純粋小説論 - 横光 利一 ( よこみつ りいち )
もし文芸復興というべきことがあるものなら、純文学にして通俗小説、このこと以外に、文芸復興は絶対に有り得ない、と今も私は思っている。私がこのように書けば、文学について錬達(れんたつ)の人であるなら、もうこの上私の何事の附加なくとも、直ちに通じる筈(はず)の言葉である。しかし、私はこの言葉の誤解を少くするために、少し書いてみようと思う。
今の文壇の中から、真の純粋小説がもし起り得るとするなら、それは通俗小説の中から現れるであろうと、このように書いた達識の眼光を持っていた人物は、河上徹太郎氏である。次に通俗小説と純文芸とを何故に分けたのか、別(わ)けたのが間違いだと云った大通(だいつう)は、幸田露伴氏である。次に、もし日本の代表作家を誰か一人あげよと外人から迫られたら、自分は菊池寛をあげると云った高邁(こうまい)な批評家は、小林秀雄氏である。今日の行き詰った純文学に於て以上のような名言が文学に何の影響も与えずに、素通りして来たのは、どうした理由であろうかと、もう一度考え直してみなければ、純文学は衰滅するより最早やいかんともなし難いとこのように思った私は、この正月の五日の読売新聞へ、純文学にして通俗小説の一文を書いた。私の文章は、以上の人々の尻馬(しりうま)に乗ったまでで、何ら独創的な見解があったわけではない。しかし、今は、達識の文学者の中では、私の云ったような言葉は定説とさえなっているのであるが、言葉の意味は、さまざまな誤解をまねいたようであった。
今の文学の種類には、純文学と、芸術文学と、純粋小説と大衆文学と、通俗小説と、およそ五つの概念が巴(ともえ)となって乱れているが、最も高級な文学は、純文学でもなければ、芸術文学でもない。それは純粋小説である。しかし、日本の文壇には、その一番高級な純粋小説というものは、諸家の言のごとく、殆(ほとん)ど一つも現れていないと思う。純粋小説の一つも現れていない純文学や芸術文学が、いかに盛んになろうと、衰滅しようと、実はどうでも良いのであって、激しく云うなら、純粋小説が現れないような純文学や芸術文学なら、むしろ滅んでしまう方が良いであろうと云われても、何とも返答に困る方が、真実のことである。
それなら、いったい純粋小説とはいかなるものかということになるのだが、この難しい問題の前には、通俗小説と純文学の相違を、出来る限り明瞭(めいりょう)にしなければならぬ関所がある。人々は、この最初の関所で間誤間誤(まごまご)してしまって、ここ以上には通ろうとしないのが、現状であるが、それでは一層ややこしくなる純粋小説の説明など、手のつけようがなくなって、誰もそのまま捨ててしまい、今は手放しの形であるのは尤(もっと)もといわねばならぬ。しかし、考えてみれば、純文学の衰弱は、何と云っても純粋小説の現れないということにあるのであるから、文壇全体の眼が、純粋小説に向って開かれたら、恐らく急流のごとき勢いで純文学が発展し、真の文芸復興もそのとき初めて、完成されるにちがいないと、このように思った私は、危険とは知りつつ、その手段として、純文学にして通俗小説の意見を数行書いてみたのである。
いったい純文学と通俗小説との相違については、今までさまざまな人が考えたが、結局のところ、意見は二つである。純文学とは偶然を廃すること、今一つは、純文学とは通俗小説のように感傷性のないこと、とこれ以外に私はまだ見ていない。しかし、偶然とは何か、感傷とは何か、となると、その言葉の内容は簡単に説明されるものではなく、従ってその説明も、私はまだ一つも見たことも聞いたこともないのであるが、しかし、事がこの最初で面倒になると、必ず、そんなことは勘(かん)で分るではないかと人々はいう。少し難しい言葉を使う人は、偶然のことを、一時性といい、偶然の反対の必然性のことを、日常性といっているが、感傷となると、これこそ勘で分らなければ、分り難い。先(ま)ずあるなら、一般妥当と認められる理智(りち)の批判に耐え得られぬもの、とでも解するより今のところ仕方もない。
