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緑色の太陽 - 高村 光太郎 ( たかむら こうたろう )

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 人は案外下らぬところで行き悩むものである。  いわゆる日本画家日本画という名にあてられて行き悩んでいる。いわゆる西洋画家油絵具を背負いこんで行き悩んでいる。飛車よりも歩を可愛がるような羽目に自然と立ち至る事もあるのである。その MOTIV(モチフ)を考えるとおかしくはあるが、行き悩んでいる当面の事局を眼鏡焦点に置いて考えると、かなり惨酷なものに見えないでもない。無意味な混雑と危険な SONDE(測定)の乱用とは、こんな時にすべての芸術家に課せられる重い通行税である。この意味において、今の日本芸術家ほどその作品に高価な無益の印紙を貼っているものはない。いたものもない。この重税に反抗して芸術界の ANARCHISMUS(アナーキズム)が起らないとも限るまい。が、そういう所から起って来る ANARCHISMUS は反動的のものである。ANARCHIST の ANARCHISMUS ではないのである。
 僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めている。従って、芸術家の PERSOENLICHKEIT(人格)に無限権威を認めようとするのである。あらゆる意味において、芸術家を唯一箇の人間として考えたいのである。その PERSOENLICHKEIT を出発点としてその作品を SCHAETZEN(評価)したいのである。PERSOENLICHKEIT そのものはそのままに研究もし鑑賞もして、あまり多くの擬議を入れたくないのである。僕が青いと思ってるものを人が赤だと見れば、その人が赤だと思うことを基本として、その人がそれを赤として如何に取扱っているかを SCHAETZEN したいのである。その人がそれを赤と見る事については、僕は更に苦情を言いたくないのである。むしろ、自分と異なった自然の観かたのあるのを ANGENEHME UEBERFALL(快い驚き)として、如何ほどまでにその人が自然の核心を窺い得たか、如何ほどまでにその人の GEFUEHL(感覚感情)が充実しているか、の方を考えて見たいのである。その上でその人の GEMUETSSTIMMUNG(情調)を味いたいのである。僕の心のこの要求は、僕を駆って、この頃人の口に上る地方色というものの価値極小にしてしまったのである。(英語にいう LOCAL COLOUR(ローカルカラー)は意を二三にするが、ここには普通にある地方自然色彩特色を指す事とする。)僕は地方色などというものを画家が考え悩むのは、前に言った高価な無益の印紙の一つにほかならないと思っている。
 絶対の自由(フライハイト)を要求する僕の態度が間違っていれば、そこから起って来る僕の考索はすべて無価値のものとなってしまうわけである。しかし、これは間違いようのない事に属している。理論でなくして僕の感情であるからである。たとい、間違って居ると言われても僕の頭のある限りは自分でどうする事も出来ない事なのである。やはり思うだけの事は述べて見たい。
 僕は生れて日本人である。魚が水を出て生活出来ない如く、自分では黙って居ても、僕の居る所には日本人が居る事になるのである。と同時に、魚が水に濡れているのを意識していない如く、僕は日本人だという事を自分意識していない時がある。時があるどころではない。意識しない時の方が多い位である。人事との交渉の時によく僕は日本人だと思う。自然に向った時には、僕はあまりその考えが出て来ない。つまり、そう思う時は僕の縄張りを思う時である。自我を対象のものの中に投入している時にはこんな考えの起って来よう筈がない。
 僕の製作時の心理状態は、従って、一箇の人間があるのみである。日本などという考えは更に無い。自分の思うまま見たまま、感じたままを構わずに行(や)るばかりである。後(のち)に見てその作品がいわゆる日本的であるかも知れない。ないかも知れない。あっても、なくても、僕という作家にとっては些少の差支えもない事なのである。地方色の存在すら、この場合には零(ゼロ)になるのである。
 地方色の価値をかなりに尊重している人は今の画界になかなか多い事である。日本油絵具の運命というものは、この日本地方色との妥協の如何によって定まるものと考えている人もあるようである。日本自然にある犯すべからざる定まった色彩が固有していて、それに牴触しては忽ちその作品の〔“RAISON D'E^TRE”〕(存在理由)がなくなってしまうと考える所から、自分の胸にある燃えるような色彩も、夢のような TON(調子)も抑えつけようとして踟※(ちちゅう)逡巡している人も少くないようである。いわゆる地方色に絶対の価値を与えて、それに対してやや異色ありと認めた作品は悉く論外として取扱って、唯の ABSCHAETZUNG(評価)を与える寛典すら容さぬ峻厳の態度に居る人もある。そして、地方色の価値一般から認められて居るようである。「こんな色は日本にない」という言が非難の表白になって居るのを見てもわかる。


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