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秋果 - 林 芙美子 ( はやし ふみこ )

  • 【林芙美子】林芙美子 集英社刊 日本文学全集48 
  • 林芙美子『林芙美子傑作集』新潮文庫
  • 林芙美子 ちくま日本文学全集 文庫版
  • 文庫★絵本猿飛佐助★林芙美子
  • 昭和12年『林芙美子選集/人生賦』初版*装丁:中川一政
  • ★「稲妻」林芙美子 昭21初版 飛鳥書店★
  • 林芙美子傑作集 新潮文庫 昭和27年発行 11作品
  • 今川英子★林芙美子 巴里の恋 巴里の小遣ひ帳 1932年の日記 初版
  • 林芙美子☆日本文学全集☆放浪記,牡蠣,浮雲☆集英社☆即決
  • 日本文学全集48 【林芙美子集】
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 芝居が閉ねて劇場を出ると、もんは如何にも吻つとしたやうに暗い街を歩いた。おなかが空いてゐたけれど、もうこのごろは何一つこんなに遲くまで食物店をひらいてゐる店もない。芝居もどりの人達が、ぞろぞろ自分のそばを通つてゐた。新宿行の電車の通つてゐる四ツ角の安全地帶のところまで來ると、もんは誰かが自分の肩を強く押して通つたやうな氣がして、ふつと振り返つたけれど、誰が肩を押して行つたのか、たゞ、自分のまはりを黒い人影電車道の方へぞろぞろ流れてゐるきりだつた。秋らしいひいやりとした夜風が吹いてゐた。安全地帶で、暫く新宿行きの電車を待つてゐたが、來る電車も、來る電車も滿員で、もんにはなかなか乘れさうにもない。何處から、こんなに澤山のひとが鈴なりになつて來るのかもんには不思議だつた。さつきから、もんと同じやうに、何臺も電車を待つてゐる二三人連れの女のひとたちが、時々華かに笑ひあひながら芝居の話をしてゐた。そのなかのひとりが、笑ひ聲のしづまつたあとで、「何だか、行末のことを考へてゐると、私、心細いやうな氣がして仕方がないわ」と云つた。もんは獨りで安全地帶の廣告燈のそばに立つてゐて、心細い行末だと云つた女の聲をしみじみときいてゐた。
 もんは昨日上海から戻つて來たばかりで、東京の街のすべてがなつかしくて仕方がなかつた。東京はやつぱりいゝところだと思つた。何處がいゝと云ふわけではなかつたけれど、獨りで住むにはやつぱり東京がいゝと思つた。軈て暫くしてから、やつと少しばかり空いた電車が來たので、もんは、二三人連れの女の人達のうしろから電車に乘つた。女の人達は、繪でも描く人達なのか、くすんだ電車のなかがぱつと明るくなるやうな思ひ思ひに風變りなかつこうをしてゐた。流行の、前髮をいくつも輪に卷いて、澁い金茶お召に紅い帶を締めてゐるひとや、黒と白の氣取つた脊廣を着てゐる脊の高いひとや、薄緑外套を着て、手に大きい黒いハンドバツグをさげてゐるひとなど、暫く東京を離れてゐたもんには新鮮な感じでこの女づれが眺められた。安全地帶ではあんなに元氣にしやべりあつてゐたひとたちも、電車へ乘つてしまふと、みんな默りあつて吊革へつかまつてゐた。どのひとが、行末を心細いと云つたのかわからなかつたけれど、趣味のいゝ華かな姿を見てゐると、どのひとも、あまり行末のことなど考へてゐるやうにも見えなかつた。もんは、この女のひと達と並んで吊革に手をそへてゐたけれど、暗い窓にうつつてゐる自分の姿の方が、はるかに行末のことを心配してゐるやうに見える。
 四谷見附まで來ると、女の人達は降りて行つた。明るいところで見る女の人達はどのひとも服裝よりは老けた顏をしてゐたけれど、どのひとの服裝もちやんと東京の街に似合はしく調和がとれてゐた。幸福さうな人達だなともんは、自分も、いまにあんなになりたいと思つた。いままでは莫迦な夢を見たと思つて、これからまた何處かに就職してせつせと働いてみたいと思つた。上海デパートで買つた、出來合ひの腰の線の細い外套を着てゐる自分の姿が何だか支那人くさくて、湯たんぽをかゝへて歩いてゐた、支那人の賣娼婦のやうにおもへて仕方がない。
 大木戸アパートへ戻つたのが十一時頃だつた。弟はもうよく眠つてゐた。電燈に紫の風呂敷をかぶせて、枕元に煙草を散らかしたまゝよく眠つてゐた。もんは外套をぬぐと、机のそばに置いてある光つた鋲のついたトランクに腰をおろして暫く呆んやりしてゐた。机の上にはいろんなものがごちやごちやと置いてあつたが、新しい糊の壺がもんの眼にとまつた。おなかが空いてゐたせゐか、糊壺を手に取つて一寸匂ひをかいで見た。甘い菓子のやうな匂ひがした。暖國にても腐敗することなく、また、寒國にても凍ることなし。純白清潔にして附着力強甚なれば、貼付後離れることなく、且つ使用乾燥速なり、殊に本品は特殊な愛すべき芳香を有すれば、使用不快なく、日常机上に缺くべからざる逸品なり。もんは効能書きを讀んで、小指で糊をすくひ、ほんの少しなめてみた。何の味もないのが物足りなかつた。二十六にもなつて、弟はまだ嫁ももらはないで、いまだにかうしたアパート住ひをしてゐるのがもんには可哀想でならない。何時召されるかも知れないと云つて、弟は兵隊に行つて戻つて來るまでは獨りでゐるのだと、このアパートにもう二年も獨りで住みついてゐる。日本橋の或る信託會社に勤めてゐて、時々詩や小説なんかを書いてゐた。糊壺のそばには、小さいレザー表紙アドレスブツクがあつた。もんは手にとつてぱらぱらとめくつてみた。いろんな知人の住所のなかには、上海にゐたもんの所書きもあれば、工藤住所もひかへてあつた。あんなに思ひつめてたづねて行つた工藤のところから、いまは戰ひやぶれたやうな氣持でもんは東京の弟のアパートへ戻つて來てゐるのだ。丁度、一年前のいまごろ、秋雨のしとしと降つてゐる長崎の町で、工藤へ船の名前を知らせてやつたものだつた。工藤は船を迎へにも來てくれなければ、たづねて行つた工藤アパートにはもうよその女のひとが一緒に住んでゐた。いつしよの船に乘りあはせたわけのわからない女の世話で、四川路底にある日本人旅館に宿をとることが出來たけれど、もんは、あの時の男のこゝろの頼りなさをいまだに忘れることが出來ない。工藤は弟の友達で、もんよりは一つ下だつたけれど、もんは工藤と同じ年だと、一つ年をかくしてゐた。工藤とは弟の紹介自然に親しくなり、二人で一度信州の山の温泉旅行をした事があつた。工藤新聞社へ勤めてゐた。お互ひに好きだとは一度も云ひあつたこともなく、旅行に出ても、まるで、一二年も前から同棲してゐた者同志のやうな、坦々とした交渉が出來てゐた。もんは十年も前に母を亡くしてからは、父親と、弟二人を相手に、まるで男まさりのやうな氣強い性格にかはり、五六年前から勤めを持つやうになつてからも、自分の對象となるべき人をみつけるよゆうが少しもなかつたのだ。


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