立札 ――近代伝説―― - 豊島 与志雄 ( とよしま よしお )
立札
――近代伝説――
揚子江の岸の、或る港町に、張という旧家がありました。この旧家に、朱文という男が仕えていました。
伝えるところに依りますと、或る年の初夏の頃、この張家の屋敷の一隅にある大きな楠をじっと眺めて、半日も佇んでいる、背の高い男がありました。それを、張家の主人の一滄が見咎めて、何をしているのかと尋ねました。
「楠を見ているのです。」と背の高い男は答えました。
「それは分っているが、なぜそんなに見ているのか。」
「珍らしい大きな木だから、見ているのです。」
実際、それはみごとな大木でした。山地の方へ行けば、そのような木はいくらでもありますが、この辺の平野には至って珍らしいもので、根本は四抱えも五抱えもあるほどにまるくふくらみ、それから少し細って、すくすくと幹が伸び、上にこんもりと枝葉の茂みをなしています。張家の自慢の木でありました。それを誉められて、張一滄が大きな鼻をうごめかしていますと、背の高い男はほーっと溜息をついていいました。
「珍らしい大きな木だが、可哀そうなことをしましたね。」
「ほう、可哀そうなこととは、どういうことかね。」
「あんなに、蓑虫がたくさんついています。」
「ああ、あの虫には、私も困っているのだ。何かよい工夫はあるまいか。」
「私に任せて下されば、すっかり取り除いてあげましょう。」
「それが、君には出来るかね。」
「出来ます。」
「うむ。君は何という者かね。」
「朱文という者です。」
そういうわけで、この背の高い朱文が張家に仕えることになったそうであります。その時彼は、三十歳だったといわれています。
朱文は張家の一房を与えられ、自ら奥地へ行って秘密な鉱石の粉末を求めて来、繩梯子を拵えて、楠の蓑虫駆除にかかり、遂にそれをやりとげてしまったそうでありますが、その詳細なことは分りかねます。ただ、これまで蓑虫に食い荒されていた楠の葉が、青々と艶々と茂るようになったのを、やがて、町の人たちは見て取りました。
ところで、楠の方の仕事に、朱文は一日のうち二三時間だけかかるきりで、大抵はぶらぶら遊んでいたようであります。殊に港の船着場に、彼の姿がよく見かけられました。
大河を上下する汽船や帆船が、種々の貨物をこの港に降してゆきました。赤濁りした河水が満々と流れているのを見るだけでも、なかなか面白いものですが、汽船や帆船の航行を見るのは、更に面白いものですし、それらの船から遠い土地の荷物が降されるのを見るのは、何より面白いものです。いつも多少の見物人がありました。その中に交って、背の高い朱文が、人一倍長そうに思われる両腕を、手先だけ袖口につっこんで腹のところで輪になし、ぼんやり佇んでいる姿は、妙に人目につきました。それがまた他の見物人を誘って、いつも、彼のいるところには人立がふえました。
船から河岸へ荷役のあるたびごとに、朱文は大抵その近くに出て来ましたし、背が高く腕が長そうだというただそれだけで、妙に人目につくその姿が、だんだん見馴れられて珍らしくもなくなります頃、もう既に朱文のことは、荷役の苦力たちには固より、寄港する船の水夫たちにまで、よく知られてしまっていました。殊に、彼が奉公してる張一滄は、港に商館や倉庫を持っていましたので、その信用が彼の上にまで拡ったことも見逃してはなりません。
彼はただぼんやり港の荷役の光景を眺めてるだけのようでありましたが、一年ばかりたつうちには、その間に徐々にではありましょうが、荷役人夫の組合を拵えてしまって、その元締の地位にしっかと腰を下していたのであります。殊に張家の荷役は全く彼の手中に握られていました。後になってこのことに気付いて喫驚した人も少くありません。
彼が率いていた苦力人夫は、腕に青色の布片を縫いつけていました。大体苦力たちの服が、きたなく褪せてはいては青っぽいものなので、その青色の布片は初めは殆んど人目につきませんでしたが、いつしか船員たちにも町の商人たちにも知れ渡り、その布片が次第に数をますにつれて、それがないと幅も利かないし仕事も少いというような状態になってゆきました。
そして数年のうちに、彼は張家の腹心の番頭格になり、また町の労働者間に確固たる地位を築きましたが、彼自身は、背が高いのと腕が長そうだという感じを与えるだけで、一向人目につかない粗服をまとい、どんな用件も至極簡単な言葉ですまし、無駄口は殆んど利かず、喧嘩口論などは全くせず、そして始終にやにや笑っているだけでした。
なお、伝えるところによりますと、彼は相当な収入があった筈ですが、いつも金はあまり持っていなかったそうであります。何に金を使ったかというと、酒と女の衣裳にだということです。その港町にもやはりちょっとした遊里がありまして、そこに彼の愛する妓女があり、彼はその女を、蘇州の刺繍物や日本の刺繍物や北京の毛皮などで、人形のように装わせたがっていたそうであります。また、支那ばかりでなく世界各地のさまざまな高価な酒瓶を、彼女の室に並べるのを彼は無上の楽しみとしていたそうであります。但しその真偽のほどは定かでありません。
さて、事もなく年月は流れて、朱文がこの町にきてから七年目の晩冬初春のことでありました。何かしら険悪な空気のなかに、さまざまな風説が伝わって来、それが次第にはっきりした形を取ってきました――。或は反政府軍ともいい、或は暴徒ともいい、或は流賊ともいいますが、とにかく完全に武装した強力な一隊の軍勢が、村々町々を魔風の如く席捲しつつ、今明日にもこの町に迫って来るとのことでありました。
