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科学と文学 - 寺田 寅彦 ( てらだ とらひこ )

  • a1428┃科学のパズル×暮しのコツと科学×くらしの科学が解る本
  • 健康と運動の科学【九州大学健康科学センター 編】
  • ●科学の逆説 現代科学と東洋思想●湯浅泰雄ほか●●切手可●
  • 科学知識 大正15年9月号 便所の科学 高野六郎
  • 【子供の科学】1989年3月★科学で楽しむ野球
  • 日本科学未来館サイエンスガイド/日本科学未来館
  • 大卒程度 警察官・消防官 本試験問題集 人文科学・社会科学
  • 【即決】親子でわかる!科学おもしろQ&A NHK子ども科学電話相談
  • 岩波講座 地球惑星科学〈7〉数値地球科学
  • 進研ゼミ高校encollege小論文3冊 医学部 自然科学系人文科学社会
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    緒言  子供の時分に、学校読本以外に最初に家庭で授けられ、読むことを許されたものは、いわゆる「軍記」ものであった。すなわち、「真田三代記(さなださんだいき)」、「漢楚軍談(かんそぐんだん)」、「三国志(さんごくし)」といったような人間味の希薄なものを読みふけったのであった。それから西遊記(さいゆうき)」、「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」、「南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)」などでやや「人情」がかった読み物への入門をした。親戚(しんせき)の家にあった為永春水(ためながしゅんすい)の「春色梅暦春告鳥(しゅんしょくうめごよみはるつげどり)」という危険書物一部を、禁断の木の実のごとく人知れず味わったこともあった。一方ではゲーテの「ライネケ・フックス」や、それから、そのころようやく紹介されはじめたグリムやアンデルセンおとぎ話や、「アラビアン・ナイト」や「ロビンソンクルーソー」などの物語を、あるいは当時の少年雑誌少国民」や「日本少年」の翻訳読み、あるいは英語教科書中に採録された原文で読んだりした。一方ではまた「経国美談」「佳人之奇遇(かじんのきぐう)」のごとき、当時では最も西洋臭くて清新と考えられたものを愛読し暗唱した。それ以前から先輩読み物であった坪内(つぼうち)氏の「当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)」なども当時の田舎(いなか)の中学生にはやはり一つの新しい夢を吹き込むものであった。宮崎湖処子(みやざきこしょし)の「帰省」という本が出て、また別な文学世界存在を当時の青年啓示した。一方では民友社(みんゆうしゃ)で出していた「クロムウェル」「ジョン・ブライト」「リチャード・コブデン」といったような堅い伝記物も中学生机上に見いだされるものであった。同時にまた「国民小説」「新小説」「明治文庫」「文芸倶楽部(ぶんげいくらぶ)」というような純文芸雑誌が現われて、露伴(ろはん)紅葉(こうよう)等多数の新しい作家があたかもプレヤデスの諸星のごとく輝き山田美妙(やまだびみょう)のごとき彗星(すいせい)が現われて消え、一葉(いちよう)女史をはじめて多数の閨秀作者(けいしゅうさくしゃ)が秋の野の草花のように咲きそろっていた。外国文学では流行していたアーヴィングの「スケッチ・ブック」やユーゴーの「レ・ミゼラブル」の英語の抄訳本などをおぼつかない語学の力で拾い読みをしていた。高等学校へはいってから夏目漱石先生に「オピアム・イーター」「サイラス・マーナー」「オセロ」を、それもただ部分的に教わっただけである。そのころから漱石先生俳句作ることを教わったが、それとてもたいして深入りをしたわけではなかった。
 自分の少青年時代受け文学的の教育と言えば、これくらいのことしか思い出されない。そうして、その後三十余年の間に時おり手に触れた文学書の、数だけはあるいは相当にあるかもしれないが、自分の頭に深い強い印象を焼き付けたものと言ってはきわめて少数であるように思われる。日本作家では夏目先生のものは別として国木田独歩(くにきだどっぽ)、谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)、芥川竜之介(あくたがわりゅうのすけ)、宇野浩二(うのこうじ)、その他数氏の作品の中の若干のもの、外国のものではトルストイドストエフスキーのあるもの、チェホフ短編、近ごろ見たものでは、アーノルド・ベンネットやオルダス・ハクスレー短編ぐらいなものである。
 何ゆえに自分がここでこのような、読者にとってはなんの興味もない一私人経験を長たらしく書き並べたかというと、これだけの前置きが、これから書こうとするきわめて特殊な、そうして狭隘(きょうあい)で一面的な文学観を読者審判の庭に供述する以前にあらかじめ提出しておくべき参考書類あるいは「予審調書」としてぜひとも必要と考えられるからである。
 もう一つ断わっておかなければならないことは、自分がともかくも職業的に科学者であるということである。少年時代上記のごときおとぎ文学小説戯曲読みふけっているかたわらで、昆虫(こんちゅう)の標本を集めたり植物※葉(しょくぶつさくよう)を作ったり、ビールびんで水素発生させ「歌う炎」を作ろうとして誤って爆発させたり、幻燈器械や電池作りそこなったりしていたのである。そうして、中学校から高等学校へ移るまぎわに立ったときに、なんの躊躇(ちゅうちょ)もなく生涯(しょうがい)の針路科学のほうに向けたのであった。そうして、今になって考えてみても自分の取るべき道はほかには決してなかったのである。思うにそのころの自分にとっては文学はただ受働的な享楽の対象に過ぎなかったが、科学領域自分の将来の主働的な生活に生きて行くためにいちばん適当世界のように思われたのであった。
 大学卒業して大学院に入り、そうして自分研究題目についていわゆるオリジナルリサーチを始めてほんとうの科学生活に入りはじめたころに、偶然な機会でまた同時に文学創作の初歩のようなものを体験するような回り合わせになった。そのころの自分の心持ちを今振り返って考えてみると、実に充実した生命喜びに浸っていたような気がする。一方で家庭的には当時いろいろな不幸があったりして、心を痛め労することも決して少なくはなかったにかかわらず、少なくも自分の中にはそういうこととは係り合いのない別の世界があって、その世界のみが自分第一義的な世界であり、そうして生きがいのある唯一の世界であるように思われたものらしい。その世界では「作り出す」「生み出す」ということだけが意義があり、それが唯一の生きて行く道であるように見えた。そうして、日々何かしら少しでも「作る」か「生む」かしない日は空費されたもののように思われたのである。もちろん若いころには免れ難い卑近な名誉心や功名心も多分に随伴していたことに疑いはないが、そのほかに全く純粋な「創作歓喜」が生理的にはあまり強くもないからだを緊張させていたように思われる。全くそのころの自分にとっては科学研究は一つの創作仕事であったと同時に、どんなつまらぬ小品文や写生文でも、それを書く事は観察分析発見という点で科学とよく似た研究的思索の一つの道であるように思われるのであった。
 その後三十年に近い生涯(しょうがい)の間には自分の考えにもいろいろの変遷がありはしたが、こういう過去歴史影響はおそらく生命の終わる日まで自分につきまとって離れることはできないであろうと思われる。
 それはとにかく、以上のような経歴をもつ一私人が「文学」と「科学」とを対立させてながめる時に浮かんでくるいろいろな感想をここに有りのままに記録して本講座読者にささげるということは、全く無意味のわざでもあるまいと考えたので、編集者の勧誘に甘えてここにつたない筆を執ることにした次第である。もとよりただ、一つの貧しい参考資料提供するという以外になんらの意図はないのである。そういうわけで、もちろん、論文でもなく教程でもなく、全く思いつくままの随筆である。文学者文学論、文学観はいくらでもあるが、科学者文学観は比較的少数なので、いわゆる他山の石の石くずぐらいにはなるかもしれないというのが、自分自分への申し訳である。


