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純情狸 - 佐藤 垢石 ( さとう こうせき )

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 私に董仲舒ほどの学があれば、名偈(めいけつ)の一句でも吐いて、しゃもじ奴に挑戦してみるのであったが、凡庸の悲しさ、ただ自失して遁走するの芸当しか知らなかったのは、返す返すも残念である。  さて、昔の若き友人は老友となって、私の病床を慰めながら語るに、僕の村の一青年が、数日前の夜、この村に用事があって夜半まで話し込み、星明かりをたよりに、野路を東箱田の方へ帰ってきた。
 折柄、浅間|颪(おろし)が寒く刈田の面に吹き荒(すさ)んで、畑では桑の枯枝が、もがり笛のように叫び鳴く青年は袷(あわせ)の襟を押さえながら急ぎ足でやってくると、殿田用水の橋の真ん中に、大しゃもじが路を塞いで立っているではないか、あっとのめって、そのまま気絶した。
 明け方眼ざめて村へ帰り、斯(か)く斯くと語ったのであるが、貴公が四十数年前、桑畑の間で胆を潰したあのしゃもじの古狸めか、それとも子狸が親から相伝した変化術か。
 はからずも老友と回顧談に耽り、おかげで私の病気も俄に快方に向かった次第である。想えば私の生涯も、永い年月であったわい。
 上州は、古くより狸の産地としては、日本随一である。分福茶釜茂林寺のことは作り話であろうけれど、茂林寺の近所の邑楽郡地方には、今でも盛んに出没している。殊に、内務省直轄で築造した渡良瀬川堤防には、狸の穴があちこちにあって、村の人は、しばしば狸汁に舌鼓をうっている。
 就中(なかんづく)、奥利根山地には狸が多い。新治村諸山脈と吾妻郡越後国境にまたがる山襞には、むくむくと毛ののびた大狸が棲んでいて、猟師財産だ。
 榛名山麓も、狸の本場であろう。
 今から三百五、六十年の昔、伊香保温泉に近い水沢観音の床の下に、仙公と呼ぶ狸界の耆宿(きしゅく)が棲んでいた。齢(よわい)、千余年と称し、洛北の叡山で、お月さまに化け、役の行者に見破られて尻っ尾を出した狸と兄弟分と誇っていたというから、変化の術は千態万姿、まず関東における狸仲間大御所であった。
 しかし、彼はまだ人間と交際したことがない。人間と交際して、生活を共にし、しかも本性を隠し通す修業を積まなければ、全国の狸界を統一し、それに君臨するわけには行かぬこととなっているから、これについて仙公狸は多年にわたり、思案を費やしてきたのである。けれど穴に引きこもって、考え込んでいるだけでは埒(らち)があかぬとあって、いよいよ厩橋城下へ繰り出すことにした。
 当時、厩橋城織田信長重臣瀧川一益が関東の総支配として進駐し、近国に勢威ならぶ城主がなかったのである。したがって厩橋城下は殷賑(いんしん)を極め武士の往来は雑|鬧(とう)し、商家は盛んに、花街はどんちゃん騒ぎの絶え間がなかったという。
 仙公は、出発に際し九十九谷の崖下に穴居する※(あなぐま)を訪(おとな)うて別盃を酌み、一青年学徒に扮して厩橋城下へやってきた。佐々木彦三郎と名乗って紺屋町付近の素人下宿住まいとしたのである。この下宿は甚だ居心地よく庭に花圃菜園などあって、屋敷が広い。
 昼は、塾に通って勉学し、朝夕は花圃を散歩しながら書を読み、夜は二階の室にあって瞑想に耽った。
 ところで、下宿の二階から眺めた夜の景色は素晴らしい。なにしろ、紺屋町といえば厩橋城下における花街中心地だ。絃鼓鉦竹に混じえて、美声流れ来たり流れ去るのである。
 花街に取りまかれ、嬌妓のなまめかしい唄を耳にしようが、笛太鼓の音をきこうが、仙公の佐々木彦三郎は、随分と志操堅固で、なにものにも心を動かさず、はや半年は過ぎた。
 交わるものは、学友ばかりであったのである。ところで、夏ある夜、仙公の佐々木彦三郎は、学友三、四人を集めて、下宿の二階で一盃のんだ。その夜また隣の芸妓屋から、若い妓の美しい声が流れ出て、彦三郎の室へ伝わってきた。学友いずれも耳を傾けたのである。すると一人が、
 なまめかしいが、下品でないな。
 そうだ。だが、音はすれども姿は見えぬというようだな。と、一人が答えた。
 年の頃は十七、八歳というところかね。ところで、声のみきいて姿に接せず、というのが、なにか詩になりそうだね。
 なりそうだ。
 学友一同は、いずれも心にそう思った。誰もが盃を措(お)いて紙と筆を採り、白い紙の面をにらみ込んだ。酒宴が脱線して、運座(うんざ)となったのである。
 仙公狸が、一番早く詩を作った。仙公が、己の賦詩を朗読すると、名作であると賞詞を揃えて、一同は拍手したのである。もとより狸に詩を賦すことなどできるわけのものではないのであるけれど、神通力を持つ仙公だ。なにか、口の中でぶつぶつというと、それが学友達聞こえたのかもしれない。
 夢中になって歓語を交換していると、下のおかみさんが、襖の外から、先生がお見えになりましたから、ご案内しますと告げた。
 連中は狼狽した。酒をのみながら芸妓を題にとって詩を作っているなどとは、学生の分際として穏やかでない。佐々木彦三郎はすぐ詩を書いた紙を丸めて、懐中へねじ込んだのである。


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