科学と文学 - 寺田 寅彦 ( てらだ とらひこ )
緒言
子供の時分に、学校の読本以外に最初に家庭で授けられ、読むことを許されたものは、いわゆる「軍記」ものであった。すなわち、「真田三代記(さなださんだいき)」、「漢楚軍談(かんそぐんだん)」、「三国志(さんごくし)」といったような人間味の希薄なものを読みふけったのであった。それから「西遊記(さいゆうき)」、「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」、「南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)」などでやや「人情」がかった読み物への入門をした。親戚(しんせき)の家にあった為永春水(ためながしゅんすい)の「春色梅暦春告鳥(しゅんしょくうめごよみはるつげどり)」という危険な書物の一部を、禁断の木の実のごとく人知れず味わったこともあった。一方ではゲーテの「ライネケ・フックス」や、それから、そのころようやく紹介されはじめたグリムやアンデルセンのおとぎ話や、「アラビアン・ナイト」や「ロビンソン・クルーソー」などの物語を、あるいは当時の少年雑誌「少国民」や「日本の少年」の翻訳で読み、あるいは英語の教科書中に採録された原文で読んだりした。一方ではまた「経国美談」「佳人之奇遇(かじんのきぐう)」のごとき、当時では最も西洋臭くて清新と考えられたものを愛読し暗唱した。それ以前から先輩の読み物であった坪内(つぼうち)氏の「当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)」なども当時の田舎(いなか)の中学生にはやはり一つの新しい夢を吹き込むものであった。宮崎湖処子(みやざきこしょし)の「帰省」という本が出て、また別な文学の世界の存在を当時の青年に啓示した。一方では民友社(みんゆうしゃ)で出していた「クロムウェル」「ジョン・ブライト」「リチャード・コブデン」といったような堅い伝記物も中学生の机上に見いだされるものであった。同時にまた「国民小説」「新小説」「明治文庫」「文芸倶楽部(ぶんげいくらぶ)」というような純文芸雑誌が現われて、露伴(ろはん)紅葉(こうよう)等多数の新しい作家があたかもプレヤデスの諸星のごとく輝き、山田美妙(やまだびみょう)のごとき彗星(すいせい)が現われて消え、一葉(いちよう)女史をはじめて多数の閨秀作者(けいしゅうさくしゃ)が秋の野の草花のように咲きそろっていた。外国文学では流行していたアーヴィングの「スケッチ・ブック」やユーゴーの「レ・ミゼラブル」の英語の抄訳本などをおぼつかない語学の力で拾い読みをしていた。高等学校へはいってから夏目漱石先生に「オピアム・イーター」「サイラス・マーナー」「オセロ」を、それもただ部分的に教わっただけである。そのころから漱石先生に俳句を作ることを教わったが、それとてもたいして深入りをしたわけではなかった。
自分の少青年時代に受けた文学的の教育と言えば、これくらいのことしか思い出されない。そうして、その後三十余年の間に時おり手に触れた文学書の、数だけはあるいは相当にあるかもしれないが、自分の頭に深い強い印象を焼き付けたものと言ってはきわめて少数であるように思われる。日本の作家では夏目先生のものは別として国木田独歩(くにきだどっぽ)、谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)、芥川竜之介(あくたがわりゅうのすけ)、宇野浩二(うのこうじ)、その他数氏の作品の中の若干のもの、外国のものではトルストイ、ドストエフスキーのあるもの、チェホフの短編、近ごろ見たものでは、アーノルド・ベンネットやオルダス・ハクスレーの短編ぐらいなものである。
何ゆえに自分がここでこのような、読者にとってはなんの興味もない一私人の経験を長たらしく書き並べたかというと、これだけの前置きが、これから書こうとするきわめて特殊な、そうして狭隘(きょうあい)で一面的な文学観を読者の審判の庭に供述する以前にあらかじめ提出しておくべき参考書類あるいは「予審調書」としてぜひとも必要と考えられるからである。