私はこのような概念の詮索(せんさく)から始めるのは、面倒なので、通俗小説と純文学とを一つにしたもの、このものこそ今後の文学だと云ったのであるが、誤解を招いた責任は、私も持たねばならぬ。けれども、私の犯したこの冒険をせずして、純文学の概念に移ることは、容易ならぬ事業である。私はこの概念を明瞭にするためにここに罪と罰を引こう。ドストエフスキイの罪と罰という小説を、今私は読みつつあるところだが、この小説には、通俗小説の概念の根柢(こんてい)をなすところの、偶然(一時性)ということが、実に最初から多いのである。思わぬ人物がその小説の中で、どうしても是非その場合に出現しなければ、役に立たぬと思うときあつらえ向きに、ひょっこり現れ、しかも、不意に唐突なことばかりをやるという風の、一見世人の妥当な理智の批判に耐え得ぬような、いわゆる感傷性を備えた現れ方をして、われわれ読者を喜ばす。先ずどこから云っても、通俗小説の二大要素である偶然と感傷性とを多分に含んでいる。そうであるにもかかわらず、これこそ純文学よりも一層高級な、純粋小説の範とも云わるべき優れた作品であると、何人(なんぴと)にも思わせるのである。また同じ作者の悪霊にしてもそうであり、トルストイの戦争と平和にしても、スタンダール、バルザック、これらの大作家の作品にも、偶然性がなかなかに多い。それなら、これらはみな通俗小説ではないかと云えば、実はその通り私は通俗小説だと思う。しかし、それが単に通俗小説であるばかりではなく、純文学にして、しかも純粋小説であるという定評のある原因は、それらの作品に一般妥当とされる理智の批判に耐え得て来た思想性と、それに適当したリアリティがあるからだ。
私は通俗小説にして純文学が、作者にとって、一番困難なものだと読売で書いたが、ここに偶然性と感傷性との持つリアリティの何ものよりも難事な表現の問題が、横わっていると思う。純粋小説論の難儀さも、ここから最初に始って来るのだが、いったい純粋小説に於ける偶然(一時性もしくは特殊性)というものは、その小説の構造の大部分であるところの、日常性(必然性もしくは普遍性)の集中から、当然起って来るある特殊な運動の奇形部であるか、あるいは、その偶然の起る可能が、その偶然の起ったがために、一層それまでの日常性を強度にするかどちらかである。この二つの中の一つを脱(はず)れて偶然が作中に現れるなら、そこに現れた偶然はたちまち感傷に変化してしまう。このため、偶然の持つリアリティというものほど表現するに困難なものはない。しかも、日常生活に於ける感動というものは、この偶然に一番多くあるのである。ところが、わが国の純文学は、一番生活に感動を与える偶然を取り捨てたり、そこを避けたりして、生活に懐疑と倦怠(けんたい)と疲労と無力さとをばかり与える日常性をのみ撰択(せんたく)して、これこそリアリズムだと、レッテルを張り廻(めぐら)して来たのである。勿論(もちろん)私はこれらの日常性をのみ撰択することを、悪リアリズムだとは思わないが、自己身辺の日常経験のみを書きつらねることが、何よりの真実の表現だと、素朴実在論的な考えから撰択した日常性の表現ばかりを、リアリズムとして来たのであるから、まして作中の偶然などにぶつかると、たちまちこれを通俗小説と呼ぶがごとき、感傷性さえ持つにいたったのである。けれども、これが通俗小説となると、日常性も偶然性もあったものではない。そのときに最も好都合な事件を、矢庭(やにわ)に何らの理由も必然性もなくくっつけ、変化と色彩とで読者を釣り歩いて行く感傷を用いるのであるが、しかし、何といっても、ここには自己身辺の経験事実をのみ書きつらねることはなく、いかに安手であろうと、創造がある。事、創造である限り、自己身辺の記事より高度だと、云えば云える議論の出る可能性があるのみならず、何より強みの生活の感動があるのだから、通俗小説に圧倒せられた純文学の衰亡は必然的なことだと思う。純文学の作家にして、心あるものなら、これを復興させようと努力することは、何の不思議もないのであるが、それを自身の足場の薄弱さを立て直そうともせずに、大衆文学通俗文学の撲滅(ぼくめつ)を叫んだとて、何事にもなり得ない。そこで最も文芸復興の手段として、私は純粋小説論の一端を書いたのだが、文学に於ける能動精神も、浪曼主義(ろうまんしゅぎ)も、ここから、発足しなければ、いったいいかなる能動主義の立場をとり、浪曼主義の立場を取ろうとするのか、足場がぐらぐらしていては、恐らくどのような文学主張も、水泡に帰するにちがいあるまい。