私の父と母 - 有島 武郎 ( ありしま たけお )
私の家は代々|薩摩(さつま)の国に住んでいたので、父は他の血を混えない純粋の薩摩人と言ってよい。私の眼から見ると、父の性格は非常に真正直な、また細心なある意味の執拗(しつよう)な性質をもっていた。そして外面的にはずいぶん冷淡に見える場合がないではなかったが、内部には恐ろしい熱情をもった男であった。この点は純粋の九州人に独得な所である。一時にある事に自分の注意を集中した場合に、ほとんど寝食を忘れてしまう。国事にでもあるいは自分の仕事にでも熱中すると、人と話をしていながら、相手の言うことが聞き取れないほど他を顧みないので、狂人のような状態に陥ったことは、私の知っているだけでも、少なくとも三度はあった。
父の教育からいえば、父の若い時代としては新しい教育を受けた方だが、その根柢をなしているものはやはり朱子学派の儒学(じゅがく)であって、その影響からは終生脱することができなかった。しかしどこか独自なところがあって、平生の話の中にも、その着想の独創的なのに、我々は手を拍(う)って驚くことがよくあった。晩年にはよく父は「自分が哲学を、自分の進むべき路として選んでおったなら、きっと纏(まと)まった仕事をしていたろう」と言っていた。健康は小さい時分にはたいへん弱い子で、これで育つだろうかと心配されたそうだが、私が知ってからは強壮で、身体こそ小さかったが、精力の強い、仕事の能(よ)く続けてできる体格であった。仕事に表わす精力は、我々子供たちを驚かすことがしばしばあったくらいである。芸術に対しては特に没頭したものがなかったので、鑑識力も発達してはいなかったが、見当違いの批評などをする時でも、父その人でなければ言われないような表現や言葉使いをした。父は私たちが芸術に携わることは極端に嫌(きら)って、ことに軽文学は極端に排斥した。私たちは父の目を掠(かす)めてそれを味わわなければならなかったのを記憶する。
父の生い立ちは非常に不幸であった。父の父、すなわち私たちの祖父に当たる人は、薩摩の中の小藩の士で、島津家から見れば陪臣であったが、その小藩に起こったお家騒動に捲き込まれて、琉球(りゅうきゅう)のあるところへ遠島された。それが父の七歳の時ぐらいで、それから十五か十六ぐらいまでは祖父の薫育(くんいく)に人となった。したがって小さい時から孤独で(父はその上一人子であった)ひとりで立っていかなければならなかったのと、父その人があまり正直であるため、しばしば人の欺くところとなった苦い経験があるのとで、人に欺かれないために、人に対して寛容でない偏狭な所があった。これは境遇と性質とから来ているので、晩年にはおいおい練れて、広い襟懐(きんかい)を示すようになった。ことにおもしろがったり喜んだりする時には、私たちが「父の笑い」と言っている、非常に無邪気な善良な笑い方をした。性質の純な所が、外面的の修養などが剥(は)がれて現われたものである。
母の父は南部すなわち盛岡藩の江戸留守居役で、母は九州の血を持った人であった。その間に生まれた母であるから、国籍は北にあっても、南方の血が多かった。維新の際南部藩が朝敵にまわったため、母は十二、三から流離の苦を嘗(な)めて、結婚前には東京でお針の賃仕事をしていたということである。こうして若い時から世の辛酸を嘗めつくしたためか、母の気性には濶達(かったつ)な方面とともに、人を呑んでかかるような鋭い所がある。人の妻となってからは、当時の女庭訓的な思想のために、在来の家庭的な、いわゆるハウスワイフというような型に入ろうと努め、また入りおおせた。しかし性質の根柢にある烈しいものが、間々(まま)現われた。若い時には極度に苦しんだり悲しんだりすると、往々卒倒して感覚を失うことがあった。その発作は劇(はげ)しいもので、男が二、三人も懸られなければ取り扱われないほどであった。私たちはよく母がこのまま死んでしまうのではないかと思ったものである。しかし生来の烈しい気性のためか、この発作がヒステリーに変わって、泣き崩(くず)れて理性を失うというような所はなかった。父が自分の仕事や家のことなどで心配したり当惑したりするような場合に、母がそれを励まし助けたことがしばしばあった。後に母の母が同棲するようになってからは、その感化によって浄土真宗に入って信仰が定まると、外貌が一変して我意のない思い切りのいい、平静な生活を始めるようになった。そして癲癇(てんかん)のような烈しい発作は現われなくなった。もし母が昔の女の道徳に囚(とらわ)れないで、真の性質のままで進んでいったならば、必ず特異な性格となって世の中に現われたろうと思う。
