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社会的分業論 - 石川 三四郎 ( いしかわ さんしろう )

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     ○ クロポトキンの反対  社会主義者無政府主義者中にて、分業制度を最も悪(にく)んだものはピエールクロポトキンであらう。エドワアド・カアペンタアの如きも、諸種の仕事兼業する自作小農を以て社会健全分子だとしてゐるが、クロポトキン程には分業制を排斥しなかつた。クロは多くの社会主義者がこの分業制を支持するのを見て「さしも社会に害毒ある、さしも個人に暴戻なる、さしも多くの悪弊の源泉たる此原則」と言つてゐる。分業は吾々を白き手と黒き手との階級に別けた。土地の耕作者機械に就ては何にも知らない。機械働くものは農業に就て全然無知である。一生涯ピンの頭を切ることを仕事にする労働者もある。単なる機械補助者になつて、而も機械全体に就て何の考へも持たない。かくて彼等はそれによつて労働愛好心を破壊し、近代産業の初期に、吾々自身の誇りである機械創造したところの発明能力喪失した、とクロポトキンは言つてゐる。(チヤツプマン版『パンの略取』二四七頁―二四九頁)
 更にクロポトキンは曰ふ。個人間に行はれた分業国民間にも遂行されやうとした。分業の夢を追つて行つた経済学者政治学者は、われ/\に教へて言つた。「ハンガリイやロシヤはその性質上からして工業国を養ふために穀物作るべく運命づけられてをり、英国世界市場に綿糸、鉄製品、及び石炭供給すべく、ベルギイは毛織物を等々……加るに各国民の中に於ても各地方は各々自身の専業を持たなければならない。」併しながら「知識人工政治的の境界を無視する。産業上に於ても亦然りである。人類現下の形勢は、有り得べき凡ての工業農業と共に歩一歩と各々の国内及び各地の地方結び着けるにある。……われ/\は一時的分業利益の数々は認めなければならないが、然し今は労働の綜合を絶叫すべき時であることを容易に発見する。」(能智修彌氏訳『田園工場仕事場』五頁―七頁)

     ○ セエとコント

 分業の弊害を認めた学者は古くからあつた。アダム・スミスが「分業」といふ文字作り、それを学理的に論じてから間もなく、仏国のジヤン・バチスト・セエ(一七六七―一八三二年)は一人人間が常に針の十八分の一の部分だけを作つて暮らすなぞといふことは人間性の尊厳を堕落させるものだと言つてゐる。ルモンテイ(一七六二―一八二六年)は又分業に関して、近代労働者生活と未開人の広い自由生活とを比較して、未開人の方が遙かに恵まれてゐると考へた。オーギユスト・コント(一七九八―一八五七年)も之に就て言つてゐる。「物質方面に於て、労働者が、その生涯の間、小刀の柄や留針の頭の製造に没頭する運命が悲しまれるのは当然であるが、然らば、知識の方面に於て、或る方程式決定とか、又は昆虫分類のみに、人間の一つの脳髄を永続的に使用するといふことは、健全哲学から見て、同様に悲しむべきことではないか。その道徳結果は不幸にして何れ場合に於ても同様である。即ち解決すべき方程式問題製造すべき留針の仕事が常に存在すれば、世事一般成行などに就ては悲しむべき無関心に陥らしめられるのである。」(拙訳『実証哲学』下巻一〇二頁)
 然るにコントは他の所に於ては、寧ろ分業を以て社会の優越性の徴証としてゐる。「動物学研究によれば、動物身体の優越性は各種機関が益々分化して而も連帯するに従て各種の機能が益々専門的になるといふ点にある。社会組織の特徴もまた同じで、それが全然個人組織に超駕する所以である。各人が特殊な生存をなして或る程度までは独立でその才能とその性質とが各々異なつてゐるに係はらず、また互に評議もせずに、たゞ自分達の個人衝動に服従するのみと信じて、最も多くの場合、大多数の人が気の付かぬ間に、自ら全体の発展の為に協力すべく傾向してゐるといふ、かうした多数個人の協調よりも以上に驚くべき事態が他にあるであらうか? ……社会が複雑になるに従て益々顕著になる所の共働と分業との調和は、家庭的観点から社会的観点に向上した場合人間施設の特質をなすものである。」(前掲書九八頁)

     ○ 分業是否の諸問題

 吾々はこの近代文化本質とも見るべき分業制度を如何に取扱ふべきか。この制度は吾々の社会生活が発展して行くに連れて益々増大するであらうか。さうした極度の分業生活人間としての尊厳を傷つけるに至らぬであらうか。或はさうでなく、或る程度に分業が達すれば自然にその分化は停止して却て綜合的にまたは兼業的に向ふであらうか。それとも自発的には分業の発展が停止しなくても人為的に防止すべく努力すべきであるか。更らにまた翻へつて、分業そのものに弊害がある訳ではなく、病的に発達した場合のみが悪いのであるか。病理学研究によつて社会生理を明かにし、それによつて分業制の是非決定すべきであるか。
 凡そこれ等の問題にそれ/″\正確な答へを与へるには簡単な記述では出来ない。近代仏蘭西(フランス)に於ける社会学の一権威デユルケムの大著『社会分業論』は是等の諸問題に対して先づ首肯せらるべき解決を与へてゐるが、併し、それでも尚ほ人間社会生活の半面をしか見てゐない様な感を懐かされる。従て此論文には可なり多量にデユルケムの思想言葉採用されるであらうが、それに対する他の半面があり、且つそれが甚だ重要であることを断つて置く。
 私は前掲の諸問題について一々論じて見たいのであるが、それは此小紙面では到底容れられない。已を得ず、それ等に対して自ら解答になるであらうやうに、先づ人間社会に如何にして分業が起り、如何に変遷して来たか、といふ点から説明し、それから分業社会連帯性との関係に及び、社会進歩との関係に及び、更に進んで分業の得失を論じ、理想分業制にまで論歩を進めたいと思ふ。

     ○ 分業起源

 分業は何故に起つたか? 最も広く行はれてゐる説によると、分業原因は、人間が絶えず幸福の増加を要求するところのその慾望にあるといふ。併し幸福とは何ぞやといふ問題も可なり不確定な観念を以て成立する。そこで幸福内容如何は問はず、ただ人間楽しみ赴くところを幸福と称するといふことにして、さてさうした心理法則何れ社会にも行はれてゐるが、分業制は必ずしも一様には進歩しない。勿論、幸福の慾望は分業制生起の一要素にはなるであらうが、それには他の条件が備はらねばならぬ。即ち幸福の慾望が自我意識の覚醒に伴はなければならない。デユルケムは「分業社会の積量と密度とによつて直ちに変化する。そして若し分業社会発展の過程に於て継続的に進歩するとすれば、それは社会規則的により稠密になり、また一般的により大きくなるからである」といふ定則を作つてゐる。更に進んでデユルケムは言ふ、社会がより大きくより稠密になるに従つて事業が益々分化するのは、それは生存のための闘争がより緊張するからであると。それは諸人が同様な目標を立てて進めば競争が激しくなるが、異なつた目標に進む時は競争はないからである。けれどもデユルケムのこの議論は些かダア※ニズムの一面に固着した傾きがありはしないか。


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