縁結び - 泉 鏡花 ( いずみ きょうか )
一
襖(ふすま)を開けて、旅館の女中が、
「旦那(だんな)、」
と上調子(うわっちょうし)の尻上(しりあが)りに云(い)って、坐(すわ)りもやらず莞爾(にっこり)と笑いかける。
「用かい。」
とこの八|畳(じょう)で応じたのは三十ばかりの品のいい男で、紺(こん)の勝った糸織(いとおり)の大名縞(だいみょうじま)の袷(あわせ)に、浴衣(ゆかた)を襲(かさ)ねたは、今しがた湯から上ったので、それなりではちと薄(うす)ら寒し、着換(きか)えるも面倒(めんどう)なりで、乱箱(みだればこ)に畳(たた)んであった着物を無造作に引摺出(ひきずりだ)して、上着だけ引剥(ひっぱ)いで着込(きこ)んだ証拠(しょうこ)に、襦袢(じゅばん)も羽織も床(とこ)の間(ま)を辷(すべ)って、坐蒲団(すわりぶとん)の傍(わき)まで散々(ちりぢり)のしだらなさ。帯もぐるぐる巻き、胡坐(あぐら)で火鉢(ひばち)に頬杖(ほおづえ)して、当日の東雲御覧(しののめごらん)という、ちょっと変った題の、土地の新聞を読んでいた。
その二の面の二段目から三段へかけて出ている、清川謙造氏(きよかわけんぞうし)講演、とあるのがこの人物である。
たとい地方でも何でも、新聞は早朝に出る。その東雲御覧を、今やこれ午後二時。さるにても朝寝(あさね)のほど、昨日(きのう)のその講演会の帰途(かえり)のほども量(はか)られる。
「お客様でございますよう。」
と女中は思入(おもいいれ)たっぷりの取次を、ちっとも先方気が着かずで、つい通りの返事をされたもどかしさに、声で威(おど)して甲走(かんばし)る。
吃驚(びっくり)して、ひょいと顔を上げると、横合から硝子窓(がらすまど)へ照々(てらてら)と当る日が、片頬(かたほお)へかっと射したので、ぱちぱちと瞬(またた)いた。
「そんなに吃驚なさいませんでもようございます。」
となおさら可笑(おかし)がる。
謙造は一向|真面目(まじめ)で、
「何という人だ。名札はあるかい。」
「いいえ、名札なんか用(い)りません。誰(だれ)も知らないもののない方でございます。ほほほ、」
「そりゃ知らないもののない人かも知れんがね、よそから来た私にゃ、名を聞かなくっちゃ分らんじゃないか、どなただよ。」
と眉(まゆ)を顰(ひそ)める。
「そんな顔をなすったってようございます。ちっとも恐(こわ)くはありませんわ。今にすぐにニヤニヤとお笑いなさろうと思って。昨夜(ゆうべ)あんなに晩(おそ)うくお帰りなさいました癖(くせ)に、」
「いや、」
と謙造は片頬(かたほ)を撫(な)でて、
「まあ、いいから。誰だというに、取次がお前、そんなに待たしておいちゃ失礼だろう。」
ちと躾(たしな)めるように言うと、一層|頬辺(ほっぺた)の色を濃(こ)くして、ますます気勢込(きおいこ)んで、
「何、あなた、ちっと待たして置きます方がかえっていいんでございますよ。昼間ッからあなた、何ですわ。」
と厭(いや)な目つきでまたニヤリで、
「ほんとは夜来る方がいいんだのに。フン、フン、フン、」
突然(いきなり)川柳(せんりゅう)で折紙(おりがみ)つきの、(あり)という鼻をひこつかせて、
「旦那、まあ、あら、まあ、あら良(い)い香(にお)い、何て香水(こうすい)を召(め)したんでございます。フン、」
といい方が仰山(ぎょうさん)なのに、こっちもつい釣込(つりこ)まれて、
「どこにも香水なんぞありはしないよ。」
「じゃ、あの床の間の花かしら、」
と一際(ひときわ)首を突込(つッこ)みながら、
