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知性の開眼 - 宮本 百合子 ( みやもと ゆりこ )

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  • 品格ある知性をつくる24の方法 ☆林 望
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 知性というとき、私たちは漠然とではあるが、それが学識ともちがうし日常のやりくりなどの悧巧さといわれているものともちがった、もう少し人生の深いところと関係している或るものとして感じとっていると思う。教養がその人の知性輝きと切りはなせないように一応は見えるが、現実には、教養は月で、知性の光を受けることなしにはその存在さえ示すことが出来ないものと思う。教養ということは範囲のひろい内容をもっているけれども、そういう風な教養は外から与えられない環境のなかで、すぐれたいい素質として或る知性具えているひとは、その知性にしたがって深く感じつつ生活してゆく間に、おのずから独特な人生に対する態度教養を獲(え)てゆくという事実は、人間生活の尽きぬ味いの一つであると思う。
 この人生への愛。ひとと自分との運命を大切に思って、そこから美しい花を咲かせようとつとめる心。そのためには自然欠くことの出来ない落付いた理性判断と、柔軟溌溂な独創性、沈着な行動性。それ等のものが、知性と云われるもののなかにみんな溶けこんでいて、事にのぞみ、場合に応じ、本人にとっては何か直感的な判断の感じ、或はどう考えてもそうするのが一番よいと思えるというような感情的な感じかたで、生活作用してゆく。知性というものは抽象の何ものでもなく活々としてしなやかなダイナミックな生活力そのものにつけられた名である。

 例えば、日本の若い婦人たちにも心からの興味と尊敬をもって読まれたキュリー夫人伝にしろ、もしキュリー夫人の一生が、ただ研究室での根気づよい努力ラジウム発見したというだけであったら、その科学的業績に敬意は十分払われるとしても、あの一冊の伝記世界の人々の胸を呼びさましたような感銘は与えなかったに違いない。ポーランドの寧ろ貧しい一人女学生であったマリイ。貴族屋敷の天稟ゆたかな若い家庭教師としての生活経験や失われた恋。更にパリへ勉学に出る前後の窮乏。そして出てから、キュリーとのめぐり会い、その後の妻・母・科学者としての手いっぱいな彼女生活の明け暮れ。そこを貫いて彼女科学上の大きい業績をのこさせたもの、そこに私たちはこの世の中における並々ならぬものを見るのである。キュリー夫人科学上の学識、技能を更に広いところから包んで、そのものの完成をも可能ならしめたもの、それはもとより当時の社会条件と、彼女自身の堅忍であり、不撓な意志でもあるが、もう一歩つきつめてその堅忍や強靭意志が何処から生れて来ていたかと考えてみれば、底には一身の安穏を忘れて科学真実を愛し守る良人と妻とが互に労(いたわ)り評価し愛しつつ、傍ら子供らへの心くばりをもおこたらぬ人間らしい個性が波々と湛えられていたことが感じられる。彼女人間、女としての傷(いたみ)はそこで医(いや)され、科学者としての燃焼はそこから絶えざる焔をとったのであった。

 知性は、コンパクトではないから、決して固定した型のものにきまったいくつかの要素がねり合わされていて、誰でもがハンド・バッグに入れていられるという種類のものではない。そのゆたかさにも、規模にも、要素の配合にも実に無限変化があって、こまかく見ればその発動の運動法則というようなものにも一人一人みな独特な調子をもっているものだろう。とりどりな人間の味、ニュアンスと云われるものの源泉は、恐らくはこういう知性微妙動き波動の重なるかげにあるように思える。
 誰しもこの世の中に生れたとき、既にある境遇というものは持っている。それにつながった運命の大づかみな色合いというものも、周囲としては略(ほぼ)想像することが出来る西洋に、あれは銀の匙を口に入れて生れて来た人というような表現のあるのもそこのところに触れているのだろうが、人間が男にしろ女にしろ、生えたところから自分では終生動き得ない植物ではなくて、自主の力をもった一箇の人間であるという事実は、その境遇とか運命とかいうものに対しても、事情の許す最大可能までは自分から働きかけることも出来ることを示している。「人間は考える葦である」というような云いかたは詩的な表現として好む人もあるだろうが、現実人間はもっとつよく高貴な能動の力をひそめているものである。根はしばられつつ、あの風、この風を身にうけて、あなたこなたに打ちそよぎ、微(かすか)に鳴り、やがて枯れゆく一本の葦では決してない。人間自分から動く動くからこそ互に愛し合いもすれば、傷け合いさえもする。そのように人間動きは激しいのであるが、その激しい人間の間の動きは、よしあしにかかわらず、一定の境遇とか、そこから予想されそうな運命というものをも、どしどし変えてゆく。そとからの力として否応なくどんなにおとなしい一人の若い婦人の日常にもそういうものが様々の形をとって迫って来る激しさは、今日私たちがありあまる程の実例の中に犇々(ひしひし)と感じているところではなかろうか。

