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盈虚 - 中島 敦 ( なかじま あつし )

  • 日本幻想文学集成 9 中島敦 矢川澄子編 梅木英治
  • 【文庫】 李陵・山月記  (新潮文庫)  中島敦@中国古典
  • 朗読CD 朗読街道47「山月記・名人伝」中島敦 試聴あり
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  • ●中島敦 ちくま日本文学全集
  • ●李陵・山月記 中島敦 新潮文庫
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  • 古本 李陵 山月記 弟子 名人伝 中島敦
  • 中島敦全集 1・2(ちくま文庫)
  • ■「中島敦全集 第一巻」 昭和23年発行 /筑摩書房
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 衛(えい)の霊公三十九年と云う年の秋に、太子|※※(かいがい)が父の命を受けて斉(せい)に使したことがある。途(みち)に宋の国を過ぎた時、畑に耕す農夫共が妙な唄を歌うのを聞いた。

既定爾婁豬
盍帰吾艾※

牝豚はたしかに遣った故
早く牡豚を返すべし

 衛の太子は之(これ)を聞くと顔色を変えた。思い当ることがあったのである。
 父・霊公夫人(といっても太子の母ではない)南子(なんし)は宋の国から来ている。容色よりも寧(むし)ろ其(そ)の才気で以てすっかり霊公をまるめ込んでいるのだが、此の夫人最近霊公に勧め、宋から公子朝という者を呼んで衛の大夫に任じさせた。宋朝有名な美男である。衛に嫁ぐ以前の南子と醜関係があったことは、霊公以外の誰一人として知らぬ者は無い。二人の関係は今衛の公宮で再び殆どおおっぴらに続けられている。宋の野人の歌うた牝豚牡豚とは、疑いもなく、南子と宋朝とを指しているのである。
 太子は斉から帰ると、側臣の戯陽速(ぎようそく)を呼んで事を謀(はか)った。翌日、太子が南子夫人挨拶に出た時、戯陽速は既に匕首(あいくち)を呑んで室の一隅の幕の陰に隠れていた。さりげなく話をしながら太子は幕の陰に目くばせをする。急に臆したものか、刺客は出て来ない。三度合図をしても、ただ黒い幕がごそごそ揺れるばかりである。太子の妙なそぶりに夫人は気が付いた。太子の視線を辿り、室の一隅に怪しい者の潜んでいるを知ると、夫人悲鳴を挙げて奥へ跳び込んだ。其の声に驚いて霊公が出て来る。夫人の手を執って落着けようとするが、夫人は唯狂気のように「太子が妾(わたし)を殺します。太子が妾を殺します」と繰返すばかりである。霊公は兵を召して太子を討たせようとする。其の時分には太子刺客も疾(と)うに都を遠く逃げ出していた。
 宋に奔(はし)り、続いて晋(しん)に逃れた太子|※※(かいがい)は、人毎に語って言った。淫婦刺殺という折角(せっかく)の義挙も臆病な莫迦(ばか)者の裏切によって失敗したと。之(これ)も矢張衛から出奔した戯陽速が此の言葉を伝え聞いて、斯(こ)う酬いた。とんでもない。こちらの方こそ、すんでの事に太子裏切られる所だったのだ。太子は私を脅して、自分義母を殺させようとした。承知しなければ屹度(きっと)私が殺されたに違いないし、もし夫人を巧く殺せたら、今度は必ず其の罪をなすりつけられるに決っている。私が太子の言を承諾して、しかも実行しなかったのは、深謀遠慮の結果なのだと。

 晋では当時|范(はん)氏|中行(ちゅうこう)氏の乱で手を焼いていた。斉・衛の諸国叛乱者の尻押をするので、容易に埒(らち)があかないのである。
 晋に入った衛の太子は、此の国の大黒柱たる趙簡子(ちょうかんし)の許に身を寄せた。趙氏が頗(すこぶ)る厚遇したのは、此の太子を擁立することによって、反晋派たる現在の衛侯に楯突(たてつ)こうとしたに外ならぬ。
 厚遇とはいっても、故国にいた頃の身分とは違う平野の打続く衛の風景とは凡(およ)そ事(こと)変(かわ)った・山勝ちの絳(こう)の都に、侘しい三年の月日を送った後、太子遥かに父衛侯の訃(ふ)を聞いた。噂によれば、太子のいない衛国では、已(や)むを得ず※※(かいがい)の子・輒(ちょう)を立てて、位に即かせたという。国を出奔する時後に残して来た男の児である。当然自分異母弟の一人が選ばれるものと考えていた※※(かいがい)は、一寸(ちょっと)妙な気がした。あの子供が衛侯だと? 三年前のあどけなさを考えると、急に可笑(おか)しくなって来た。直ぐにも故国に帰って自分が衛侯となるのに、何の造作も無いように思われる。
 亡命太子は趙簡子の軍に擁せられて意気揚々と黄河を渡った。愈々衛の地である。戚(せき)の地迄来ると、しかし、其処(そこ)からは最早一歩も東へ進めないことが判った。太子入国拒む新衛侯の軍勢の邀撃(ようげき)に遇ったからである。戚の城に入るのでさえ、喪服をまとい父の死を哭(こく)しつつ、土地民衆の機嫌をとりながらはいらなければならぬ始末であった。事の意外に腹を立てたが仕方が無い。故国に片足突っ込んだ儘、彼は其処に留まって機を待たねばならなかった。それも、最初の予期に反し、凡そ十三年の長きに亘って。
 最早(曾(かつ)ては愛らしかった)己(おのれ)の息子の輒(ちょう)は存在しない。


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