「花といえば、あなたおあい遊ばすのでございましょうね、お通し申しましてもいいんですね。」
「串戯(じょうだん)じゃない。何という人だというに、」
「あれ、名なんぞどうでもよろしいじゃありませんか。お逢(あ)いなされば分るんですもの。」
「どんな人だよ、じれったい。」
「先方(さき)もじれったがっておりましょうよ。」
「婦人(おんな)か。」
と唐突(だしぬけ)に尋(たず)ねた。
「ほら、ほら、」
と袂(たもと)をその、ほらほらと煽(あお)ってかかって、
「ご存じの癖に、」
「どんな婦人だ。」
と尋ねた時、謙造の顔がさっと暗くなった。新聞を窓(まど)へ翳(かざ)したのである。
「お気の毒様。」
二
「何だ、もう帰ったのか。」
「ええ、」
「だってお気の毒様だと云(い)うじゃないか。」
「ほんとに性急(せっかち)でいらっしゃるよ。誰も帰ったとも何とも申上げはしませんのに。いいえ、そうじゃないんですよ。お気の毒様だと申しましたのは、あなたはきっと美しい※のつくり」、286-4](ねえ)さんだと思っておいでなさいましょう。でしょう、でしょう。
ところが、どうして、跛(びっこ)で、めっかちで、出尻(でっちり)で、おまけに、」
といいかけて、またフンと嗅(か)いで、
「ほんとにどうしたら、こんな良(い)い匂(におい)が、」
とひょいと横を向いて顔を廊下(ろうか)へ出したと思うと、ぎょッとしたように戸口を開いて、斜(はす)ッかけに、
「あら、まあ!」
「お伺(うかが)い下すって?」
と内端(うちわ)ながら判然(はっきり)とした清(すずし)い声が、壁(かべ)に附(つ)いて廊下で聞える。
女中はぼッとした顔色(かおつき)で、
「まあ!」
「お帳場にお待ち申しておりましたんですけれども、おかみさんが二階へ行っていいから、とそうおっしゃって下さいましたもんですから……」
と優容(しとやか)な物腰(ものごし)。
とこの八|畳(じょう)で応じたのは三十ばかりの品のいい男で、紺(こん)の勝った糸織(いとおり)の大名縞(だいみょうじま)の袷(あわせ)に、浴衣(ゆかた)を襲(かさ)ねたは、今しがた湯から上ったので、それなりではちと薄(うす)ら寒し、着換(きか)えるも面倒(めんどう)なりで、乱箱(みだればこ)に畳(たた)んであった着物を無造作に引摺出(ひきずりだ)して、上着だけ引剥(ひっぱ)いで着込(きこ)んだ証拠(しょうこ)に、襦袢(じゅばん)も羽織も床(とこ)の間(ま)を辷(すべ)って、坐蒲団(すわりぶとん)の傍(わき)まで散々(ちりぢり)のしだらなさ。帯もぐるぐる巻き、胡坐(あぐら)で火鉢(ひばち)に頬杖(ほおづえ)して、当日の東雲御覧(しののめごらん)という、ちょっと変った題の、土地の新聞を読んでいた。
その二の面の二段目から三段へかけて出ている、清川謙造氏(きよかわけんぞうし)講演、とあるのがこの人物である。
たとい地方でも何でも、新聞は早朝に出る。その東雲御覧を、今やこれ午後二時。さるにても朝寝(あさね)のほど、昨日(きのう)のその講演会の帰途(かえり)のほども量(はか)られる。
「お客様でございますよう。」
と女中は思入(おもいいれ)たっぷりの取次を、ちっとも先方気が着かずで、つい通りの返事をされたもどかしさに、声で威(おど)して甲走(かんばし)る。
吃驚(びっくり)して、ひょいと顔を上げると、横合から硝子窓(がらすまど)へ照々(てらてら)と当る日が、片頬(かたほお)へかっと射したので、ぱちぱちと瞬(またた)いた。
「そんなに吃驚なさいませんでもようございます。」
となおさら可笑(おかし)がる。
