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竜潭譚 - 泉 鏡花 ( いずみ きょうか )

  • 泉鏡花 『泉鏡花集成 12』 (ちくま文庫)
  • 泉鏡花 『泉鏡花集成 1』 (ちくま文庫)
  • 泉鏡花 ★ 豪華版 日本現代文学全集 泉鏡花集 ★ 講談社
  • 泉鏡花 『泉鏡花集成 6』 (ちくま文庫)
  • 泉鏡花 『泉鏡花集』 限定版 恩地孝四郎装幀 著者落款入 函
  • 泉鏡花 『泉鏡花集成 5』 (ちくま文庫)
  • 古書「名著複刻全集 日本橋 泉鏡花」
  • 日本幻想文学集成 1 泉鏡花 須永朝彦編 梅木英治
  • 図録★番町の家・慶応義塾図書館所蔵泉鏡花遺品展★09年
  • 泉鏡花賞受賞 柳美里「フルハウス」初版
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     躑躅(つつじ)か丘(おか)  日は午(ご)なり。あらら木(ぎ)のたらたら坂に樹(き)の蔭もなし。寺の門(もん)、植木屋の庭、花屋の店など、坂下を挟(さしはさ)みて町の入口にはあたれど、のぼるに従ひて、ただ畑(はた)ばかりとなれり。番小屋めきたるもの小だかき処(ところ)に見ゆ。谷には菜(な)の花(はな)残りたり。路(みち)の右左、躑躅(つつじ)の花の紅(くれない)なるが、見渡す方(かた)、見返る方(かた)、いまを盛(さかり)なりき。ありくにつれて汗(あせ)少しいでぬ。
 空よく晴れて一点の雲もなく、風あたたかに野面(のづら)を吹けり。
 一人にては行(ゆ)くことなかれと、優(やさ)しき姉上のいひたりしを、肯(き)かで、しのびて来つ。おもしろきながめかな。山の上の方(かた)より一束(ひとたば)の薪(たきぎ)をかつぎたる漢(おのこ)おり来(きた)れり。眉(まゆ)太く、眼(め)の細きが、向(むこう)ざまに顱巻(はちまき)したる、額(ひたい)のあたり汗になりて、のしのしと近づきつつ、細き道をかたよけてわれを通せしが、ふりかへり、
「危ないぞ危ないぞ。」
 といひずてに眦(まなじり)に皺(しわ)を寄せてさつさつと行過(ゆきす)ぎぬ。
 見返ればハヤたらたらさがりに、その肩(かた)躑躅(つつじ)の花にかくれて、髪(かみ)結(ゆ)ひたる天窓(あたま)のみ、やがて山蔭(やまかげ)に見えずなりぬ。草がくれの径(こみち)遠く、小川流るる谷間(たにあい)の畦道(あぜみち)を、菅笠(すげがさ)冠(かむ)りたる婦人(おんな)の、跣足(はだし)にて鋤(すき)をば肩にし、小さき女(むすめ)の児(こ)の手をひきて彼方(あなた)にゆく背姿(うしろすがた)ありしが、それも杉の樹立(こだち)に入りたり。
 行(ゆ)く方(かた)も躑躅なり。来(こ)し方(かた)も躑躅なり。山土(やまつち)のいろもあかく見えたる。あまりうつくしさに恐しくなりて、家路に帰らむと思ふ時、わがゐたる一株(ひとかぶ)の躑躅のなかより、羽音(はおと)たかく、虫のつと立ちて頬を掠(かす)めしが、かなたに飛びて、およそ五、六尺|隔(へだ)てたる処(ところ)に礫(つぶて)のありたるそのわきにとどまりぬ。羽をふるふさまも見えたり。手をあげて走りかかれば、ぱつとまた立ちあがりて、おなじ距離五、六尺ばかりのところにとまりたり。そのまま小石を拾ひあげて狙(ねら)ひうちし、石はそれぬ。虫はくるりと一ツまはりて、また旧(もと)のやうにぞをる。追ひかくれば迅(はや)くもまた遁(に)げぬ。遁ぐるが遠くには去らず、いつもおなじほどのあはひを置きてはキラキラささやかなる羽(は)ばたきして、鷹揚(おうよう)にその二(ふた)すぢの細き髯(ひげ)を上下(うえした)にわづくりておし動かすぞいと憎(にく)さげなりける。
 われは足踏(あしぶみ)して心(こころ)いらてり。そのゐたるあとを踏みにじりて、
畜生畜生。」
 と呟(つぶや)きざま、躍(おど)りかかりてハタと打ちし、拳(こぶし)はいたづらに土によごれぬ。
 渠(かれ)は一足(ひとあし)先なる方(かた)に悠々(ゆうゆう)と羽(は)づくろひす。憎しと思ふ心を籠(こ)めて瞻(みまも)りたれば、虫は動かずなりたり。つくづく見れば羽蟻(はあり)の形して、それよりもやや大(おおい)なる、身はただ五彩(ごさい)の色を帯びて青みがちにかがやきたる、うつくしさいはむ方(かた)なし。
 色彩あり光沢(こうたく)ある虫は毒なりと、姉上の教へたるをふと思ひ出(い)でたれば、打置(うちお)きてすごすごと引返(ひつかえ)せしが、足許(あしもと)にさきの石の二(ふた)ツに砕(くだ)けて落ちたるより俄(にわか)に心動き、拾ひあげて取つて返し、きと毒虫をねらひたり。
 このたびはあやまたず、したたかうつて殺しぬ。嬉(うれ)しく走りつきて石をあはせ、ひたと打(うち)ひしぎて蹴飛(けと)ばしたる、石は躑躅(つつじ)のなかをくぐりて小砂利(こじやり)をさそひ、ばらばらと谷深くおちゆく音しき。
 袂(たもと)のちり打(うち)はらひて空を仰(あお)げば、日脚(ひあし)やや斜(ななめ)になりぬ。ほかほかとかほあつき日向(ひなた)に唇かわきて、眼のふちより頬のあたりむず痒(がゆ)きこと限りなかりき。
 心着(こころづ)けば旧来(もとき)し方(かた)にはあらじと思ふ坂道の異(こと)なる方(かた)にわれはいつかおりかけゐたり。丘ひとつ越えたりけむ、戻る路(みち)はまたさきとおなじのぼりになりぬ。見渡せば、見まはせば、赤土の道幅せまく、うねりうねり果(はて)しなきに、両側つづきの躑躅(つつじ)の花、遠き方(かた)は前後を塞(ふさ)ぎて、日かげあかく咲込(さきこ)めたる空のいろの真蒼(まさお)き下に、彳(たたず)むはわれのみなり。