しかし、文学作品を一層高度のものたらしめ、文芸復興の足場を造るためには、最早や純文学では無力であるから、これを純粋小説たらしめる努力をしなければならぬとなると、またさらに第二の難関が生じて来る。それは短篇小説(たんぺんしょうせつ)では、純粋小説は書けぬということだ。先(ま)ず一例を上げて、通俗小説の持つ何よりの武器たるところの、感動の根源をなす偶然と感傷とについて云うなら、この偶然と感傷とに、純粋小説としての高度の必然性を与えるためにさえ、中島健蔵氏の云われる表現と生活との間に潜んだ例の多くの、「深淵(しんえん)」を渡らねばならぬ。しかも、その深淵は、ただに表現と生活との中間のみの深淵とは限らず、生活に於ける人間の深淵と、それを表現した場合に於ける深淵と、三重に複合して来るのであってみれば、小量の短篇では、よほどの大天才といえども、純粋小説を書くということは不可能なことになって来る。なおその上に、純粋小説としての思想の肉化を企てねば、高貴な現代文学が望めないとするなら、なおさら、百枚や二百枚の短篇ではどうするわけにもいかない。
しかし、ここで、一度小説というものの、生い立ちを考えて見るべき用が起って来る。私は純粋小説は、今までの純文学の作品を高めることではなく、今までの通俗小説を高めたものだと思う方が強いのであるが、しかし、それも一概にそのようには云い切れないところがあるので、純文学にして通俗小説というような、一番に誤解される代りに、聡明(そうめい)な人には直ちに理解せられる云い方をしてみたのだけれども、それはさておき、近代小説の生成というものは、その昔、物語を書こうとした意志と、日記を書きつけようとした意志とが、別々に成長して来て、裁判の方法がつかなくなったところへもって、物語を書くことこそ文学だとして来て迷わなかった創造的な精神が、通俗小説となって発展し、その反対の日記を書く随筆趣味が、純文学となって、自己身辺の事実のみまめまめしく書きつけ、これこそ物語にうつつをぬかすがごとき野鄙(やひ)な文学ではないと高くとまり、最も肝要な可能の世界の創造ということを忘れてしまって、文体まで日記随筆の文体のみを、われわれに残してくれたのである。
今の文壇の中から、真の純粋小説がもし起り得るとするなら、それは通俗小説の中から現れるであろうと、このように書いた達識の眼光を持っていた人物は、河上徹太郎氏である。次に通俗小説と純文芸とを何故に分けたのか、別(わ)けたのが間違いだと云った大通(だいつう)は、幸田露伴氏である。次に、もし日本の代表作家を誰か一人あげよと外人から迫られたら、自分は菊池寛をあげると云った高邁(こうまい)な批評家は、小林秀雄氏である。今日の行き詰った純文学に於て以上のような名言が文学に何の影響も与えずに、素通りして来たのは、どうした理由であろうかと、もう一度考え直してみなければ、純文学は衰滅するより最早やいかんともなし難いとこのように思った私は、この正月の五日の読売新聞へ、純文学にして通俗小説の一文を書いた。私の文章は、以上の人々の尻馬(しりうま)に乗ったまでで、何ら独創的な見解があったわけではない。しかし、今は、達識の文学者の中では、私の云ったような言葉は定説とさえなっているのであるが、言葉の意味は、さまざまな誤解をまねいたようであった。
今の文学の種類には、純文学と、芸術文学と、純粋小説と大衆文学と、通俗小説と、およそ五つの概念が巴(ともえ)となって乱れているが、最も高級な文学は、純文学でもなければ、芸術文学でもない。それは純粋小説である。しかし、日本の文壇には、その一番高級な純粋小説というものは、諸家の言のごとく、殆(ほとん)ど一つも現れていないと思う。純粋小説の一つも現れていない純文学や芸術文学が、いかに盛んになろうと、衰滅しようと、実はどうでも良いのであって、激しく云うなら、純粋小説が現れないような純文学や芸術文学なら、むしろ滅んでしまう方が良いであろうと云われても、何とも返答に困る方が、真実のことである。