     言葉としての文学科学

 文学内容は「言葉」である。言葉でつづられた人間の思惟(しい)の記録でありまた予言である。言葉をなくすれば思惟がなくなると同時にあらゆる文学は消滅する。逆に、言葉で現わされたすべてのものがそれ自身に文学であるとは限らないまでも、そういうもので文学の中に資料として取り入れられ得ないものは一つもない。子供の片言でも、商品広告文でも、法律の条文でも、幾何学定理証明でもそうである。ピタゴラスの定理証明の出て来る小説もあるのである。
 ここで言葉というのは文字どおりの意味での言葉である。絵画彫刻でも音楽舞踊でも皆それぞれの「言葉」をもってつづられた文学の一種だとも言われるが、しかし、ここではそういうものは考えないことにする。
 作者の頭の中にある腹案のようなものは、いかに詳細に組み立てられたつもりでも、それは文学ではない。またそれを口で話して一定の聴衆が聞くだけでもそれは文学ではない。象形文字であろうが、速記記号であろうが、ともかくも読める記号文字で、粘土板でもパピラスでも「記録」されたものでなければおそらくそれを文学とは名づけることができないであろう。つまり文学というものも一つの「実証的な存在」である。甲某が死ぬ前に考えていた小説非常な傑作であった、と言ってもそれは全く無意味である。
 実際作物創作心理から考えてみても、考えていたものがただそのままに器械的に文字書き現わされるのではなくて、むしろ、紙上の文字に現われた行文の惰力が作者の頭に反応して、ただ空で考えただけでは決して思い浮かばないような潜在的な意識引き出し、それが文字に現われて、もう一度作者の頭に働きかけることによって、さらに次の考えを呼び起こす、というのが実際の現象であるように思われる。こういう創作者の心理はまた同時にその作品読む読者心理でなければならない。ある瞬間までに読んで来たものの積分効果読者の頭に作用して、その結果として読者意識の底におぼろげに動きはじめたある物を、次に来る言葉の力で意識の表層に引き上げ、そうして強い閃光(せんこう)でそれを照らし出すというのでなかったら、その作品は、ともかくも読者注意緊張とを持続させて、最後まで引きずって行くことが困難であろう。


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