もう一つ断わっておかなければならないことは、自分がともかくも職業的に科学者であるということである。少年時代に上記のごときおとぎ文学や小説戯曲に読みふけっているかたわらで、昆虫(こんちゅう)の標本を集めたり植物※葉(しょくぶつさくよう)を作ったり、ビールびんで水素を発生させ「歌う炎」を作ろうとして誤って爆発させたり、幻燈器械や電池を作りそこなったりしていたのである。そうして、中学校から高等学校へ移るまぎわに立ったときに、なんの躊躇(ちゅうちょ)もなく生涯(しょうがい)の針路を科学のほうに向けたのであった。そうして、今になって考えてみても自分の取るべき道はほかには決してなかったのである。思うにそのころの自分にとっては文学はただ受働的な享楽の対象に過ぎなかったが、科学の領域は自分の将来の主働的な生活に生きて行くためにいちばん適当な世界のように思われたのであった。
大学を卒業して大学院に入り、そうして自分の研究題目についていわゆるオリジナル・リサーチを始めてほんとうの科学生活に入りはじめたころに、偶然な機会でまた同時に文学的創作の初歩のようなものを体験するような回り合わせになった。そのころの自分の心持ちを今振り返って考えてみると、実に充実した生命の喜びに浸っていたような気がする。一方で家庭的には当時いろいろな不幸があったりして、心を痛め労することも決して少なくはなかったにかかわらず、少なくも自分の中にはそういうこととは係り合いのない別の世界があって、その世界のみが自分の第一義的な世界であり、そうして生きがいのある唯一の世界であるように思われたものらしい。その世界では「作り出す」「生み出す」ということだけが意義があり、それが唯一の生きて行く道であるように見えた。そうして、日々何かしら少しでも「作る」か「生む」かしない日は空費されたもののように思われたのである。もちろん若いころには免れ難い卑近な名誉心や功名心も多分に随伴していたことに疑いはないが、そのほかに全く純粋な「創作の歓喜」が生理的にはあまり強くもないからだを緊張させていたように思われる。全くそのころの自分にとっては科学の研究は一つの創作の仕事であったと同時に、どんなつまらぬ小品文や写生文でも、それを書く事は観察分析発見という点で科学とよく似た研究的思索の一つの道であるように思われるのであった。
その後三十年に近い生涯(しょうがい)の間には自分の考えにもいろいろの変遷がありはしたが、こういう過去の歴史の影響はおそらく生命の終わる日まで自分につきまとって離れることはできないであろうと思われる。
それはとにかく、以上のような経歴をもつ一私人が「文学」と「科学」とを対立させてながめる時に浮かんでくるいろいろな感想をここに有りのままに記録して本講座の読者にささげるということは、全く無意味のわざでもあるまいと考えたので、編集者の勧誘に甘えてここにつたない筆を執ることにした次第である。もとよりただ、一つの貧しい参考資料を提供するという以外になんらの意図はないのである。そういうわけで、もちろん、論文でもなく教程でもなく、全く思いつくままの随筆である。文学者の文学論、文学観はいくらでもあるが、科学者の文学観は比較的少数なので、いわゆる他山の石の石くずぐらいにはなるかもしれないというのが、自分の自分への申し訳である。
言葉としての文学と科学
文学の内容は「言葉」である。言葉でつづられた人間の思惟(しい)の記録でありまた予言である。言葉をなくすれば思惟がなくなると同時にあらゆる文学は消滅する。逆に、言葉で現わされたすべてのものがそれ自身に文学であるとは限らないまでも、そういうもので文学の中に資料として取り入れられ得ないものは一つもない。子供の片言でも、商品の広告文でも、法律の条文でも、幾何学の定理の証明でもそうである。ピタゴラスの定理の証明の出て来る小説もあるのである。
ここで言葉というのは文字どおりの意味での言葉である。絵画彫刻でも音楽舞踊でも皆それぞれの「言葉」をもってつづられた文学の一種だとも言われるが、しかし、ここではそういうものは考えないことにする。
