罠を跳び越える女 - 矢田 津世子 ( やだ つせこ )
三階利札室は銃声のない戦場だ。
凄じい誰かの咳、猛烈な紙埃(かみぼこり)、白粉の鬱陶しい香(にお)いと捌口のない炭酸|瓦斯(ガス)の匍匐(ほふく)、
拇指(おやゆび)と人差指の多忙な債券調査、海綿の音高い悲鳴、野蛮な響きを撒きちらす鋏、撥(は)ね返るスタンプ、※(わらいごえ)、ナンバアリングの律動的(リズミカル)な活動、騒々しい帳薄の開閉、大仰な溜息、金額を叫ぶソプラノ、算盤(そろばん)の激しい火花、ペン先きの競争的な流れ、それを追いかける吸い取り紙……
「ねえ、貸付けへすごいのが這入(はい)ったわ。見て? ナ※アロ型のシャンよ……」
「そう。昼休みに見てこう。」
「あら、私もね。」
「桂子さんが慌ててるよ。チェッだ。」
「ハッハッハッハッ……」
笑い声が帯紙を吹きとばす。
「……こんな恰好の青い瓶に入ってるの。」
利札を切りかけで、真白になったテーブルの紙埃を掻き分けて、人差指が熱心に動いている。
「フン、ほんとに利くかしら?」
「それァね。一寸値が張るけど。でもね、余り使い過ぎるとほんとの***になっちゃうって……」
「加減しなきゃ駄目ね。」
「で、あんたその男にまいっちゃってるんでしょ?」
「とてもよ。そいでね、私、昨日逢った時思い切って云ってやったの。――私、あんたがとても好きなんです、ってね。その後が勇敢よ。接吻しちゃったんだもの。」
「あんたがその人に?」
「もち、愕(おどろ)いた?」
「別に……」
「じゃこの次は何時(いつ)にしましょうか、あんたの都合は?」
「そうね、次の日曜にでもみんなに集まって頂いたら。余り長びくと折角の気が脱けてしまうわ、それに、もう基礎工事もすんだからこれから人をまとめるのが目的でしょう、その意味でも、なる可くチャンスを見付けて集まる工夫をしなくちゃね。今日中に連絡をとって、みんなに知らせておきましょうね、あんた、調査や庶務の方を受持って下さる?」
「ええ、いいわ、……一階(みせ)の給仕があんたを呼んでるわよ。ほら……」
「何かしら?」
ひそめた眉をその儘、槇子は椅子を立ち上った。
「ああ貴方前川さんですか、あのね、部長がお呼びですよ。」
男の声に愕いて、いろンな眼が振り返る。
「じやァね。直ぐですよ。」
「ええ……」
失望した顔が一ツ一ツ元の位置へ戻っていった。
「何用かしら?」
テーブルの利札を整理し乍ら、槇子は首を傾けた。
「部長の呼び出しなんて……」
祥子は、債券の額面をグット睨んで、「もしかしたら、感付かれたんじやない?」
「此処(ここ)でやってる運動(しごと)のこと? まさか、そんなことじゃァないわ。だったとしたら、どんな方法で……」
「ともかく……これ……」
祥子の拳が唇へ大きな栓をした。
「フん。」
槇子は強い合点をすると、その儘相手へ背をみせてドアを出て行った。
人気のない廊下を草履がパタパタ反響していく。
――若しこの呼び出しが警戒に価するものなら……
エレヴェタアに乗って、小さい室内灯(ルームライト)を睨み上げている自分の生真面目な顔を細い鏡の中に発見して、槇子は思わず噴き出してしまった。余り神経質すぎる自分を、肚(はら)の中で蹴とばした。
――頑張れるだけ頑張る迄さ――
一階(みせ)は相変らず男達の体臭で充満していた。出納の記帳台に納っていた白板(パイパン)面が、係長の眼を盗んで槇子へ下手くそなウインクを送ってよこした。その歪んだのし餅みたいな顔を、彼女は鼻の先きで突き刺してやった。
スチームへ尻をあてがって新聞を読んでいた預金部長の禿(はげ)は、眼鏡越しにギロリと彼女を覗き、直ぐに不躾(ぶしつけ)を取り戻すかのように、めめずのような笑皺を泥色した唇の周りへ匍(は)わせた。
男達は、各々の勤勉さを害ねない程度に、槇子への秋波を怠らなかった。丁度、交尾期の雄犬が、その鋭い嗅覚で雌犬の存在を知るように、行手では、どの男もどの男も顔をあげて彼女を迎えた。
証券部長は一階の席にいなかった。
給仕の知らせで、槇子は、正面の羅紗張りのドアを押した。後で、男達の囁きが起った。
「あの、お呼びでいらっしゃいますか?」
海色の応接室の中で、部長はソファに埋って、昨夜の不足な睡りを補っていた。
「あの、前川ですが……」
