竹青 - 太宰 治 ( だざい おさむ )
――新曲聊斎志異――
むかし湖南(こなん)の何とやら郡邑(ぐんゆう)に、魚容という名の貧書生がいた。どういうわけか、昔から書生は貧という事にきまっているようである。この魚容君など、氏(うじ)育ち共に賤(いや)しくなく、眉目(びもく)清秀、容姿また閑雅(かんが)の趣(おもむ)きがあって、書を好むこと色を好むが如(ごと)しとは言えないまでも、とにかく幼少の頃より神妙に学に志して、これぞという道にはずれた振舞いも無かった人であるが、どういうわけか、福運には恵まれなかった。早く父母に死別し、親戚(しんせき)の家を転々して育って、自分の財産というものも、その間に綺麗(きれい)さっぱり無くなっていて、いまは親戚一同から厄介者(やっかいもの)の扱いを受け、ひとりの酒くらいの伯父(おじ)が、酔余(すいよ)の興にその家の色黒く痩(や)せこけた無学の下婢(かひ)をこの魚容に押しつけ、結婚せよ、よい縁だ、と傍若無人に勝手にきめて、魚容は大いに迷惑ではあったが、この伯父もまた育ての親のひとりであって、謂(い)わば海山の大恩人に違いないのであるから、その酔漢の無礼な思いつきに対して怒る事も出来ず、涙を怺(こら)え、うつろな気持で自分より二つ年上のその痩せてひからびた醜い女をめとったのである。女は酒くらいの伯父の妾(めかけ)であったという噂(うわさ)もあり、顔も醜いが、心もあまり結構でなかった。魚容の学問を頭から軽蔑して、魚容が「大学の道は至善に止(とどま)るに在(あ)り」などと口ずさむのを聞いて、ふんと鼻で笑い、「そんな至善なんてものに止るよりは、お金に止って、おいしい御馳走(ごちそう)に止る工夫でもする事だ」とにくにくしげに言って、「あなた、すみませんが、これをみな洗濯して下さいな。少しは家事の手助けもするものです」と魚容の顔をめがけて女のよごれ物を投げつける。魚容はそのよごれ物をかかえて裏の河原におもむき、「馬|嘶(いななき)て白日暮れ、剣鳴て秋気来る」と小声で吟じ、さて、何の面白い事もなく、わが故土にいながらも天涯の孤客(こかく)の如く、心は渺(びょう)として空(むな)しく河上を徘徊(はいかい)するという間の抜けた有様であった。
「いつまでもこのような惨(みじ)めな暮しを続けていては、わが立派な祖先に対しても申しわけが無い。乃公(おれ)もそろそろ三十、而立(じりつ)の秋だ。よし、ここは、一奮発して、大いなる声名を得なければならぬ」と決意して、まず女房を一つ殴(なぐ)って家を飛び出し、満々たる自信を以(もっ)て郷試(きょうし)に応じたが、如何(いか)にせん永い貧乏暮しのために腹中に力無く、しどろもどろの答案しか書けなかったので、見事に落第。とぼとぼと、また故郷のあばら屋に帰る途中の、悲しさは比類が無い。おまけに腹がへって、どうにも足がすすまなくなって、洞庭湖畔(どうていこはん)の呉王廟(ごおうびょう)の廊下に這(は)い上って、ごろりと仰向(あおむけ)に寝ころび、「あああ、この世とは、ただ人を無意味に苦しめるだけのところだ。乃公の如きは幼少の頃より、もっぱら其(そ)の独(ひと)りを慎んで古聖賢の道を究(きわ)め、学んで而(しこう)して時に之(これ)を習っても、遠方から福音の訪れ来る気配はさらに無く、毎日毎日、忍び難い侮辱ばかり受けて、大勇猛心を起して郷試に応じても無慙(むざん)の失敗をするし、この世には鉄面皮の悪人ばかり栄えて、乃公の如き気の弱い貧書生は永遠の敗者として嘲笑せられるだけのものか。女房をぶん殴って颯爽(さっそう)と家を出たところまではよかったが、試験に落第して帰ったのでは、どんなに強く女房に罵倒(ばとう)せられるかわからない。ああ、いっそ死にたい」と極度の疲労のため精神|朦朧(もうろう)となり、君子の道を学んだ者にも似合わず、しきりに世を呪(のろ)い、わが身の不幸を嘆いて、薄目をあいて空飛ぶ烏(からす)の大群を見上げ、「からすには、貧富が無くて、仕合せだなあ。」と小声で言って、眼を閉じた。
