祭りの夜 - 豊島 与志雄 ( とよしま よしお )
政代の眼は、なにかふとしたきっかけで、深い陰を宿すことがあった。顔は美人というほどではないが整っていて、皮膚は白粉やけしながら磨きがかかっており、切れの長い眼に瞳がちらちら光り、睫が長く反り返っていて、まあ深みのない顔立なのだが、ちょっと瞬きをするとか、ふと考えこむとか、なにかごく些細なきっかけで、眼に深い陰が宿るのである。以前は芳町の芸妓で、戦争になって花柳界閉鎖後も、政界に暗躍してる八杉の世話になり、東京近くのこの町にのんびり暮している彼女のこととて、眼に宿るその陰に、特殊の意味があるのではない。感傷とか焦燥とか慾望とか、そういうはっきりした色合があるのでもない。謂わば、一片の雲が湖水に影を落すように、睫がその影を眼の中に落すのでもあろうか。眼の中がふーっとかげってくる。そのかげりが、暗くはないが、へんに深々とした感じで、人の心を誘い込む。三十五歳ほどの女性の肉体の魅惑が、その底に潜んでるとも言える。――そのような印象を、私は受けた。
いつ頃からのことなのか、考えてみても、私には分らない。初めは全然気付かなかった。だが一度気付くと、二度三度と、彼女の眼の中の陰は次第に深くなってゆく、そんな工合だった。そして今では、底知れぬ深いものとなって、私を引きずり込もうとしているようでもある。
それも然し、言葉のつぎほや沈黙のあいまの、ごく暫しの間のことで、拭うように消えてしまうのだ。
「今日は、ゆっくり、北京の話を聞かしてね。」
その眼はもう平明で、笑みをさえ含んでいた。
だが、なぜまた北京の話なのだろう。いつもいつも北京の話ばかりだ。もっとも、政代の朋輩で、北京の料理屋に行ってた者があるとか。戦争前のことで、二三度便りがあったきり、こちらから手紙を出しても返事は来ず、それきり今に至るまで、全く消息が絶えてしまってるそうである。然し私は、北京には三年ばかりいたきりで、大して面白い話を持ち合わせてもいない。紫金城、万寿山、天壇、公園、市場、芝居、槐の並木……そんなことばかりで、それももう話しつくし、その他に何を彼女に話すことがあろう。それよりも、今、私がその事務を取扱っている仕事、製材のことや建築のことなら、いろいろな話もあるが、そういう話には彼女は興味も関心も持たないらしい。
「北京の女のひとは綺麗だそうですね。どんな風に綺麗なんでしょう。」
どんな風にと、その説明はつけにくい。
「傾国の美人てのも、いるそうですね。」
「傾国の美人……。」
繰り返して、杯を挙げるより外はない。ぐっと飲み干すと、それに誘われたように、遠い太鼓の音が耳に伝わってくる。屋台の踊りなどまだ続けられているらしい。
三月とはいえ、まだ大気は冷々しているのに、町では祭礼なのだ。神社のお祭りでもあり、復興のお祭りでもあり、敗戦のお祭りでもあるらしい。軒に提灯を出してる家はちらりほらりだが、桃や藤の造花は殆んど軒並にさげられている。神社の裏庭には、小さなサーカスの一団がジンタの囃を響かせており、大通りには、樽御輿がかつぎまわされ、お稚児姿の子供達がその後に続く。四辻や広場には、高い屋台が組み立てられて、演芸会が催され、音頭踊りがなされる。然しその全体の雰囲気はへんにちぐはぐで、気勢が揚がらず、裏町が目立って淋しい。橋のたもとで、浮浪児めいた子供が四五人、飴をしゃぶりながらメンコを闘わせているのを、赤い鉢巻をした祭礼着の子供達が、指をくわえて眺めていた。夕陽の流れてる上空には鳶がたくさん舞っていた。――私は町を少しぶらついて、それからカストリをひっかけて、家に帰り、※に焼酎でがまんしながら、毛布の中に寝そべって書物を読んだ。
裏口の戸がいきなり開いて、お留さんが顔を出した。
「うちでしたか。丁度よかった。奥さんが、遊びにいらっしゃいと言っていますよ。お酒も御馳走もありますよ。お祭りだというのに、河野さん、勉強ですか。いらっしゃいよ。すぐにね。」
言うだけ言っておいて、返事もきかずに、お留さんは帰っていった。――いつも、たいていそうなんだ。
いつ頃からのことなのか、考えてみても、私には分らない。初めは全然気付かなかった。だが一度気付くと、二度三度と、彼女の眼の中の陰は次第に深くなってゆく、そんな工合だった。そして今では、底知れぬ深いものとなって、私を引きずり込もうとしているようでもある。