 人生歴史時代の、こういう複雑な曲折に身を処して、猶私たちが人間としての希望を守りつづけ、理性の明るさへの期待を失わず、身に添っている数々の困難さえ、はためにもただ悲惨なものとして終らせまいと願う雄々しい意欲をもつとすれば、それは果して通り一遍の女の勝気だの、負けずぎらいだので可能なことであろうか。ましてや破れ鏡のような小ざかしさなどものの役にも立ちにくい。
 ジョルジュ・サンドの「愛の妖精」(岩波文庫)という小説を愛読したかたは決してすくなくないだろうと思う。プチト・ファデットが自分の特別に荒い境遇を変化させて自分の真情からの愛をも完うしてゆく勤勉で精気にみちた姿は、人生への知性というものは、ああいう風にも現れるという活々としたよろこばしい見本の一つである。
 又、近頃堀口大学氏の手で「孤児マリイ」「光ほのか」「マリイの仕事場」と三つの小説翻訳されたフランス婦人作家マルグリット・オオドゥウの生活作品なども、知性というものについて考えさせる多くのものをもっている。
 オオドゥウは中部フランスの寒村に生れた孤児(みなしご)であった。育児院で育てられて、十三歳からノロオニュの農家の雇娘で羊飼いをした。巴里へ出てからは十九歳裁縫女として十二時労働をし、そのひどい生活からやがて眼を悪くして後、彼女は自家で生計(くらし)のための仕立ものをしながらその屋根裏小部屋抽斗の中にかくして、「ただ自分一人のために」小説をかきだした。それが「孤児マリイ」であった。つづけて「マリイの仕事場」を書き、「光ほのか」は一九三七年彼女死ぬ脱稿された。どの作品でも、オオドゥウは寄るべない一人貧困少女がこの世の荒波を凌いで、俗っぽい女の立身とはちがう人間らしさの満ちた生活を求めて、健気(けなげ)にたたかってゆく姿を描いているのであるが、最近出版された「マリイの仕事場」は、オオドゥウの人生に対するまともさ、暖かさ、健全怒りと厭悪、働いて生きてゆく女、人間として現実を見ている眼の明晰さが、最も美しくあらわれている作品だと思う。オオドゥウの、そのままで一つの物語をなしているような生涯がそれだけで彼女にあのような作品を書かせているのではなく、物語のようでさえある生活様々の推移の場面で、彼女がそこに何を感じ、何を身につけて生きて来たかという、その生きかたの窮局が、彼女彼女にしかない生活のみのりをもたらしているのである。

 どんな人でも、日々の暮しというものはもっている。だが、それが生活と呼ぶにふさわしい内容を持っているかどうかという点を省みると、そこに知性問題があるのだと思われる。
 生活のなかで試され、鍛えられつつ生活にその力を及ぼしてゆく人間知性は、普通なものであると同時に各々その人々に属した動的なものでもあるから、その人としての知性の限度が現実の或る条件のうちで負けることもまれではない。例えば、すぐれた生きてであり芸術家であったオオドゥウでさえも、最後作品「光ほのか」のなかでは、彼女知性人生における一つの味、哀憐の趣というようなものへの傾倒のために弱められて女主人公「光ほのか」が、自分の生涯にかかわる愛さえ正当には守れなかった瞬間に対して、女として心から表すべき遺憾感情を喪っている。自分主観のなかで甘えると、知性は忽ち痲痺してしまうところを見れば、知性というものの本質健啖であって、ひろいつよい合理的な客観力を、養いとして常に必要としていることも理解される。
 今日日本で、そして女のひとの生活のありように即して、知性が云われるとき、私たちの心は一口に述べつくせない感想にみたされざるを得ないと思う。知性をゆたかならしめ広くつよくあらしめる条件今日社会にあって、婦人知性の目覚めが云われているのか、それとも男が先立ってゆくこれまでの世の中のありようの野蛮さに対して婦人知性が再び考慮にのぼって来ているのか、そのいずれなのだろうか。
 日本婦人知性が云われる場合、永い歴史今日までそのかげを投げている独特な習俗によって、知性本質に対する解釈もおのずと変形させられて、活溌な、動的な、時には破綻を恐れず荒々しい力で新しい人生の局面をも開こうとする面はとかくうしろに置かれ、受け身な物わかりよさ、昔ながらの諦めをシモーヌ・シモンの髪かたちめいた現代の表情で表現するという風な範囲に、きりちぢめられている危険はないと云えるだろうか。所謂(いわゆる)女らしさへの又ひとつの隈(くま)として、しなとして、知性というような言葉今日会話の飾りとしてさしはさまれ、婦人自身何かそこに肩をよせているようなおぼつかなさは無いと云い得るだろうか。

 今日世界歴史の深刻な一転機に面していて、地球はその緊張で震えんばかりである。


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