それなら、いったい純粋小説とはいかなるものかということになるのだが、この難しい問題の前には、通俗小説と純文学の相違を、出来る限り明瞭(めいりょう)にしなければならぬ関所がある。人々は、この最初の関所で間誤間誤(まごまご)してしまって、ここ以上には通ろうとしないのが、現状であるが、それでは一層ややこしくなる純粋小説の説明など、手のつけようがなくなって、誰もそのまま捨ててしまい、今は手放しの形であるのは尤(もっと)もといわねばならぬ。しかし、考えてみれば、純文学の衰弱は、何と云っても純粋小説の現れないということにあるのであるから、文壇全体の眼が、純粋小説に向って開かれたら、恐らく急流のごとき勢いで純文学が発展し、真の文芸復興もそのとき初めて、完成されるにちがいないと、このように思った私は、危険とは知りつつ、その手段として、純文学にして通俗小説の意見を数行書いてみたのである。
いったい純文学と通俗小説との相違については、今までさまざまな人が考えたが、結局のところ、意見は二つである。純文学とは偶然を廃すること、今一つは、純文学とは通俗小説のように感傷性のないこと、とこれ以外に私はまだ見ていない。しかし、偶然とは何か、感傷とは何か、となると、その言葉の内容は簡単に説明されるものではなく、従ってその説明も、私はまだ一つも見たことも聞いたこともないのであるが、しかし、事がこの最初で面倒になると、必ず、そんなことは勘(かん)で分るではないかと人々はいう。少し難しい言葉を使う人は、偶然のことを、一時性といい、偶然の反対の必然性のことを、日常性といっているが、感傷となると、これこそ勘で分らなければ、分り難い。先(ま)ずあるなら、一般妥当と認められる理智(りち)の批判に耐え得られぬもの、とでも解するより今のところ仕方もない。
私はこのような概念の詮索(せんさく)から始めるのは、面倒なので、通俗小説と純文学とを一つにしたもの、このものこそ今後の文学だと云ったのであるが、誤解を招いた責任は、私も持たねばならぬ。けれども、私の犯したこの冒険をせずして、純文学の概念に移ることは、容易ならぬ事業である。私はこの概念を明瞭にするためにここに罪と罰を引こう。ドストエフスキイの罪と罰という小説を、今私は読みつつあるところだが、この小説には、通俗小説の概念の根柢(こんてい)をなすところの、偶然(一時性)ということが、実に最初から多いのである。思わぬ人物がその小説の中で、どうしても是非その場合に出現しなければ、役に立たぬと思うときあつらえ向きに、ひょっこり現れ、しかも、不意に唐突なことばかりをやるという風の、一見世人の妥当な理智の批判に耐え得ぬような、いわゆる感傷性を備えた現れ方をして、われわれ読者を喜ばす。先ずどこから云っても、通俗小説の二大要素である偶然と感傷性とを多分に含んでいる。そうであるにもかかわらず、これこそ純文学よりも一層高級な、純粋小説の範とも云わるべき優れた作品であると、何人(なんぴと)にも思わせるのである。また同じ作者の悪霊にしてもそうであり、トルストイの戦争と平和にしても、スタンダール、バルザック、これらの大作家の作品にも、偶然性がなかなかに多い。それなら、これらはみな通俗小説ではないかと云えば、実はその通り私は通俗小説だと思う。しかし、それが単に通俗小説であるばかりではなく、純文学にして、しかも純粋小説であるという定評のある原因は、それらの作品に一般妥当とされる理智の批判に耐え得て来た思想性と、それに適当したリアリティがあるからだ。
私は通俗小説にして純文学が、作者にとって、一番困難なものだと読売で書いたが、ここに偶然性と感傷性との持つリアリティの何ものよりも難事な表現の問題が、横わっていると思う。純粋小説論の難儀さも、ここから最初に始って来るのだが、いったい純粋小説に於ける偶然(一時性もしくは特殊性)というものは、その小説の構造の大部分であるところの、日常性(必然性もしくは普遍性)の集中から、当然起って来るある特殊な運動の奇形部であるか、あるいは、その偶然の起る可能が、その偶然の起ったがために、一層それまでの日常性を強度にするかどちらかである。この二つの中の一つを脱(はず)れて偶然が作中に現れるなら、そこに現れた偶然はたちまち感傷に変化してしまう。このため、偶然の持つリアリティというものほど表現するに困難なものはない。しかも、日常生活に於ける感動というものは、この偶然に一番多くあるのである。ところが、わが国の純文学は、一番生活に感動を与える偶然を取り捨てたり、そこを避けたりして、生活に懐疑と倦怠(けんたい)と疲労と無力さとをばかり与える日常性をのみ撰択(せんたく)して、これこそリアリズムだと、レッテルを張り廻(めぐら)して来たのである。