それも然し、言葉のつぎほや沈黙のあいまの、ごく暫しの間のことで、拭うように消えてしまうのだ。
「今日は、ゆっくり、北京の話を聞かしてね。」
その眼はもう平明で、笑みをさえ含んでいた。
だが、なぜまた北京の話なのだろう。いつもいつも北京の話ばかりだ。もっとも、政代の朋輩で、北京の料理屋に行ってた者があるとか。戦争前のことで、二三度便りがあったきり、こちらから手紙を出しても返事は来ず、それきり今に至るまで、全く消息が絶えてしまってるそうである。然し私は、北京には三年ばかりいたきりで、大して面白い話を持ち合わせてもいない。紫金城、万寿山、天壇、公園、市場、芝居、槐の並木……そんなことばかりで、それももう話しつくし、その他に何を彼女に話すことがあろう。それよりも、今、私がその事務を取扱っている仕事、製材のことや建築のことなら、いろいろな話もあるが、そういう話には彼女は興味も関心も持たないらしい。
「北京の女のひとは綺麗だそうですね。どんな風に綺麗なんでしょう。」
どんな風にと、その説明はつけにくい。
「傾国の美人てのも、いるそうですね。」
「傾国の美人……。」
繰り返して、杯を挙げるより外はない。ぐっと飲み干すと、それに誘われたように、遠い太鼓の音が耳に伝わってくる。屋台の踊りなどまだ続けられているらしい。
三月とはいえ、まだ大気は冷々しているのに、町では祭礼なのだ。神社のお祭りでもあり、復興のお祭りでもあり、敗戦のお祭りでもあるらしい。軒に提灯を出してる家はちらりほらりだが、桃や藤の造花は殆んど軒並にさげられている。神社の裏庭には、小さなサーカスの一団がジンタの囃を響かせており、大通りには、樽御輿がかつぎまわされ、お稚児姿の子供達がその後に続く。四辻や広場には、高い屋台が組み立てられて、演芸会が催され、音頭踊りがなされる。然しその全体の雰囲気はへんにちぐはぐで、気勢が揚がらず、裏町が目立って淋しい。橋のたもとで、浮浪児めいた子供が四五人、飴をしゃぶりながらメンコを闘わせているのを、赤い鉢巻をした祭礼着の子供達が、指をくわえて眺めていた。夕陽の流れてる上空には鳶がたくさん舞っていた。――私は町を少しぶらついて、それからカストリをひっかけて、家に帰り、※に焼酎でがまんしながら、毛布の中に寝そべって書物を読んだ。
裏口の戸がいきなり開いて、お留さんが顔を出した。
「うちでしたか。丁度よかった。奥さんが、遊びにいらっしゃいと言っていますよ。お酒も御馳走もありますよ。お祭りだというのに、河野さん、勉強ですか。いらっしゃいよ。すぐにね。」
言うだけ言っておいて、返事もきかずに、お留さんは帰っていった。――いつも、たいていそうなんだ。
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祭りの夜 (まつりのよる) のリンク元
- http://atpedia.jp/word/%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA
- [[biglobe]] よるのお仕事
- http://docomo.ne.jp/cp/as-rslt.cgi?pno=1&key=%96k%8b%9e%82%cc%8f%97&sid=00
- [[ezweb]] デュエルスペース 加古川
- http://search.auone.jp/?q=%97%87%8D%D5%82%E8+novel&sr=0203&link_u=&start=10&nb=q%3D%26hl%3Dja%26lr%3D%26output%3Dxml_no_dtd%26client%3Dkddi-auone-pcsv%26channel%3Dmain%26ad%3Dw2%26gl%3Djp%26ie%3DUTF-8%26oe%3DUTF-8%26start%3D10%26sa%3DN
- http://search.mobile.yahoo.co.jp/onesearch?p=%92%ac%93c%20%82%a0%82%a8%82%bc%82%e7%8c%f6%89%80%20%82%a8%8d%d5%82%e8&fr=m_top_e
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