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続堕落論 - 坂口 安吾 ( さかぐち あんご )

  • 【坂口安吾文庫本 2冊】白痴・堕落論
  • ☆BOOK367☆堕落論☆坂口 安吾(著)★中古品
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  • ◆堕落論◆
  • 「堕落論」坂口安吾 昭和22年 初版本
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 敗戦国民の道義|頽廃(たいはい)せりというのだが、然らば戦前の「健全」なる道義に復することが望ましきことなりや、賀すべきことなりや、私は最も然らずと思う。  私の生れ育った新潟市石油の産地であり、したがって石油成金の産地でもあるが、私が小学校のころ、中野貫一という成金一人が産をなして後も大いに倹約であり、停車場から人力車に乗ると値がなにがしか高いので万代橋(ばんだいばし)という橋の袂(たもと)まで歩いてきてそこで安い車を拾うという話を校長先生の訓辞に於て幾度となくきかされたものであった。ところが先日郷里の人が来ての話に、この話が今日では新津某という新しい石油成金逸話に変り、現に尚(なお)新潟市民の日常の教訓となり、生活規範となっていることを知った。
 百万長者五十銭の車代を三十銭にねぎることが美徳なりや。我等の日常お手本とすべき生活であるか。この話一つに就(つい)ての問題ではない。問題はかかる話の底をつらぬく精神であり、生活のありかたである。
 戦争中私は日本映画社というところで嘱託をしていた。そのとき、やっぱり嘱託一人にOという新聞聯合の理事だか何かをしている威勢のいい男がいて、談論風発吉川英治佐藤紅緑日本で偉い文学者だとか、そういう大先生であるが、会議の席でこういう映画を作ったらよかろうと言って意見をのべた。その映画というのは老いたる農夫のゴツゴツ節(ふし)くれた手だとかツギハギの着物だとか、父から子へ子から孫へ伝えられる忍苦と耐乏の魂の象徴綴り合せ映せという、なぜなら日本文化農村文化でなければならず、農村文化から都会文化に移ったところに日本堕落があり、今日悲劇があるからだ、というのであった。
 この話は会議の席では大いに反響をよんだもので、専務事実上社長)などは大感服、僕をかえりみて、君あれを脚本にしないかなどと言われて、私は御辞退申上げるのに苦労したものであるが、この話とてもこの場かぎりの戦時中一場悪夢ではないだろう。戦争中は農村文化へかえれ、農村の魂へかえれ、ということが絶叫しつづけられていたのであるが、それは一時の流行思想であるとともに、日本大衆の精神でもあった。
 一口に農村文化というけれども、そもそも農村文化があるか。盆踊りだのお祭風俗だの、耐乏精神だの本能的な貯蓄精神はあるかも知れぬが、文化本質進歩ということで、農村には進歩に関する毛一筋の影だにない。あるものは排他精神と、他へ対する不信、疑ぐり深い魂だけで、損得の執拗計算発達しているだけである。農村は淳朴(じゅんぼく)だという奇妙言葉が無反省使用せられてきたものだが、元来農村はその成立の始めから淳朴などという性格はなかった。
 大化改新以来、農村精神とは脱税を案出する不撓不屈(ふとうふくつ)の精神で、浮浪人となって脱税し、戸籍をごまかして脱税し、そして彼等農民達の小さな個々の悪戦苦闘の脱税行為が実は日本経済結び目であり、それによって荘園が起り、荘園が栄え、荘園が衰え、貴族が亡びて武士が興った。農民達の税との戦い、その不撓不屈の脱税行為によって日本の政治が変動し、日本の歴史が移り変っている。人を見たら泥棒と思えというのが王朝農村精神であり、事実群盗横行し、地頭はころんだときでも何か掴(つか)んで起き上るという達人であるから、他への不信、排他精神というものは農村の魂であった。彼等は常に受身である。自分の方からこうしたいとは言わず、又、言い得ない。その代り押しつけられた事柄を彼等独特のずるさによって処理しておるので、そしてその受身のずるさが、孜々(しし)として、日本の歴史を動かしてきたのであった。
 日本農村今日に於ても尚奈良朝の農村である。今日諸方の農村に於ける相似民事裁判の例、境界のウネを五寸三寸ずつ動かして隣人を裏切り、証文なしで田を借りて返さず親友を裏切る。彼等は親友隣人を執拗裏切りつづけているではないか。損得という利害の打算が生活の根柢で、より高い精神への渇望、自我内省と他の発見農村精神に見出すことができない。他の発見のないところに真実文化が有りうべき筈はない。自我省察のないところに文化の有りうべき筈はない。
 農村の美徳は耐乏、忍苦精神だという。乏(とぼ)しきに耐える精神などがなんで美徳であるものか。必要は発明の母と言う。乏しきに耐えず、不便に耐え得ず、必要を求めるところに発明が起り、文化が起り、進歩というものが行われてくるのである。日本兵隊は耐乏の兵隊で、便利の機械は渇望されず、肉体の酷使耐乏が謳歌(おうか)せられて、兵器発達せず、根柢的に作戦基礎が欠けてしまって、今日の無残極まる大敗北となっている。あに兵隊のみならんや。日本精神そのものが耐乏の精神であり、変化を欲せず、進歩を欲せず、憧憬讃美が過去へむけられ、たまさかに現れいでる進歩精神はこの耐乏的反動精神の一撃を受けて常に過去へ引き戻されてしまうのである。
 必要は発明の母という。その必要をもとめる精神を、日本ではナマクラの精神などと云い、耐乏を美徳と称す。一里二里は歩けという。五階六階はエレベータアなどとはナマクラ千万根性だという。機械に頼って勤労精神を忘れるのは亡国のもとだという。すべてがあべこべなのだ。真理は偽らぬものである。即ち真理によって復讐せられ、肉体勤労にたより、耐乏の精神にたよって今日亡国の悲運をまねいたではないか。
 ボタン一つ押しハンドルを廻すだけですむことを、一日中エイエイ苦労して、汗の結晶だの勤労のよろこびなどと、馬鹿げた話である。しかも日本全体が、日本の根柢そのものが、かくの如く馬鹿げきっているのだ。
 いまだに代議士諸公は天皇制について皇室の尊厳などと馬鹿げきったことを言い、大騒ぎをしている。天皇制というものは日本歴史を貫く一つの制度ではあったけれども、天皇の尊厳というものは常に利用者の道具にすぎず、真に実在したためしはなかった。
 藤原氏将軍家にとって何がために天皇制が必要であったか。何が故に彼等自身が最高の主権を握らなかったか。それは彼等が自ら主権を握るよりも、天皇制が都合がよかったからで、彼らは自分自身が天下に号令するよりも、天皇に号令させ、自分先ずまっさきにその号令に服従してみせることによって号令が更によく行きわたることを心得ていた。


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