勿論(もちろん)私はこれらの日常性をのみ撰択することを、悪リアリズムだとは思わないが、自己身辺の日常経験のみを書きつらねることが、何よりの真実の表現だと、素朴実在論的な考えから撰択した日常性の表現ばかりを、リアリズムとして来たのであるから、まして作中の偶然などにぶつかると、たちまちこれを通俗小説と呼ぶがごとき、感傷性さえ持つにいたったのである。けれども、これが通俗小説となると、日常性も偶然性もあったものではない。そのときに最も好都合な事件を、矢庭(やにわ)に何らの理由も必然性もなくくっつけ、変化と色彩とで読者を釣り歩いて行く感傷を用いるのであるが、しかし、何といっても、ここには自己身辺の経験事実をのみ書きつらねることはなく、いかに安手であろうと、創造がある。事、創造である限り、自己身辺の記事より高度だと、云えば云える議論の出る可能性があるのみならず、何より強みの生活の感動があるのだから、通俗小説に圧倒せられた純文学の衰亡は必然的なことだと思う。純文学の作家にして、心あるものなら、これを復興させようと努力することは、何の不思議もないのであるが、それを自身の足場の薄弱さを立て直そうともせずに、大衆文学通俗文学の撲滅(ぼくめつ)を叫んだとて、何事にもなり得ない。そこで最も文芸復興の手段として、私は純粋小説論の一端を書いたのだが、文学に於ける能動精神も、浪曼主義(ろうまんしゅぎ)も、ここから、発足しなければ、いったいいかなる能動主義の立場をとり、浪曼主義の立場を取ろうとするのか、足場がぐらぐらしていては、恐らくどのような文学主張も、水泡に帰するにちがいあるまい。しかし、文学作品を一層高度のものたらしめ、文芸復興の足場を造るためには、最早や純文学では無力であるから、これを純粋小説たらしめる努力をしなければならぬとなると、またさらに第二の難関が生じて来る。それは短篇小説(たんぺんしょうせつ)では、純粋小説は書けぬということだ。先(ま)ず一例を上げて、通俗小説の持つ何よりの武器たるところの、感動の根源をなす偶然と感傷とについて云うなら、この偶然と感傷とに、純粋小説としての高度の必然性を与えるためにさえ、中島健蔵氏の云われる表現と生活との間に潜んだ例の多くの、「深淵(しんえん)」を渡らねばならぬ。しかも、その深淵は、ただに表現と生活との中間のみの深淵とは限らず、生活に於ける人間の深淵と、それを表現した場合に於ける深淵と、三重に複合して来るのであってみれば、小量の短篇では、よほどの大天才といえども、純粋小説を書くということは不可能なことになって来る。なおその上に、純粋小説としての思想の肉化を企てねば、高貴な現代文学が望めないとするなら、なおさら、百枚や二百枚の短篇ではどうするわけにもいかない。
しかし、ここで、一度小説というものの、生い立ちを考えて見るべき用が起って来る。私は純粋小説は、今までの純文学の作品を高めることではなく、今までの通俗小説を高めたものだと思う方が強いのであるが、しかし、それも一概にそのようには云い切れないところがあるので、純文学にして通俗小説というような、一番に誤解される代りに、聡明(そうめい)な人には直ちに理解せられる云い方をしてみたのだけれども、それはさておき、近代小説の生成というものは、その昔、物語を書こうとした意志と、日記を書きつけようとした意志とが、別々に成長して来て、裁判の方法がつかなくなったところへもって、物語を書くことこそ文学だとして来て迷わなかった創造的な精神が、通俗小説となって発展し、その反対の日記を書く随筆趣味が、純文学となって、自己身辺の事実のみまめまめしく書きつけ、これこそ物語にうつつをぬかすがごとき野鄙(やひ)な文学ではないと高くとまり、最も肝要な可能の世界の創造ということを忘れてしまって、文体まで日記随筆の文体のみを、われわれに残してくれたのである。
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鶴子経済学部遠藤明相楽紺城島敦史東条右近馬穆鵠士工学部井上小牧海道理博四季河原賽周藤和之西野左門佐倉零一国際学部エア=エムリスマイク=ジャックナイフ社会学部光村陽水瑚物竜蔵白崎黎十郎高田九郎太窓人名直舘真理屋城静櫻崎統也農学部犬塚誠二郎鎧旋寺正常物理学部佐野浩介文学部世良纏旋風夜叉丸遠張遼太郎横光