作者の頭の中にある腹案のようなものは、いかに詳細に組み立てられたつもりでも、それは文学ではない。またそれを口で話して一定の聴衆が聞くだけでもそれは文学ではない。象形文字であろうが、速記記号であろうが、ともかくも読める記号文字で、粘土板でもパピラスでも「記録」されたものでなければおそらくそれを文学とは名づけることができないであろう。つまり文学というものも一つの「実証的な存在」である。甲某が死ぬ前に考えていた小説は非常な傑作であった、と言ってもそれは全く無意味である。
実際作物の創作心理から考えてみても、考えていたものがただそのままに器械的に文字に書き現わされるのではなくて、むしろ、紙上の文字に現われた行文の惰力が作者の頭に反応して、ただ空で考えただけでは決して思い浮かばないような潜在的な意識を引き出し、それが文字に現われて、もう一度作者の頭に働きかけることによって、さらに次の考えを呼び起こす、というのが実際の現象であるように思われる。こういう創作者の心理はまた同時にその作品を読む読者の心理でなければならない。ある瞬間までに読んで来たものの積分的効果が読者の頭に作用して、その結果として読者の意識の底におぼろげに動きはじめたある物を、次に来る言葉の力で意識の表層に引き上げ、そうして強い閃光(せんこう)でそれを照らし出すというのでなかったら、その作品は、ともかくも読者の注意と緊張とを持続させて、最後まで引きずって行くことが困難であろう。
自分の少青年時代に受けた文学的の教育と言えば、これくらいのことしか思い出されない。そうして、その後三十余年の間に時おり手に触れた文学書の、数だけはあるいは相当にあるかもしれないが、自分の頭に深い強い印象を焼き付けたものと言ってはきわめて少数であるように思われる。日本の作家では夏目先生のものは別として国木田独歩(くにきだどっぽ)、谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)、芥川竜之介(あくたがわりゅうのすけ)、宇野浩二(うのこうじ)、その他数氏の作品の中の若干のもの、外国のものではトルストイ、ドストエフスキーのあるもの、チェホフの短編、近ごろ見たものでは、アーノルド・ベンネットやオルダス・ハクスレーの短編ぐらいなものである。
何ゆえに自分がここでこのような、読者にとってはなんの興味もない一私人の経験を長たらしく書き並べたかというと、これだけの前置きが、これから書こうとするきわめて特殊な、そうして狭隘(きょうあい)で一面的な文学観を読者の審判の庭に供述する以前にあらかじめ提出しておくべき参考書類あるいは「予審調書」としてぜひとも必要と考えられるからである。
もう一つ断わっておかなければならないことは、自分がともかくも職業的に科学者であるということである。少年時代に上記のごときおとぎ文学や小説戯曲に読みふけっているかたわらで、昆虫(こんちゅう)の標本を集めたり植物※葉(しょくぶつさくよう)を作ったり、ビールびんで水素を発生させ「歌う炎」を作ろうとして誤って爆発させたり、幻燈器械や電池を作りそこなったりしていたのである。そうして、中学校から高等学校へ移るまぎわに立ったときに、なんの躊躇(ちゅうちょ)もなく生涯(しょうがい)の針路を科学のほうに向けたのであった。そうして、今になって考えてみても自分の取るべき道はほかには決してなかったのである。思うにそのころの自分にとっては文学はただ受働的な享楽の対象に過ぎなかったが、科学の領域は自分の将来の主働的な生活に生きて行くためにいちばん適当な世界のように思われたのであった。
