真鬼偽鬼 - 岡本 綺堂 ( おかもと きどう )
一
文政四年の江戸には雨が少なかった。記録によると、正月から七月までの半年間にわずかに一度しか降雨をみなかったという事である。七月のたなばたの夜に久しぶりで雨があった。つづいて翌八日の夜にも大雨があった。それを口切りに、だんだん雨が多くなった。
こういう年は、いわゆる片降り片照りで、秋口になって雨が多いであろうという、老人たちの予言がまず当った方で、八月から九月にかけて、とかくに曇った日がつづいた。その九月の末である。京橋八丁堀の玉子屋|新道(じんみち)に住む南町奉行所の与力(よりき)秋山嘉平次が新川(しんかわ)の酒問屋の隠居をたずねた。
隠居は自分の店の裏通りに小さい隠居所をかまえていて、秋山とは年来の碁がたきであった。秋山もきょうは非番であったので、ひる過ぎからその隠居所をたずねて、例のごとく烏鷺(うろ)の勝負を争っているうちに、秋の日もいつか暮れて、細かい雨がしとしとと降り出した。秋山は石を置きながら、表の雨の音に耳をかたむけた。
「また降って来ましたな。」
「秋になってから、とかくに雨が多くなりました。」と、隠居も言った。「しかしこういう時には、少し降った方が気がおちついて好うござります。」
ここで夕飯の馳走になって、二人は好きな勝負に時の移るのを忘れていた。秋山の屋敷ではその出先を知っているので、どうで今夜は遅かろうと予期していたが、やがて四つ(午後十時)に近くなって、雨はいよいよ降りしきって来たので、中間(ちゆうげん)の仙助に雨具を持たせて主人を迎えにやった。
「明日のお勤めもござります。もうそろそろお帰りになりましてはいかが。」
迎えの口上を聞いて、秋山も夜のふけたのに気がついた。今夜のかたき討は又近日と約束して、仙助と一緒にここを出ると、秋の夜の寒さが俄かに身にしみるように覚えた。仙助の話では、さっきよりも小降りになったとの事であったが、それでも雨の音が明らかにきこえて、いくらか西風もまじっているようであった。そこらの町家はみな表の戸を締切って、暗い往来にほとんど灯のかげは見えなかったが、その時代の人は暗い夜道に馴れているので、中間の持っている提灯一つの光りをたよりに、秋山は富島町と川口町とのあいだを通りぬけて、亀島橋にさしかかった。
橋の上は風も強い。秋山は傘を傾けて渡りかかると、うしろから不意に声をかけた者があった。
「旦那の御|吟味(ぎんみ)は違っております。これではわたくしが浮かばれません。」
それは此の世の人とも思われないような、低い、悲しい声であった。秋山は思わずぞっとして振返ると、暗い雨のなかに其の声のぬしのすがたは見えなかった。
「仙助。あかりを見せろ。」
中間に提灯をかざさせて、彼はそこらを見廻したが、橋の上にも、橋の袂にも、人らしい者の影は見いだされなかった。
「おまえは今、なにか聞いたか。」と、秋山は念のために中間に聞いてみた。
「いいえ。」と、仙助はなにも知らないように答えた。
秋山は不思議に思った。極めて細い、微かな声ではあったが、雨の音にまじって確かに自分の耳にひびいたのである。それとも自分の空耳で、あるいは雨か風か水の音を聞きあやまったのかも知れないと、彼は半信半疑で又あるき出した。八丁堀へゆき着いて、玉子屋新道にはいろうとすると、新道の北側の角には玉円寺という寺がある。
その寺の門前で犬の激しく吠える声がきこえた。
「黒め、なにを吠えていやがる。」と、仙助は提灯をさし付けた。
その途端に、秋山のうしろから又もや怪しい声がきこえた。
「旦那の御吟味は違っております。」
「なにが違っている。」と、秋山はすぐ訊きかえした。「貴様はだれだ。」
「伊兵衛でござります。」
「なに、伊兵衛……。
こういう年は、いわゆる片降り片照りで、秋口になって雨が多いであろうという、老人たちの予言がまず当った方で、八月から九月にかけて、とかくに曇った日がつづいた。その九月の末である。京橋八丁堀の玉子屋|新道(じんみち)に住む南町奉行所の与力(よりき)秋山嘉平次が新川(しんかわ)の酒問屋の隠居をたずねた。
隠居は自分の店の裏通りに小さい隠居所をかまえていて、秋山とは年来の碁がたきであった。秋山もきょうは非番であったので、ひる過ぎからその隠居所をたずねて、例のごとく烏鷺(うろ)の勝負を争っているうちに、秋の日もいつか暮れて、細かい雨がしとしとと降り出した。秋山は石を置きながら、表の雨の音に耳をかたむけた。
「また降って来ましたな。」
「秋になってから、とかくに雨が多くなりました。」と、隠居も言った。「しかしこういう時には、少し降った方が気がおちついて好うござります。」
ここで夕飯の馳走になって、二人は好きな勝負に時の移るのを忘れていた。秋山の屋敷ではその出先を知っているので、どうで今夜は遅かろうと予期していたが、やがて四つ(午後十時)に近くなって、雨はいよいよ降りしきって来たので、中間(ちゆうげん)の仙助に雨具を持たせて主人を迎えにやった。
「明日のお勤めもござります。もうそろそろお帰りになりましてはいかが。」
迎えの口上を聞いて、秋山も夜のふけたのに気がついた。今夜のかたき討は又近日と約束して、仙助と一緒にここを出ると、秋の夜の寒さが俄かに身にしみるように覚えた。仙助の話では、さっきよりも小降りになったとの事であったが、それでも雨の音が明らかにきこえて、いくらか西風もまじっているようであった。そこらの町家はみな表の戸を締切って、暗い往来にほとんど灯のかげは見えなかったが、その時代の人は暗い夜道に馴れているので、中間の持っている提灯一つの光りをたよりに、秋山は富島町と川口町とのあいだを通りぬけて、亀島橋にさしかかった。
橋の上は風も強い。秋山は傘を傾けて渡りかかると、うしろから不意に声をかけた者があった。
「旦那の御|吟味(ぎんみ)は違っております。これではわたくしが浮かばれません。」
それは此の世の人とも思われないような、低い、悲しい声であった。秋山は思わずぞっとして振返ると、暗い雨のなかに其の声のぬしのすがたは見えなかった。
「仙助。あかりを見せろ。」
中間に提灯をかざさせて、彼はそこらを見廻したが、橋の上にも、橋の袂にも、人らしい者の影は見いだされなかった。
「おまえは今、なにか聞いたか。」と、秋山は念のために中間に聞いてみた。
「いいえ。」と、仙助はなにも知らないように答えた。
秋山は不思議に思った。極めて細い、微かな声ではあったが、雨の音にまじって確かに自分の耳にひびいたのである。それとも自分の空耳で、あるいは雨か風か水の音を聞きあやまったのかも知れないと、彼は半信半疑で又あるき出した。八丁堀へゆき着いて、玉子屋新道にはいろうとすると、新道の北側の角には玉円寺という寺がある。
その寺の門前で犬の激しく吠える声がきこえた。
「黒め、なにを吠えていやがる。」と、仙助は提灯をさし付けた。
その途端に、秋山のうしろから又もや怪しい声がきこえた。
「旦那の御吟味は違っております。」
「なにが違っている。」と、秋山はすぐ訊きかえした。「貴様はだれだ。」
「伊兵衛でござります。」
「なに、伊兵衛……。
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