伝えるところに依りますと、或る年の初夏の頃、この張家の屋敷の一隅にある大きな楠をじっと眺めて、半日も佇んでいる、背の高い男がありました。それを、張家の主人の一滄が見咎めて、何をしているのかと尋ねました。
「楠を見ているのです。」と背の高い男は答えました。
「それは分っているが、なぜそんなに見ているのか。」
「珍らしい大きな木だから、見ているのです。」
実際、それはみごとな大木でした。山地の方へ行けば、そのような木はいくらでもありますが、この辺の平野には至って珍らしいもので、根本は四抱えも五抱えもあるほどにまるくふくらみ、それから少し細って、すくすくと幹が伸び、上にこんもりと枝葉の茂みをなしています。張家の自慢の木でありました。それを誉められて、張一滄が大きな鼻をうごめかしていますと、背の高い男はほーっと溜息をついていいました。
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「ほう、可哀そうなこととは、どういうことかね。」
「あんなに、蓑虫がたくさんついています。」
「ああ、あの虫には、私も困っているのだ。何かよい工夫はあるまいか。」
「私に任せて下されば、すっかり取り除いてあげましょう。」
「それが、君には出来るかね。」
「出来ます。」
「うむ。君は何という者かね。」
「朱文という者です。」
そういうわけで、この背の高い朱文が張家に仕えることになったそうであります。その時彼は、三十歳だったといわれています。
朱文は張家の一房を与えられ、自ら奥地へ行って秘密な鉱石の粉末を求めて来、繩梯子を拵えて、楠の蓑虫駆除にかかり、遂にそれをやりとげてしまったそうでありますが、その詳細なことは分りかねます。ただ、これまで蓑虫に食い荒されていた楠の葉が、青々と艶々と茂るようになったのを、やがて、町の人たちは見て取りました。
ところで、楠の方の仕事に、朱文は一日のうち二三時間だけかかるきりで、大抵はぶらぶら遊んでいたようであります。殊に港の船着場に、彼の姿がよく見かけられました。
大河を上下する汽船や帆船が、種々の貨物をこの港に降してゆきました。赤濁りした河水が満々と流れているのを見るだけでも、なかなか面白いものですが、汽船や帆船の航行を見るのは、更に面白いものですし、それらの船から遠い土地の荷物が降されるのを見るのは、何より面白いものです。いつも多少の見物人がありました。その中に交って、背の高い朱文が、人一倍長そうに思われる両腕を、手先だけ袖口につっこんで腹のところで輪になし、ぼんやり佇んでいる姿は、妙に人目につきました。それがまた他の見物人を誘って、いつも、彼のいるところには人立がふえました。
船から河岸へ荷役のあるたびごとに、朱文は大抵その近くに出て来ましたし、背が高く腕が長そうだというただそれだけで、妙に人目につくその姿が、だんだん見馴れられて珍らしくもなくなります頃、もう既に朱文のことは、荷役の苦力たちには固より、寄港する船の水夫たちにまで、よく知られてしまっていました。殊に、彼が奉公してる張一滄は、港に商館や倉庫を持っていましたので、その信用が彼の上にまで拡ったことも見逃してはなりません。
彼はただぼんやり港の荷役の光景を眺めてるだけのようでありましたが、一年ばかりたつうちには、その間に徐々にではありましょうが、荷役人夫の組合を拵えてしまって、その元締の地位にしっかと腰を下していたのであります。殊に張家の荷役は全く彼の手中に握られていました。後になってこのことに気付いて喫驚した人も少くありません。
彼が率いていた苦力人夫は、腕に青色の布片を縫いつけていました。大体苦力たちの服が、きたなく褪せてはいては青っぽいものなので、その青色の布片は初めは殆んど人目につきませんでしたが、いつしか船員たちにも町の商人たちにも知れ渡り、その布片が次第に数をますにつれて、それがないと幅も利かないし仕事も少いというような状態になってゆきました。
そして数年のうちに、彼は張家の腹心の番頭格になり、また町の労働者間に確固たる地位を築きましたが、彼自身は、背が高いのと腕が長そうだという感じを与えるだけで、一向人目につかない粗服をまとい、どんな用件も至極簡単な言葉ですまし、無駄口は殆んど利かず、喧嘩口論などは全くせず、そして始終にやにや笑っているだけでした。
なお、伝えるところによりますと、彼は相当な収入があった筈ですが、いつも金はあまり持っていなかったそうであります。何に金を使ったかというと、酒と女の衣裳にだということです。その港町にもやはりちょっとした遊里がありまして、そこに彼の愛する妓女があり、彼はその女を、蘇州の刺繍物や日本の刺繍物や北京の毛皮などで、人形のように装わせたがっていたそうであります。また、支那ばかりでなく世界各地のさまざまな高価な酒瓶を、彼女の室に並べるのを彼は無上の楽しみとしていたそうであります。但しその真偽のほどは定かでありません。
さて、事もなく年月は流れて、朱文がこの町にきてから七年目の晩冬初春のことでありました。何かしら険悪な空気のなかに、さまざまな風説が伝わって来、それが次第にはっきりした形を取ってきました――。或は反政府軍ともいい、或は暴徒ともいい、或は流賊ともいいますが、とにかく完全に武装した強力な一隊の軍勢が、村々町々を魔風の如く席捲しつつ、今明日にもこの町に迫って来るとのことでありました。
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