大学を卒業して大学院に入り、そうして自分の研究題目についていわゆるオリジナル・リサーチを始めてほんとうの科学生活に入りはじめたころに、偶然な機会でまた同時に文学的創作の初歩のようなものを体験するような回り合わせになった。そのころの自分の心持ちを今振り返って考えてみると、実に充実した生命の喜びに浸っていたような気がする。一方で家庭的には当時いろいろな不幸があったりして、心を痛め労することも決して少なくはなかったにかかわらず、少なくも自分の中にはそういうこととは係り合いのない別の世界があって、その世界のみが自分の第一義的な世界であり、そうして生きがいのある唯一の世界であるように思われたものらしい。その世界では「作り出す」「生み出す」ということだけが意義があり、それが唯一の生きて行く道であるように見えた。そうして、日々何かしら少しでも「作る」か「生む」かしない日は空費されたもののように思われたのである。もちろん若いころには免れ難い卑近な名誉心や功名心も多分に随伴していたことに疑いはないが、そのほかに全く純粋な「創作の歓喜」が生理的にはあまり強くもないからだを緊張させていたように思われる。全くそのころの自分にとっては科学の研究は一つの創作の仕事であったと同時に、どんなつまらぬ小品文や写生文でも、それを書く事は観察分析発見という点で科学とよく似た研究的思索の一つの道であるように思われるのであった。
その後三十年に近い生涯(しょうがい)の間には自分の考えにもいろいろの変遷がありはしたが、こういう過去の歴史の影響はおそらく生命の終わる日まで自分につきまとって離れることはできないであろうと思われる。
それはとにかく、以上のような経歴をもつ一私人が「文学」と「科学」とを対立させてながめる時に浮かんでくるいろいろな感想をここに有りのままに記録して本講座の読者にささげるということは、全く無意味のわざでもあるまいと考えたので、編集者の勧誘に甘えてここにつたない筆を執ることにした次第である。もとよりただ、一つの貧しい参考資料を提供するという以外になんらの意図はないのである。そういうわけで、もちろん、論文でもなく教程でもなく、全く思いつくままの随筆である。文学者の文学論、文学観はいくらでもあるが、科学者の文学観は比較的少数なので、いわゆる他山の石の石くずぐらいにはなるかもしれないというのが、自分の自分への申し訳である。
言葉としての文学と科学
文学の内容は「言葉」である。言葉でつづられた人間の思惟(しい)の記録でありまた予言である。言葉をなくすれば思惟がなくなると同時にあらゆる文学は消滅する。逆に、言葉で現わされたすべてのものがそれ自身に文学であるとは限らないまでも、そういうもので文学の中に資料として取り入れられ得ないものは一つもない。子供の片言でも、商品の広告文でも、法律の条文でも、幾何学の定理の証明でもそうである。ピタゴラスの定理の証明の出て来る小説もあるのである。
ここで言葉というのは文字どおりの意味での言葉である。絵画彫刻でも音楽舞踊でも皆それぞれの「言葉」をもってつづられた文学の一種だとも言われるが、しかし、ここではそういうものは考えないことにする。
作者の頭の中にある腹案のようなものは、いかに詳細に組み立てられたつもりでも、それは文学ではない。またそれを口で話して一定の聴衆が聞くだけでもそれは文学ではない。象形文字であろうが、速記記号であろうが、ともかくも読める記号文字で、粘土板でもパピラスでも「記録」されたものでなければおそらくそれを文学とは名づけることができないであろう。つまり文学というものも一つの「実証的な存在」である。甲某が死ぬ前に考えていた小説は非常な傑作であった、と言ってもそれは全く無意味である。
実際作物の創作心理から考えてみても、考えていたものがただそのままに器械的に文字に書き現わされるのではなくて、むしろ、紙上の文字に現われた行文の惰力が作者の頭に反応して、ただ空で考えただけでは決して思い浮かばないような潜在的な意識を引き出し、それが文字に現われて、もう一度作者の頭に働きかけることによって、さらに次の考えを呼び起こす、というのが実際の現象であるように思われる。こういう創作者の心理はまた同時にその作品を読む読者の心理でなければならない。ある瞬間までに読んで来たものの積分的効果が読者の頭に作用して、その結果として読者の意識の底におぼろげに動きはじめたある物を、次に来る言葉の力で意識の表層に引き上げ、そうして強い閃光(せんこう)でそれを照らし出すというのでなかったら、その作品は、ともかくも読者の注意と緊張とを持続させて、最後まで引きずって行くことが困難であろう。