この湖畔の呉王廟は、三国時代の呉の将軍|甘寧(かんねい)を呉王と尊称し、之を水路の守護神としてあがめ祀(まつ)っているもので、霊顕すこぶるあらたかの由、湖上往来の舟がこの廟前を過ぐる時には、舟子(かこ)ども必ず礼拝し、廟の傍の林には数百の烏が棲息(せいそく)していて、舟を見つけると一斉に飛び立ち、唖々(ああ)とやかましく噪(さわ)いで舟の帆柱に戯れ舞い、舟子どもは之を王の使いの烏として敬愛し、羊の肉片など投げてやるとさっと飛んで来て口に咥(くわ)え、千に一つも受け損ずる事は無い。落第書生の魚容は、この使い烏の群が、嬉々(きき)として大空を飛び廻っている様をうらやましがり、烏は仕合せだなあ、と哀れな細い声で呟(つぶや)いて眠るともなく、うとうとしたが、その時、「もし、もし。」と黒衣の男にゆり起されたのである。
魚容は未だ夢心地で、
「ああ、すみません。叱(しか)らないで下さい。あやしい者ではありません。もう少しここに寝かせて置いて下さい。どうか、叱らないで下さい。」と小さい時からただ人に叱られて育って来たので、人を見ると自分を叱るのではないかと怯(おび)える卑屈な癖が身についていて、この時も、譫言(うわごと)のように「すみません」を連発しながら寝返りを打って、また眼をつぶる。
「叱るのではない。」とその黒衣の男は、不思議な嗄(しわが)れたる声で言って、「呉王さまのお言いつけだ。そんなに人の世がいやになって、からすの生涯がうらやましかったら、ちょうどよい。いま黒衣隊が一卒欠けているから、それの補充にお前を採用してあげるというお言葉だ。早くこの黒衣を着なさい。」ふわりと薄い黒衣を、寝ている魚容にかぶせた。
たちまち、魚容は雄(おす)の烏。眼をぱちぱちさせて起き上り、ちょんと廊下の欄干(らんかん)にとまって、嘴(くちばし)で羽をかいつくろい、翼をひろげて危げに飛び立ち、いましも斜陽を一ぱい帆に浴びて湖畔を通る舟の上に、むらがり噪いで肉片の饗応(きょうおう)にあずかっている数百の神烏(しんう)にまじって、右往左往し、舟子の投げ上げる肉片を上手(じょうず)に嘴に受けて、すぐにもう、生れてはじめてと思われるほどの満腹感を覚え、岸の林に引上げて来て、梢(こずえ)にとまり、林に嘴をこすって、水満々の洞庭の湖面の夕日に映えて黄金色に輝いている様を見渡し、「秋風|飜(ひるがえ)す黄金浪花千片か」などと所謂(いわゆる)君子|蕩々然(とうとうぜん)とうそぶいていると、
「あなた、」と艶(えん)なる女性の声がして、「お気に召しまして?」
見ると、自分と同じ枝に雌(めす)の烏が一羽とまっている。
「おそれいります。」魚容は一揖(いちゆう)して、「何せどうも、身は軽くして泥滓(でいし)を離れたのですからなあ。叱らないで下さいよ。」とつい口癖になっているので、余計な一言を附加えた。
「存じて居ります。」と雌の烏は落ちついて、「ずいぶんいままで、御苦労をなさいましたそうですからね。お察し申しますわ。でも、もう、これからは大丈夫。あたしがついていますわ。」
「失礼ですが、あなたは、どなたです。」
「あら、あたしは、ただ、あなたのお傍に。どんな用でも言いつけて下さいまし。あたしは、何でも致します。そう思っていらして下さい。おいや?」
「いやじゃないが、」魚容は狼狽(ろうばい)して、「乃公(おれ)にはちゃんと女房があります。浮気は君子の慎しむところです。
「いつまでもこのような惨(みじ)めな暮しを続けていては、わが立派な祖先に対しても申しわけが無い。乃公(おれ)もそろそろ三十、而立(じりつ)の秋だ。よし、ここは、一奮発して、大いなる声名を得なければならぬ」と決意して、まず女房を一つ殴(なぐ)って家を飛び出し、満々たる自信を以(もっ)て郷試(きょうし)に応じたが、如何(いか)にせん永い貧乏暮しのために腹中に力無く、しどろもどろの答案しか書けなかったので、見事に落第。とぼとぼと、また故郷のあばら屋に帰る途中の、悲しさは比類が無い。おまけに腹がへって、どうにも足がすすまなくなって、洞庭湖畔(どうていこはん)の呉王廟(ごおうびょう)の廊下に這(は)い上って、ごろりと仰向(あおむけ)に寝ころび、「あああ、この世とは、ただ人を無意味に苦しめるだけのところだ。