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白金之絵図 - 泉 鏡花 ( いずみ きょうか )

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       一  片側は空も曇って、今にも一村雨(ひとむらさめ)来そうに見える、日中(ひなか)も薄暗い森続きに、畝(うね)り畝り遥々(はるばる)と黒い柵を繞(めぐ)らした火薬庫の裏通(うらどおり)、寂しい処(ところ)をとぼとぼと一人通る。 「はあ、これなればこそ可(よ)けれ、聞くも可恐(おそろ)しげな煙硝庫(えんしょうぐら)が、カラカラとして燥(はしゃ)いで、日が当っては大事じゃ。」
 と世に疎(うと)そうな独言(ひとりごと)。
 大分日焼けのした顔色で、帽子を被(かむ)らず、手拭(てぬぐい)を畳んで頭に載(の)せ、半開きの白扇を額に翳(かざ)した……一方雑樹交りに干潟(ひがた)のような広々とした畑(はた)がある。瓜(うり)は作らぬが近まわりに番小屋も見えず、稲が無ければ山田|守(も)る僧都(そうず)もおわさぬ。
 雲から投出したような遣放(やりぱな)しの空地に、西へ廻った日の赤々と射(さ)す中に、大根の葉のかなたこなたに青々と伸びたを視(なが)めて、
「さて世はめでたい、豊年の秋じゃ、つまみ菜もこれ太根(ふとね)になったよ。」
 と、一つ腰を伸(の)して、杖(つえ)がわりの繻子張(しゅすばり)の蝙蝠傘(こうもりがさ)の柄に、何の禁厭(まじない)やら烏瓜(からすうり)の真赤(まっか)な実、藍(あい)、萌黄(もえぎ)とも五つばかり、蔓(つる)ながらぶらりと提げて、コツンと支(つ)いて、面長で、人柄な、頤(あご)の細いのが、鼻の下をなお伸(のば)して、もう一息、兀(はげ)の頂辺(てっぺん)へ扇子を翳(かざ)して、
「いや、見失ってはならぬぞ、あの、緑青色(ろくしょういろ)した鳶(とび)が目当じゃ。」
 で、白足袋に穿込(はきこ)んだ日和下駄(ひよりげた)、コトコトと歩行(ある)き出す。
 年齢(とし)六十に余る、鼠と黒の万筋の袷(あわせ)に黒の三ツ紋の羽織、折目はきちんと正しいが、色のやや褪(あ)せたを着、焦茶の織ものの帯を胴ぶくれに、懐大きく、腰下りに締めた、顔は瘠(や)せた、が、目じしの落ちない、鼻筋の通ったお爺(じい)さん。
 眼鏡(めがね)はありませんか。緑青色の鳶だと言う、それは聖心女子院とか称(とな)うる女学校屋根に立った避雷針の矢の根である。
 もっとも鳥居|数(かず)は潜(くぐ)っても、世智に長(た)けてはいそうにない。
 ここに廻って来る途中三光坂を上(あが)った処で、こう云って路(みち)を尋ねた……
「率爾(そつじ)ながら、ちとものを、ちとものを。」
 問われたのは、ふらんねるの茶色なのに、白縮緬(しろちりめん)の兵児帯(へこおび)を締めた髭(ひげ)の有る人だから、事が手軽に行(ゆ)かない。――但し大きな海軍帽を仰向(あおむ)けに被(かぶ)せた二歳ぐらいの男の児(こ)を載せた乳母車を曳(ひ)いて、その坂路(さかみち)を横押(よこおし)に押してニタニタと笑いながら歩行(ある)いていたから、親子の情愛は御存じであろうけれども、他人に路を訊(き)かれて喜んで教えるような江戸児(えどっこ)ではない。
 黙然(だんまり)で、眉と髭と、面中(つらじゅう)の威厳を緊張せしめる。
 老人もう一倍腰を屈(かが)めて、
「えい、この辺に聖人と申す学校がござりまする筈(はず)で。」
「知らん。」と、苦い顔で極附(きめつ)けるように云った。
「はッ、これはこれは御無礼至極な儀を、実(まこと)に御歩(おみあし)を留めました。」
 がたがたと下りかかる大八車を、ひょいと避けて、挨拶(あいさつ)に外した手拭も被らず、そのまま、とぼんと行(ゆ)く。頭(つむり)の法体(ほったい)に対しても、余り冷淡だったのが気の毒になったのか。
「ああ聖心女学校ではないのかい、それなら有ッじゃね。」
「や、女子(おなご)の学校?」
「そうですッ。そして聖人ではない、聖心、心(こころ)ですが。」
いかさま、そうもござりましょう。実はせんだって通掛(とおりかか)りに見ました。聖、何とやらある故に、聖人と覚えました。いや、老人|粗忽(そこつ)千万。」
 と照れたようにその頭をびたり……といった爺様(じいさま)なのである。

       二

 その女学校の門を通過ぎた処に、以前は草鞋(わらじ)でも振(ぶ)ら下げて売ったろう。葭簀張(よしずばり)ながら二坪ばかり囲(かこい)を取った茶店が一張(ひとはり)。片側に立樹の茂った空地の森を風情にして、如法(にょほう)の婆さんが煮ばなを商う。これは無くてはなるまい。あの、火薬庫を前途(まえ)にして目黒へ通う赤い道は、かかる秋の日も見るからに暑くるしく、並木の松が欲しそうであるから。
 老人通りがかりにこれを見ると、きちんと畳んだ手拭で額の汗を拭(ふ)きながら、端の方の床几(しょうぎ)に掛けた。
「御免なさいよ。」
「はいはい、結構なお日和(ひより)でございます。」
「されば……じゃが、歩行(ある)くにはちと陽気過ぎますの。」
 と今時、珍しいまで躾(たしなみ)の可(い)い扇子を抜く。
「いえ、御隠居様、こうして日蔭に居(お)りましても汗が出ますでございますよ。何ぞ、シトロンかサイダアでもめしあがりますか。」と商売は馴(な)れたもの。
「いやいや、老人(としより)の冷水とやら申す、馴れた口です。お茶を下され。」
「はいはい。」
 ちと横幅の広い、元気らしい婆さん。とぼけた手拭、片襷(かただすき)で、古ぼけた塗盆へ、ぐいと一つ形容の拭巾(ふきん)をくれつつ、
「おや、坊ちゃんお嬢様。」と言う。
 十一二の編(あみ)さげで、袖(そで)の長いのが、後(あと)について、七八ツのが森の下へ、兎(うさぎ)と色鳥ひらりと入った。


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