母の芸術上の趣味は、自分でも短歌を作るくらいのことはするほどで、かなり豊かにもっている。今でも時々やっているが、若い時にはことに好んで腰折れを詠(よ)んでみずから娯(たのし)んでいた。読書も好きであるが、これはハウスワイフということに制せられて、思うままにやらなかったようであるが、しかし暇があれば喜んで書物を手にする。私ども兄弟がそろってこういう方面に向かったことを考えると、母が文芸に一つの愛好心をもっていたことが影響しているだろうと思う。
母についても一つ言うべきは、想像力とも思われるものが非常に豊かで、奇体にないことをあるように考える癖がある。たとえば人の噂(うわさ)などをする場合にも、実際はないことを、自分では全くあるとの確信をもって、見るがごとく精細に話して、時々は驚くような嘘(うそ)を吐(つ)くことが母によくある。もっとも母自身は嘘を吐いているとは思わず、たしかに見たり聞いたりしたと確信しているのである。
要するに、根柢において父は感情的であり、母は理性的であるように想う。私たちの性格は両親から承(う)け継いだ冷静な北方の血と、わりに濃い南方の血とが混り合ってできている。その混り具合によって、兄弟の性格が各自(めいめい)異なっているのだと思う。私自身の性格から言えば、もとより南方の血を認めないわけにはいかないが、わりに北方の血を濃く承けていると思う。どっちかといえば、内気な、鈍重な、感情を表面に表わすことをあまりしない、思想の上でも飛躍的な思想を表わさない性質(たち)で、色彩にすれば暗い色彩であると考えている。したがって境遇に反応してとっさに動くことができない。時々私は思いもよらないようなことをするが、それはとっさの出来事ではない。私なりに永く考えた後にすることだ。
父の教育からいえば、父の若い時代としては新しい教育を受けた方だが、その根柢をなしているものはやはり朱子学派の儒学(じゅがく)であって、その影響からは終生脱することができなかった。しかしどこか独自なところがあって、平生の話の中にも、その着想の独創的なのに、我々は手を拍(う)って驚くことがよくあった。晩年にはよく父は「自分が哲学を、自分の進むべき路として選んでおったなら、きっと纏(まと)まった仕事をしていたろう」と言っていた。健康は小さい時分にはたいへん弱い子で、これで育つだろうかと心配されたそうだが、私が知ってからは強壮で、身体こそ小さかったが、精力の強い、仕事の能(よ)く続けてできる体格であった。仕事に表わす精力は、我々子供たちを驚かすことがしばしばあったくらいである。芸術に対しては特に没頭したものがなかったので、鑑識力も発達してはいなかったが、見当違いの批評などをする時でも、父その人でなければ言われないような表現や言葉使いをした。父は私たちが芸術に携わることは極端に嫌(きら)って、ことに軽文学は極端に排斥した。私たちは父の目を掠(かす)めてそれを味わわなければならなかったのを記憶する。
父の生い立ちは非常に不幸であった。父の父、すなわち私たちの祖父に当たる人は、薩摩の中の小藩の士で、島津家から見れば陪臣であったが、その小藩に起こったお家騒動に捲き込まれて、琉球(りゅうきゅう)のあるところへ遠島された。それが父の七歳の時ぐらいで、それから十五か十六ぐらいまでは祖父の薫育(くんいく)に人となった。したがって小さい時から孤独で(父はその上一人子であった)ひとりで立っていかなければならなかったのと、父その人があまり正直であるため、しばしば人の欺くところとなった苦い経験があるのとで、人に欺かれないために、人に対して寛容でない偏狭な所があった。これは境遇と性質とから来ているので、晩年にはおいおい練れて、広い襟懐(きんかい)を示すようになった。ことにおもしろがったり喜んだりする時には、私たちが「父の笑い」と言っている、非常に無邪気な善良な笑い方をした。性質の純な所が、外面的の修養などが剥(は)がれて現われたものである。