乃公の如きは幼少の頃より、もっぱら其(そ)の独(ひと)りを慎んで古聖賢の道を究(きわ)め、学んで而(しこう)して時に之(これ)を習っても、遠方から福音の訪れ来る気配はさらに無く、毎日毎日、忍び難い侮辱ばかり受けて、大勇猛心を起して郷試に応じても無慙(むざん)の失敗をするし、この世には鉄面皮の悪人ばかり栄えて、乃公の如き気の弱い貧書生は永遠の敗者として嘲笑せられるだけのものか。女房をぶん殴って颯爽(さっそう)と家を出たところまではよかったが、試験に落第して帰ったのでは、どんなに強く女房に罵倒(ばとう)せられるかわからない。ああ、いっそ死にたい」と極度の疲労のため精神|朦朧(もうろう)となり、君子の道を学んだ者にも似合わず、しきりに世を呪(のろ)い、わが身の不幸を嘆いて、薄目をあいて空飛ぶ烏(からす)の大群を見上げ、「からすには、貧富が無くて、仕合せだなあ。」と小声で言って、眼を閉じた。
この湖畔の呉王廟は、三国時代の呉の将軍|甘寧(かんねい)を呉王と尊称し、之を水路の守護神としてあがめ祀(まつ)っているもので、霊顕すこぶるあらたかの由、湖上往来の舟がこの廟前を過ぐる時には、舟子(かこ)ども必ず礼拝し、廟の傍の林には数百の烏が棲息(せいそく)していて、舟を見つけると一斉に飛び立ち、唖々(ああ)とやかましく噪(さわ)いで舟の帆柱に戯れ舞い、舟子どもは之を王の使いの烏として敬愛し、羊の肉片など投げてやるとさっと飛んで来て口に咥(くわ)え、千に一つも受け損ずる事は無い。落第書生の魚容は、この使い烏の群が、嬉々(きき)として大空を飛び廻っている様をうらやましがり、烏は仕合せだなあ、と哀れな細い声で呟(つぶや)いて眠るともなく、うとうとしたが、その時、「もし、もし。」と黒衣の男にゆり起されたのである。
魚容は未だ夢心地で、
「ああ、すみません。叱(しか)らないで下さい。あやしい者ではありません。もう少しここに寝かせて置いて下さい。どうか、叱らないで下さい。」と小さい時からただ人に叱られて育って来たので、人を見ると自分を叱るのではないかと怯(おび)える卑屈な癖が身についていて、この時も、譫言(うわごと)のように「すみません」を連発しながら寝返りを打って、また眼をつぶる。
「叱るのではない。」とその黒衣の男は、不思議な嗄(しわが)れたる声で言って、「呉王さまのお言いつけだ。そんなに人の世がいやになって、からすの生涯がうらやましかったら、ちょうどよい。いま黒衣隊が一卒欠けているから、それの補充にお前を採用してあげるというお言葉だ。早くこの黒衣を着なさい。」ふわりと薄い黒衣を、寝ている魚容にかぶせた。
たちまち、魚容は雄(おす)の烏。眼をぱちぱちさせて起き上り、ちょんと廊下の欄干(らんかん)にとまって、嘴(くちばし)で羽をかいつくろい、翼をひろげて危げに飛び立ち、いましも斜陽を一ぱい帆に浴びて湖畔を通る舟の上に、むらがり噪いで肉片の饗応(きょうおう)にあずかっている数百の神烏(しんう)にまじって、右往左往し、舟子の投げ上げる肉片を上手(じょうず)に嘴に受けて、すぐにもう、生れてはじめてと思われるほどの満腹感を覚え、岸の林に引上げて来て、梢(こずえ)にとまり、林に嘴をこすって、水満々の洞庭の湖面の夕日に映えて黄金色に輝いている様を見渡し、「秋風|飜(ひるがえ)す黄金浪花千片か」などと所謂(いわゆる)君子|蕩々然(とうとうぜん)とうそぶいていると、
「あなた、」と艶(えん)なる女性の声がして、「お気に召しまして?」
見ると、自分と同じ枝に雌(めす)の烏が一羽とまっている。
「おそれいります。」魚容は一揖(いちゆう)して、「何せどうも、身は軽くして泥滓(でいし)を離れたのですからなあ。叱らないで下さいよ。」とつい口癖になっているので、余計な一言を附加えた。
「存じて居ります。」と雌の烏は落ちついて、「ずいぶんいままで、御苦労をなさいましたそうですからね。お察し申しますわ。でも、もう、これからは大丈夫。あたしがついていますわ。」
「失礼ですが、あなたは、どなたです。」
「あら、あたしは、ただ、あなたのお傍に。どんな用でも言いつけて下さいまし。あたしは、何でも致します。そう思っていらして下さい。おいや?」
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