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破片 - 寺田 寅彦 ( てらだ とらひこ )

  • N100601 萬華鏡☆寺田寅彦著☆岩波書店刊
  • 柿の種★寺田寅彦★岩波文庫
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  • 寺田寅彦随筆集/岩波文庫/全5冊組/函■昭和48年
  • 【望星2008年11月号】寺田寅彦に会いたい!
  • 【ラク】FZ0501026●古書/岩波書店/寺田寅彦全集 文学編 第15巻
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  • 【ちくま日本文学034】寺田寅彦 1878-1935
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       一  昭和九年八月三日の朝、駒込(こまごめ)三の三四九甘納豆製造業渡辺忠吾(わたなべちゅうご)氏(二七)が巣鴨(すがも)警察署衛生係へ出頭し「十日ほど前から晴天の日は約二千、曇天でも約五百匹くらいの蜜蜂(みつばち)が甘納豆製造工場に来襲して困る」と訴え出たという記事が四日の夕刊に出ていた。  これがどの程度に稀有(けう)な現象だか自分には判断できないが、聞くのは初めてである。
 今年の天候異常七月晴天が少なかったために、何か特殊な、蜜蜂の採蜜資料になるべき花のできが悪かったか、あるいは開花がおくれたといったような理由があるのではないかとも想像される。
 近ごろ見た書物に、蜜蜂花野の中で、つぼみと、咲いた花とを識別するのは、彼らにものの形状を弁別する能力のあるためだということが書いてあった。すなわち星形や十字形のものと、円形のものとを見分けることができるというのである。
 しかし甘納豆場合にはこの物の形が蜂を誘うたとは思われない。何か嗅覚類似(きゅうかくるいじ)の感官にでもよるのか、それとも、偶然工場に舞い込んだ一匹が思いもかけぬ甘納豆鉱山をなめ知っておおぜいの仲間に知らせたのか、自分には判断の手掛かりがない。
 それはとにかく、現代日本の新聞社会記事として、こういうのは珍しい科学的な特種(とくだね)である。たとえ半分がうそだとしてもいつもの型に入った人殺し自殺記事よりも比較のできないほど有益な知識の片影と貴重な暗示の衝動とを読者に与える。
 この蜜蜂(みつばち)の話は人間社会経済問題にも実にいろいろな痛切な問題を投げるようである。それよりも今さし当たって自分はなんとなく北米南米における日本移民排斥問題思い出させられる。
 南半球納豆屋さんには日本から飛んで来る蜜蜂が恐ろしいのである。

       二

 庭と中庭との隔ての四(よ)つ目(め)垣(がき)がことしの夏は妙にさびしいようだと思って気がついて見ると、例年まっ黒く茂ってあの白い煙のような花を満開させるからすうりが、どうしたのかことしはちっとも見えない。これはことしの例外的な気候不順のためかとも思ってみたが、しかし、庭の奥のほうのからすうりはいつものように健康に生長している。
 家人に聞いてみると、せんだって四つ目垣の朽ちたのを取り換えたとき、植木屋だか、その助手だかが無造作に根こそぎ引きむしってしまったらしい。
 植物を扱う商売でありながら植物をかわいがらない植木屋もあると見える。これではまるで土方か牛殺しと同等であると言って少しばかり憤慨したのであった。
 もっとも、自然愛することを知らない自然科学者、人間をかわいがらない教育家も捜せばやはりいくらもあることはあるのである。

       三

 内田百間(うちだひゃっけん)君の「掻痒記(そうようき)」を読んで二三日後に偶然映画夜間飛行」を見た。これに出て来るライオネル・バリモアーの役が湿疹(しっしん)に悩まされていることになっていてむやみにからだじゅうをかきむしる。ジョン・バリモアー役の主人公が「おれもそんなに忠実なコンパニオンがほしい」とはなはだ深刻な皮肉を言う場面がある。
 このごろ、のら猫(ねこ)の連れていた子猫のうちの一匹がどうしたわけか家の中へはいり込んで来て、いくら追い出しても追い出してもまたはいって来て、人を恋しがって離れようとしない。まっ黒な烏猫(からすねこ)であるが、頭から首にかけて皮膚病のようなものが一面に広がっていてはなはだきたならしい。それのみならず暇さえあればあと足を上げては何かを振り飛ばすような動作をする。ちょっとすわったかと思うと、また歩きだしてはすぐにすわる、また歩きだす。しょっちゅう身もだえをして落ち着けないように見える。一夜、この猫が天鵞絨張(びろうどば)りの椅子(いす)の上にすわっていたのを引きおろした跡に、何やら小さいもののうごめくのを居合わせ親類婦人が見つけて、なおよく見ると、小さな蛆(うじ)のようなものが無数に天鵞絨の毛の中にもぐり込んだりまた浮かび出したりしている。どうも椅子(いす)から出たものではなくて、猫が落としたものらしい。
 長年猫を飼っているが、こんな寄生虫を見るのははじめてのことである。
 自分の頭から背中から足の爪先(つまさき)までが急にかゆくなるように感じた。
 この猫が書斎の前の縁側にすわってかゆがって身もだえをしていられると、どうにも仕事が手につかない。文字通り意味でのシンパシーまたミットライドとはこんなのを言うのかもしれない。
 三つの「かゆい話」のぶつかったのは全く偶然のコインシデンスである。しかし、それを三つ結びつけて感じるのは必ずしも偶然ではないであろう。

       四

 八月二十四日の晩の七時過ぎに新宿(しんじゅく)から神田(かんだ)両国(りょうごく)行きの電車に乗った。おりから防空演習の予行日であったので、まだ予定の消燈時刻前であったが所によっては街路の両側に並んだ照明燈が消してあった。しかし店によってはまだいつものように点燈していたにもかかわらず、町の暗さが人を圧迫するように思われた。いつもは地上百尺の上に退却している闇(やみ)の天井が今夜は地面までたれ下がっているように感ぜられた。これでは、明治時代明治以前の町の暗さについてはもう到底思い出すこともできないわけである。
 一週間田舎(いなか)へ行っていたあとで、夜の上野(うえの)駅へ着いて広小路(ひろこうじ)へ出た瞬間に、「東京は明るい」と思うのであるが、次の瞬間にはもうその明るさを忘れてしまう。
 札幌(さっぽろ)から出て来た友人は、上京した第一日中東京異常立派に美しく見えるという。翌日はもう「いつもの東京」になるらしい。
 けんかでなしに別居している夫婦の仲のいいわけがわかるような気がする。

       五

 ある地下食堂昼食を食っていると、向こう隣の食卓に腰をおろした四十男がある。麻服の上着なしで、五分刈り頭にひげのない丸顔にはおよそ屈託や気取りの影といったものがない。※リットルのビールを二杯注文して第一杯はただひと息、第二杯は三口か四口に飲んでしまって、それからお皿(さら)に山盛りのチキンライス何かをペロペロと食ってしまった、と思うともう楊枝(ようじ)をくわえてせわしなく出て行った。
 なんだか非常にうらやましい気がした。何がうらやましいか、そのときにはよくわからなかった。たぶん、飲んでも食ってもふくれない「胃」がうらやましかったのではないかと思われる。
 食うものばかりではない、見るもの聞くものまでがことごとく腹にたまって不消化を起こす自分などのような胃の弱い人間には、この男のような屈託のない顔は一生勉強してもとてもできそうもない。


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