母の父は南部すなわち盛岡藩の江戸留守居役で、母は九州の血を持った人であった。その間に生まれた母であるから、国籍は北にあっても、南方の血が多かった。維新の際南部藩が朝敵にまわったため、母は十二、三から流離の苦を嘗(な)めて、結婚前には東京でお針の賃仕事をしていたということである。こうして若い時から世の辛酸を嘗めつくしたためか、母の気性には濶達(かったつ)な方面とともに、人を呑んでかかるような鋭い所がある。人の妻となってからは、当時の女庭訓的な思想のために、在来の家庭的な、いわゆるハウスワイフというような型に入ろうと努め、また入りおおせた。しかし性質の根柢にある烈しいものが、間々(まま)現われた。若い時には極度に苦しんだり悲しんだりすると、往々卒倒して感覚を失うことがあった。その発作は劇(はげ)しいもので、男が二、三人も懸られなければ取り扱われないほどであった。私たちはよく母がこのまま死んでしまうのではないかと思ったものである。しかし生来の烈しい気性のためか、この発作がヒステリーに変わって、泣き崩(くず)れて理性を失うというような所はなかった。父が自分の仕事や家のことなどで心配したり当惑したりするような場合に、母がそれを励まし助けたことがしばしばあった。後に母の母が同棲するようになってからは、その感化によって浄土真宗に入って信仰が定まると、外貌が一変して我意のない思い切りのいい、平静な生活を始めるようになった。そして癲癇(てんかん)のような烈しい発作は現われなくなった。もし母が昔の女の道徳に囚(とらわ)れないで、真の性質のままで進んでいったならば、必ず特異な性格となって世の中に現われたろうと思う。
母の芸術上の趣味は、自分でも短歌を作るくらいのことはするほどで、かなり豊かにもっている。今でも時々やっているが、若い時にはことに好んで腰折れを詠(よ)んでみずから娯(たのし)んでいた。読書も好きであるが、これはハウスワイフということに制せられて、思うままにやらなかったようであるが、しかし暇があれば喜んで書物を手にする。私ども兄弟がそろってこういう方面に向かったことを考えると、母が文芸に一つの愛好心をもっていたことが影響しているだろうと思う。
母についても一つ言うべきは、想像力とも思われるものが非常に豊かで、奇体にないことをあるように考える癖がある。たとえば人の噂(うわさ)などをする場合にも、実際はないことを、自分では全くあるとの確信をもって、見るがごとく精細に話して、時々は驚くような嘘(うそ)を吐(つ)くことが母によくある。もっとも母自身は嘘を吐いているとは思わず、たしかに見たり聞いたりしたと確信しているのである。
要するに、根柢において父は感情的であり、母は理性的であるように想う。私たちの性格は両親から承(う)け継いだ冷静な北方の血と、わりに濃い南方の血とが混り合ってできている。その混り具合によって、兄弟の性格が各自(めいめい)異なっているのだと思う。私自身の性格から言えば、もとより南方の血を認めないわけにはいかないが、わりに北方の血を濃く承けていると思う。どっちかといえば、内気な、鈍重な、感情を表面に表わすことをあまりしない、思想の上でも飛躍的な思想を表わさない性質(たち)で、色彩にすれば暗い色彩であると考えている。したがって境遇に反応してとっさに動くことができない。時々私は思いもよらないようなことをするが、それはとっさの出来事ではない。私なりに永く考えた後にすることだ。
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「私の父と母-有島 武郎」の関連ページ
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