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神経 - 織田 作之助 ( おだ さくのすけ )

  • 不安神経症と強迫神経症が治る60章◆和久廣文
  • ★立原啓裕「自律神経安定法」CD付き☆不安神経症パニック障害
  • CD 高橋幸宏 「ロマン神経症」 10曲入り
  • ●神経症の時代―わが内なる森田正馬●渡辺 利夫
  • 運動神経を高める!コンビ すべってランドDX
  • ♪運動神経の良いアスリートセダン! 320i 車検24年3月
  • ★『 精神神経内分泌 非売品』 送料340円★
  • 神経安定法・・・「自立訓練法の実際」佐々木雄二 著
  • ○○女性の医学シリーズ 自律神経失調症を治す 菅井正朝/著
  • ◆ おもしろ看護 脳神経外科学 魏秀復
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      一  今年の正月、私は一歩も外へ出なかった。訪ねて来る人もない。ラジオを掛けっ放しにしたまま、浮浪者小説書きながら三※日を過した。土蜘蛛のようにカサカサの皮膚をした浮浪者書きながら、現実正月浮浪者を見るのはたまらなかった。浮浪者だけではない。外へ出れば到る所でいやでも眼にはいる悲しい世相を、せめて三※日は見たくなかった。が、ラジオのレヴュ放送を聴いていると、浮浪者や焼跡や闇市場を見るよりも一層日本の哀しい貧弱さが思い知らされた。
 近頃レヴュの放送が多い。元来が見るためのレヴュを放送で聴かせるというのがそもそも無理な話で、いかにも芸がなさ過ぎるが、放送局への投書によれば、レヴュ放送を喜んでいるファンもあるという。戦争中禁じられていたものを聴きたいという反動の現れだろうか。
 しかし私は「想出の宝塚名曲集」などという放送を聴いて、昔見たレヴュを想い出してみたが、こんなものを禁止したのもおかしいが、あわてて復活したり放送してみたりするほどのこともあるまいと思った。女の子が短いパンツをはいて腰を振ったり足を上げたりするだけでは、大したエロティシズムもないし、豪華だとか青春の夢だとかいって騒いでいたのもおかしい。所詮は子供相手のチャチな、毒にも薬にもならぬみすぼらしい見世物に過ぎなかったのではあるまいか。あんなものを豪華だといって誇っていた戦前日本も、結局はけちくさい貧弱な国だったのかと、改めて情けなかった。豪華といってみたところで、宝塚のレヴュなぞたかだか阪急沿線プチブル趣味の豪華さに過ぎない。同じ貧弱なら、新宿ムーランルージュ浅草のオペラ館や大阪千日前のピエルボイズ(これも浅草から流れて来たものだが)の方が、庶民的で取り済ましてないだけまだしも感じがよい。宝塚松竹少女歌劇は男の俳優一人もいないが、思慮分別のある大の男が一生を託する仕事ではあるまい。レヴュが好きで、文芸部仕事をしたり、作曲したり装置したりしている人も少くないが、本当に男子一生の仕事と思ってやっているのだろうか、疑わしく思う。「おお!」という間投詞を入れなければ喋れないようなレヴュ俳優科白廻しを聴いていると、たしかにこれは男子仕事ではないという気がするのである。
 科白廻しといえば、私は七つの歳にはじめて歌舞伎を見た時、何故あんな奇妙な喋り方をするのだろうかと、奇異な感がしたことを覚えている。高等学校へはいってから新劇を見たが、この時もまた、新劇役者は何故あんなに喧嘩腰の議論調子で喋ったり、誰もかれも分別のあり過ぎるような表情をしたり声を出したりするのかと、不思議に思った。ところが、レヴュ俳優科白廻しを聴くと、この方は分別のなさ過ぎる声だったので私は辟易してしまった。
 しかし、発声法に変梃な型があるのは、歌舞伎新劇少女歌劇だけではない。声の芸術でそれぞれの奇妙な型に陥ることから免れた例外は一つもないのである。むしろ、それぞれの型に徹したものが一流だといわれているくらいである。新派には新派の型があり、義太夫には義太夫の型、女剣劇映画俳優の実演にも型があり、浪花節なども近頃は浪花節専門の声色屋が出来ている。講談落語漫才など、いうまでもない。ラジオと来た日には、ことに型が著しい。例えば放送員の話術など、日本国中の人間の耳が一人残らずたこになってしまうくらい、十年一日の型を守っている。放送物語新劇俳優は例によって分別臭い殊勝な声を、哀れっぽく出してどんな物語もすべて悲しいものにしてしまうし、名人といわれる徳川夢声も、仏の顔も二度三度で「風と共に去りぬ」が宮本武蔵と同じ調子に聴える。放送劇の若い娘役は、いつもやけに快活で、靴下に穴のあいたような声を出し、色気があるのかないのか、いや色気などといういい言葉が勿体ないくらいだ。政府の大官はいかなる場合にも屏風植木鉢聯想させるような声を出す。座談会の出席者は、討論の相手とマイクとどちらの方へ話しかけていいのかうろうろ迷っているし、共産党員は威勢ばかりで懐疑のない声だ。放送演説名人といわれていた故永田青嵐ですら、いつ聴いても「私は砕けて喋っていますよ」といった同じ調子が見え透いてうんざりさせられるし、この人を真似た某大官の演説は、砕けすぎて気を許したのか、お国言葉東北弁まるだしだ。
 バイオリン天才少女の辻久子は、八つか九つの時、豆腐屋のラッパの音を聴いただけで、もう耳を押えて、ああ耳が痛い耳が痛いと泣き叫んだということである。私は辻久子ほど音というものに敏感ではないが、声の型にはいやになるくらい敏感なのか、ラジオを聴いていて、十年一日の如き紋切型に触れると、ああ耳が痛い耳が痛いと耳を押えたくなることが屡※である。
 ことに戦争中はそれがひどかった。ラジオの情報放送毎日毎夜聴いていた頃、私は情報内容よりも、その紋切型が気になってならなかった。毎日やっているのだから、自然に型が出来るのは当然だし、型など構っていられないという弁解も成り立っただろうが、毎日くりかえされる同じ単語、同じ声の調子、同じ情報の型を聴いていると、うんざりさせられた。戦争が終って間もなく、ある野外音楽会実況放送があったが、紹介放送員はさすがに戦争中と異った型を出そうとしたらしく、「ここ何々の音楽堂の上の青空には、赤トンボが一匹スイスイと飛んでおりまして、まことに野外音楽会にふさわしい絶好の秋日和でございます」と猫撫声に変っていた。私は世の中も変ったものだと感心しながら聴いていたが、その放送赤トンボが三度も飛ばされたのには些か閉口した。しかし放送員の新機軸は認めることにした。ところが、あとでその時の音楽会に出演した人にきくと、その日はどんより曇っていて、赤トンボなぞ一匹も飛んでいなかったということである。私は興冷めしてしまった。新機軸を出そうとした放送員は、芸もなく昔の野球放送の型を踏襲していたに過ぎなかったのだ。
 新機軸というものはむつかしい。世に新しいものはないのだろうか。声の芸術家たちは十年一日の古い紋切型の殻を脱け切れず、殻の中で畳の目を数えているような細かい上手下手にかまけているのであろう。しかしこれはただ声の芸術だけではない。美術舞踊文学、すべて御多分に洩れず、それぞれの紋切型があり、この型を逸れることはむつかしいのである。


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