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白髪鬼 - 岡本 綺堂 ( おかもと きどう )

  • 岡本綺堂怪談集 影を踏まれた女/白髪鬼・光文社文庫2冊
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     一  S弁護士は語る。  私はあまり怪談などというものに興味をもたない人間で、他人からそんな話を聴こうともせず、自分から好んで話そうともしないのですが、若いときにたった一度、こんな事件に出逢ったことがあって、その謎だけはまだ本当に解けないのです。
 今から十五年ほど前に、わたしは麹町半蔵門に近いところに下宿生活をして、神田のある法律学校に通っていたことがあります。下宿屋といっても、素人家(しろうとや)に手入れをして七|間(ま)ほどの客間を造ったのですから、満員となったところで七人以上の客を収容することは出来ない。いわば一種の素人下宿のような家で、主婦五十をすこし越えたらしい上品な人でした。ほかに廿八九の娘と女中ひとり、この三人で客の世話をしているのですが、だんだん聞いてみると、ここの家(うち)には相当の財産があって、長男京都大学にはいっている。その長男卒業して帰って来るまで、ただ遊んでいるのもつまらなく、また寂しくもあるというようなわけで、道楽半分にこんな商売を始めたのだそうです。したがって普通下宿屋とはちがって、万事がいかにも親切で、いわゆる家族待遇をしてくれるので、止宿人(ししゅくにん)はみな喜んでいました。
 そういうわけで、私たちは家の主婦奥さんと呼んでいました。下宿屋おかみさん奥さんと呼ぶのは少し変ですが、前にも言う通り、まったく上品で温和な婦人で、どうもおかみさんとは呼びにくいように感じられるので、どの人もみな申合せたように奥さんと呼び、その娘を伊佐子さんと呼んでいました。家の苗字は――仮りに堀川といって置きましょう。
 十一月はじめの霽(は)れた夜でした。わたしは四谷須賀町のお酉(とり)さまへ参詣に出かけました。東京の酉(とり)の市(まち)というのをかねて話には聞いていながら、まだ一度も見たことがない。さりとて浅草まで出かけるほどの勇気もないので、近所の四谷で済ませて置こうと思って、ゆう飯を食った後に散歩ながらぶらぶら行ってみることになったのですから、甚だ不信心参詣者というべきでした。今夜は初酉だそうですが、天気がいいせいか頗(すこぶ)る繁昌しているので、混雑のなかを揉まれながら境内(けいだい)と境外を一巡して、電車通りの往来まで出て来ると、ここも露天で賑わっている。その人ごみの間で不意に声をかけられました。
「やあ、須田君。君も来ていたんですか。」
「やあ、あなたも御参詣ですか。」
「まあ、御参詣と言うべきでしょうね。」
 その人は笑いながら、手に持っている小さい熊手と、笹の枝に通した唐(とう)の芋とを見せました。彼は山岸猛雄――これも仮名です――という男で、やはり私とおなじ下宿屋に止宿しているのですから二人は肩をならべて歩き始めました。
「ずいぶん賑やかですね。」と、わたしは言いました。「そんなものを買ってどうするんです。」
「伊佐子さんにお土産ですよ。」と、山岸はまた笑っていました。「去年も買って行ったから今年も吉例でね。」
「高いでしょう。」と、そんな物の相場を知らない私は訊(き)きました。
「なに、思い切って値切り倒して……。それでも初酉だから、商人鼻息がなかなか荒い。」
 そんなことを言いながら四谷見附方角へむかって来ると、山岸はあるコーヒー店の前に立ちどまりました。
「君、どうです。お茶でも飲んで行きませんか。」
 かれは先に立って店へはいったので、わたしもあとから続いてはいると、幸いに隅の方のテーブルが空(す)いていたので、二人はそこに陣取って、紅茶菓子を注文しました。
「須田君はお酒を飲まないんですね。」
「飲みません。」
「ちっともいけないんですか。」
「ちっとも飲めません。」
「わたしも御同様だ。少しは飲めるといいんだが……。」と、山岸は何か考えるように言いました。「この二、三年来、なんとかして飲めるようになりたいと思って、ずいぶん勉強してみたんですがね。どうしても駄目ですよ。」
 飲めない酒をなぜ無理に飲もうとするのかと、年の若い私はすこしおかしくなりました。その笑い顔をながめながら、山岸はやはり子細ありそうに溜息をつきました。
「いや、君なぞは勿論飲まない方がいいですよ。しかし私なぞは少し飲めるといいんだが……。


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