     鎮守(ちんじゆ)の社(やしろ)

 坂は急ならず長くもあらねど、一つ尽(つく)ればまたあらたに顕(あらわ)る。起伏あたかも大波の如く打続(うちつづ)きて、いつ坦(たん)ならむとも見えざりき。
 あまり倦(う)みたれば、一ツおりてのぼる坂の窪(くぼみ)に踞(つくば)ひし、手のあきたるまま何(なに)ならむ指もて土にかきはじめぬ。さといふ字も出来たり。くといふ字も書きたり。曲りたるもの、直(すぐ)なるもの、心の趣くままに落書(らくがき)したり。しかなせるあひだにも、頬のあたり先刻(さき)に毒虫の触れたらむと覚ゆるが、しきりにかゆければ、袖(そで)もてひまなく擦(こす)りぬ。擦りてはまたもの書きなどせる、なかにむつかしき字のひとつ形よく出来たるを、姉に見せばやと思ふに、俄(にわか)にその顔の見たうぞなりたる。
 立(たち)あがりてゆくてを見れば、左右より小枝を組みてあはひも透(す)かで躑躅(つつじ)咲きたり。日影ひとしほ赤(あこ)うなりまさりたるに、手を見たれば掌(たなそこ)に照りそひぬ。
 一文字にかけのぼりて、唯(と)見ればおなじ躑躅のだらだらおりなり。


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