謙造は一向|真面目(まじめ)で、
「何という人だ。名札はあるかい。」
「いいえ、名札なんか用(い)りません。誰(だれ)も知らないもののない方でございます。ほほほ、」
「そりゃ知らないもののない人かも知れんがね、よそから来た私にゃ、名を聞かなくっちゃ分らんじゃないか、どなただよ。」
と眉(まゆ)を顰(ひそ)める。
「そんな顔をなすったってようございます。ちっとも恐(こわ)くはありませんわ。今にすぐにニヤニヤとお笑いなさろうと思って。昨夜(ゆうべ)あんなに晩(おそ)うくお帰りなさいました癖(くせ)に、」
「いや、」
と謙造は片頬(かたほ)を撫(な)でて、
「まあ、いいから。誰だというに、取次がお前、そんなに待たしておいちゃ失礼だろう。」
ちと躾(たしな)めるように言うと、一層|頬辺(ほっぺた)の色を濃(こ)くして、ますます気勢込(きおいこ)んで、
「何、あなた、ちっと待たして置きます方がかえっていいんでございますよ。昼間ッからあなた、何ですわ。」
と厭(いや)な目つきでまたニヤリで、
「ほんとは夜来る方がいいんだのに。フン、フン、フン、」
突然(いきなり)川柳(せんりゅう)で折紙(おりがみ)つきの、(あり)という鼻をひこつかせて、
「旦那、まあ、あら、まあ、あら良(い)い香(にお)い、何て香水(こうすい)を召(め)したんでございます。フン、」
といい方が仰山(ぎょうさん)なのに、こっちもつい釣込(つりこ)まれて、
「どこにも香水なんぞありはしないよ。」
「じゃ、あの床の間の花かしら、」
と一際(ひときわ)首を突込(つッこ)みながら、
「花といえば、あなたおあい遊ばすのでございましょうね、お通し申しましてもいいんですね。」
「串戯(じょうだん)じゃない。何という人だというに、」
「あれ、名なんぞどうでもよろしいじゃありませんか。お逢(あ)いなされば分るんですもの。」
「どんな人だよ、じれったい。」
「先方(さき)もじれったがっておりましょうよ。」
「婦人(おんな)か。」
と唐突(だしぬけ)に尋(たず)ねた。
「ほら、ほら、」
と袂(たもと)をその、ほらほらと煽(あお)ってかかって、
「ご存じの癖に、」
「どんな婦人だ。」
と尋ねた時、謙造の顔がさっと暗くなった。新聞を窓(まど)へ翳(かざ)したのである。
「お気の毒様。」
二
「何だ、もう帰ったのか。」
「ええ、」
「だってお気の毒様だと云(い)うじゃないか。」
「ほんとに性急(せっかち)でいらっしゃるよ。誰も帰ったとも何とも申上げはしませんのに。いいえ、そうじゃないんですよ。お気の毒様だと申しましたのは、あなたはきっと美しい※のつくり」、286-4](ねえ)さんだと思っておいでなさいましょう。でしょう、でしょう。
ところが、どうして、跛(びっこ)で、めっかちで、出尻(でっちり)で、おまけに、」
といいかけて、またフンと嗅(か)いで、
「ほんとにどうしたら、こんな良(い)い匂(におい)が、」
とひょいと横を向いて顔を廊下(ろうか)へ出したと思うと、ぎょッとしたように戸口を開いて、斜(はす)ッかけに、
「あら、まあ!」
「お伺(うかが)い下すって?」
と内端(うちわ)ながら判然(はっきり)とした清(すずし)い声が、壁(かべ)に附(つ)いて廊下で聞える。
女中はぼッとした顔色(かおつき)で、
「まあ!」
「お帳場にお待ち申しておりましたんですけれども、おかみさんが二階へ行っていいから、とそうおっしゃって下さいましたもんですから……」
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