雜誌らしいものを讀んで居る。「何も話して居なかつたナ。」と思ふと、野村は少し安堵した。今朝出社した時、此二人が何か密々(ひそ/\)話合つて居て、自分が入ると急に止めた。――それが少からず渠の心を惱ませて居たのだ。役所※りをして、此間やつた臨時種痘成績調やら辭令やらを寫して居ながらも、四六時中(しよつちう)それが氣になつて、「何の話だらう? 俺の事だ、屹度俺の事に違ひない。」などと許り考へて居た。
 ホッと安堵すると妙な笑が顏に浮んだ。一足入つて、扉を閉めて、
今日は餘程(よつぽど)道が融けましたねす。』
と、國訛りのザラザラした聲で云つて、心持頭を下げると、竹山は
『早かつたですナ。』
『ハア、今日は何も珍らしい材料がありませんでした。』
と云ひ乍ら、野村は煖爐の側にあつた椅子を引ずつて來て腰を下した。古新聞を取つて性急(そゝくさ)に机の塵を拂つたが、硯箱の蓋をとると、誰が使つたのか墨が磨れて居る。「誰だらう?」と思ふと、何だか譯もなしに不愉快に感じられた。立つて行つて、片隅の本箱の上に積んだ原稿紙を五六十枚掴んで來て、懷から手帳を出して手早く頁を繰つて見たが、これぞと氣乘りのする材料も無かつたので、「不漁(しけ)だ。不漁だ。」と呟いて机の上に放り出した。頭がまたクサクサし出す樣な氣がする。兩の袂を探つたが煙草一本も殘つて居ない。野村は顏を曇らせて、磨れて居る墨を更に磨り出した。
 編集局は左程廣くもないが、西と南に二つ宛の窓、新築した許りの社なので、室の中が氣持よく明るい。五尺に七尺程の粗末椴松(とゞまつ)の大机が据ゑてある南の窓には、午後一時過の日射(ひざし)が硝子の塵を白く染めて、机の上には東京やら札幌小樽やらの新聞が幾枚も幾枚も擴げたなりに散らかつて居て、恰度野村の前にある赤インキの大きな汚染(しみ)が、新らしい机だけに、胸が苛々(いら/\)する程血腥い厭な色に見える。主筆は別に一脚の塗机を西の左の窓際に据ゑて居た。
 此新聞は昔|貧小(ちつぽけ)な週刊であつた頃から、釧路の町と共に發達して來た長い歴史を持つて居て、今では千九百何號かに達して居る。誰やらが「新聞界の桃源」と評しただけあつて、主筆上島野村と、唯三人でやつて居た頃は隨分|暢氣(のんき)なものであつたが、遠からず紙面やら販路やらを擴張すると云ふので、社屋の新築と共に竹山主任が來た。一週間許り以前に長野と云ふ男が助手といふ名で入社(はい)つた。竹山が來ると同時に社内の空氣も紙面の體裁も一新されて、野村上島も怠ける譯にいかなくなつた。
 野村は四年程以前に竹山を知つて居た。其竹山が來ると聞いた時、アノ男が何故|恁※(こんな)釧路あたりまで來るのかと驚いた。と同時に、云ふに云はれぬ不安が起つて、口には出さなかつたが、惡い奴が來る事になつたもんだと思つて居た。野村は、假令|甚※(どんな)に自分自分に好意を持つてる人にしても、自分過去を知つた者には顏を見られたくない經歴を持つて居た。けれども、初めて逢つた時は流石に懷しく嬉しく感じた。
 野村の聞知つた所では、此社の社長代議士が、怎(どう)した事情の下にか知れぬけれど、或實業家から金を出さして、去年の秋小樽新聞を起した。急造(にはかづくり)の新聞だから種々(いろ/\)な者が集まつたので、一月經つか經たぬに社内に紛擾が持上つた。社長は何方かと云へば因循な人であるけれど、資本家から迫られて、社の創業費を六百近く着服したと云ふ主筆初め二三人の者を追出して了つた。と、怎(どう)したのか知らぬが他の者まで動き出して、編集局に唯一人殘つた。それは竹山であつたさうな。竹山は其時一週間許りも唯一人新聞を出して見せたのが、社長に重んぜられる原因になつて、二度目の主筆が兎角竹山を邪魔にし出した時は、自分一人の爲に折角の社を騷がすのは本意で無いと云つて、誰が留めても應(き)かずに到頭退社の辭を草した。幸ひ此方の社が擴張の機運に際して居たので、社長は隨分と破格な自由待遇を與へて竹山を伴れて來たのだと云ふ事であつた。打見(うちみ)には二十七八に見える老(ふ)けた所があるけれど、實際は漸々二十三だと云ふ事で、髭が一本も無く、烈しい氣象が眼に輝いて、少年らしい活氣の溢れた、何處か恁うナポレオン肖像畫に肖通つた所のある顏立で、愛相一つ云はぬけれど、口元に絶やさぬ微笑に誰でも人好(ひとずき)がする。一段二段の長い記事を字一つ消すでなく、スラスラと淀みなく綺麗原稿書くので、文選小僧が先づ一番先に竹山を讃めた。社長が珍重してるだけに恐ろしく筆の立つ男で、野村もそれを認めぬではないが、年が上な故か怎(どう)うしても心から竹山に服する氣にはなれぬ。


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