「うう、……ああ、あんたかね。さ、其処(そこ)へ掛けなさい。」
流れかかった涎(よだれ)を慌てて吸い上げると、部長は赤く禿あがった額をてれくさそうに永いこと拭いた。
「何か御用事でも……」
「今、今話すがね。まァ、悠(ゆっ)くりと寛いだ方がいいじゃないですか。
「そう。昼休みに見てこう。」
「あら、私もね。」
「桂子さんが慌ててるよ。チェッだ。」
「ハッハッハッハッ……」
笑い声が帯紙を吹きとばす。
「……こんな恰好の青い瓶に入ってるの。」
利札を切りかけで、真白になったテーブルの紙埃を掻き分けて、人差指が熱心に動いている。
「フン、ほんとに利くかしら?」
「それァね。一寸値が張るけど。でもね、余り使い過ぎるとほんとの***になっちゃうって……」
「加減しなきゃ駄目ね。」
「で、あんたその男にまいっちゃってるんでしょ?」
「とてもよ。そいでね、私、昨日逢った時思い切って云ってやったの。――私、あんたがとても好きなんです、ってね。その後が勇敢よ。接吻しちゃったんだもの。」
「あんたがその人に?」
「もち、愕(おどろ)いた?」
「別に……」
「じゃこの次は何時(いつ)にしましょうか、あんたの都合は?」
「そうね、次の日曜にでもみんなに集まって頂いたら。余り長びくと折角の気が脱けてしまうわ、それに、もう基礎工事もすんだからこれから人をまとめるのが目的でしょう、その意味でも、なる可くチャンスを見付けて集まる工夫をしなくちゃね。今日中に連絡をとって、みんなに知らせておきましょうね、あんた、調査や庶務の方を受持って下さる?」
「ええ、いいわ、……一階(みせ)の給仕があんたを呼んでるわよ。ほら……」
「何かしら?」
ひそめた眉をその儘、槇子は椅子を立ち上った。
「ああ貴方前川さんですか、あのね、部長がお呼びですよ。」
男の声に愕いて、いろンな眼が振り返る。
「じやァね。直ぐですよ。」
「ええ……」
失望した顔が一ツ一ツ元の位置へ戻っていった。
「何用かしら?」
テーブルの利札を整理し乍ら、槇子は首を傾けた。
「部長の呼び出しなんて……」
祥子は、債券の額面をグット睨んで、「もしかしたら、感付かれたんじやない?」
「此処(ここ)でやってる運動(しごと)のこと? まさか、そんなことじゃァないわ。だったとしたら、どんな方法で……」
「ともかく……これ……」
祥子の拳が唇へ大きな栓をした。
「フん。」
槇子は強い合点をすると、その儘相手へ背をみせてドアを出て行った。
人気のない廊下を草履がパタパタ反響していく。
――若しこの呼び出しが警戒に価するものなら……
エレヴェタアに乗って、小さい室内灯(ルームライト)を睨み上げている自分の生真面目な顔を細い鏡の中に発見して、槇子は思わず噴き出してしまった。余り神経質すぎる自分を、肚(はら)の中で蹴とばした。
――頑張れるだけ頑張る迄さ――
一階(みせ)は相変らず男達の体臭で充満していた。出納の記帳台に納っていた白板(パイパン)面が、係長の眼を盗んで槇子へ下手くそなウインクを送ってよこした。その歪んだのし餅みたいな顔を、彼女は鼻の先きで突き刺してやった。
スチームへ尻をあてがって新聞を読んでいた預金部長の禿(はげ)は、眼鏡越しにギロリと彼女を覗き、直ぐに不躾(ぶしつけ)を取り戻すかのように、めめずのような笑皺を泥色した唇の周りへ匍(は)わせた。
男達は、各々の勤勉さを害ねない程度に、槇子への秋波を怠らなかった。丁度、交尾期の雄犬が、その鋭い嗅覚で雌犬の存在を知るように、行手では、どの男もどの男も顔をあげて彼女を迎えた。
証券部長は一階の席にいなかった。
給仕の知らせで、槇子は、正面の羅紗張りのドアを押した。後で、男達の囁きが起った。
「あの、お呼びでいらっしゃいますか?」
海色の応接室の中で、部長はソファに埋って、昨夜の不足な睡りを補っていた。
「あの、前川ですが……」
「うう、……ああ、あんたかね。さ、其処(そこ)へ掛けなさい。」
流れかかった涎(よだれ)を慌てて吸い上げると、部長は赤く禿あがった額をてれくさそうに永いこと拭いた。
「何か御用事でも……」
「今、今話すがね。まァ、悠(ゆっ)くりと寛いだ方がいいじゃないですか。
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