寺田 寅彦 (てらだ とらひこ) 以外のオススメ作品
科学と文学 (かがくとぶんがく) のリンク元
- [[Google]] せきのじゅんいちろう 絵画
- [[Google]] 閨秀小説
- [[Yahoo]] 真田三代 浮世絵
- [[Yahoo]] 科学と文学 感想
- [[Google]] 寺田寅彦 量的と質的と統計的と 感想文
- [[Google]] 科学と文学
- [[Google]] 寺田寅彦 感想文
- [[Google]] 寺田寅彦 量的と質的と統計的と 感想文
- http://atpedia.jp/word/%E8%AB%B8%E6%98%9F
- http://search.nifty.com/websearch/search?cflg=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&select=2&q=%E6%96%87%E5%AD%A6%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AE%E7%A7%91%E5%AD%A6&ck=&ss=nifty_top_tp
「科学と文学-寺田 寅彦」の関連ページ
-
n1 - wiki ku - wiki ku
20100118寺田寅彦 どんぐり 子猫 の言葉吻合(ふんごう)とは、外科手術における手技の一つで、血管と血管や神経と神経をつないだりすること。また、複数 -
リンク - 本と猫 - 本と猫
県春日部市の伝統工芸、張子人形のお店。縁起物や節句人形、絵画など自由奔放な創作活動を展開されています。楽しい絵付け教室も開催されています。★高知県立文学館「寺田寅彦記念室」・「宮尾文学の世界」他、高知 -
問題ページ18 - pmmo@wiki - pmmo@wiki
を指していないものはどれ? →烏賊燃料として用いられる石炭は、何が変化して出来た物質? →植物天災は忘れたころにやってくる →寺田寅彦1891年に -
地図1/石川県/寺田川ダム - ザ・ダムサイト - ザ・ダムサイト
36/17/25.8,136/38/43.032 -
Only One - atwiki4 @ ウィキ - atwiki4 @ ウィキ
作詞:奥井雅美作曲:影山ヒロノブ編曲:栗山善親、寺田志保Key:寺田志保Bass:山本直哉Strings:小池弘之グループSynth:栗山善親収録Battle No Limit!JAM -
石川県/寺田川ダム - ザ・ダムサイト - ザ・ダムサイト
寺田川ダムをお気に入りに追加寺田川ダムのリンク2009年10月15日(木)水カメ緑クマDが行く~石川・富山編ウィキペディア寺田川ダム寺田川ダムの報道newsプラグインエラー「寺田川ダム」の検索結果を取得できませんでした寺田川ダムの構造分析寺田 -
自民/た行/寺田稔 - 永田町二丁目情報部 - 永田町二丁目情報部
寺田稔をお気に入りに追加くちこみリンクMon, 19 Oc前衆議院議員 寺田稔の政治実感日誌 10月19日(月)Mon, 12 Oc前衆議院議員 寺田稔の政治実感日誌 10月12日(祝・体育 -
寺田有希 - アイドルプロフィール - アイドルプロフィール
寺田有希生年月日:1989年04月21日(20歳)身長:154体重:40B:83W:58H:85カップ:備考:2004年、第29回ホリプロスカウトキャラバン大阪地区グランプリ決勝進出。2005年 -
自民/た行/寺田稔 - 永田町一丁目情報部 - 永田町一丁目情報部
寺田稔をお気に入りに追加var amzn_wdgt={widgetCarousel};amzn_wdgt.tag=politica-22;amzn_wdgt.widgetType -
HERO - atwiki4 @ ウィキ - atwiki4 @ ウィキ
作詞:影山ヒロノブ作曲:影山ヒロノブ編曲:栗山善親、寺田志保Chorus:杉並児童合唱団Key:寺田志保Bass:山本直哉G AG:河野陽吾Strings:小池弘之グループSynth:栗山
