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美術学校時代 - 高村 光太郎 ( たかむら こうたろう )

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  • ◇美術【現代美術の社会学入門】荒川修作 美術館 ギャラリー
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  • 染付八卦賢人文支那皿 骨董品 古美術品 陶磁器 中国美術 飾皿
  • 書籍●日本現代美術 工芸● 骨董 古美術 魯山人 平田郷陽 大型本
  • 【 中学校 美術 2 3 】 日本文教出版 美術813 814 上下2冊セット
  • 美術手帖 1981年1月号 特集80年代美術
  • 【美術全集】原色日本の美術 全30巻セット 小学館版
  • 日本の美術16 「小袖と能衣装」 平凡社 着物 本 美術 工芸
  • 中古■『シカゴ美術館 中国美術名品展』1989年■F
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 僕は江戸時代からの伝統総領親父職業を継ぐというのは昔から極っていたので、子供の時から何を職業とするかということについて迷ったことはなかった。美術学校にも自然に入ってしまった。二重橋前楠公銅像出来上ったのは明治二十六年頃で僕が十一歳の時であり、美術学校に入ったのは明治三十年の九月だったから齢(とし)でいえば十五歳であった。
 その頃の世の中は学校規則なども非常に楽なもので、願書の上でだけ何歳と書いておけば入学出来たので、早い方が良いということから歳の多い者の中に子供みたいな僕が飛込んでしまった。その頃の美術学校制服というのはちょうど王朝時代着物のような、上着紺色闕腋(けってき)で、頭には折烏帽子(おりえぼし)を被(かぶ)り、下には水浅葱(みずあさぎ)色の段袋を穿(は)くという、これはすべて岡倉覚三先生趣味から来たものであったが、どうも初めそれを着るのが厭(いや)で気羞(きはず)かしくて往来を歩けないような気がしたのであった。その頃はいつも絣(かすり)の着物小倉の袴(はかま)を着けて居ったので、この初めの制服は何となく厭でならなかった。
 それに代って洋服制服出来たのは僕が三年生の時で、何でも正木直彦先生校長になって以来今の制服になったように記憶する。
 当時の美術学校は始めの一年予科本科が四年、五年で卒業ということになっていた。始めの一年予科は皆おなじ学習をやり、その一年間やった学習の中で自分の気にいった科を選んで本科に入る。それから後四年間やって卒業するのである。僕は洋画の方はやらないで日本画をやらせられた。それから彫刻をやった。予科のうちは方々の教室に入って日本画もやり彫刻もやるという風であった。
 その当時の日本画科の先生には橋本雅邦川端玉章、川崎千虎、荒木寛畝(今の十畝さんのお父さんそれから小堀鞆音等がいた。彫刻の方では僕の親父高村光雲、外に石川光明竹内久一両先生、この三人くらいであった。木彫の方には助教授の林美雲先生などが居られた。僕は日本画の方で臨画ばかりやらされていた。つまり以前からの学校の御手本であり、これは岡倉先生趣味に合ったものばかりで南画系統のものは無く北画ばかりであった。それを先ず一年勉強すると今度は彫刻科にいって木彫を主としてやるようになった。
 学校では親父石川先生などが相談して、やはり昔からの木彫の順序立ったやり方を教える。地紋、肉合(ししあ)い、浮彫、丸彫等と二年間くらいはそれを教えられる。小刀の使い方なども覚える。僕もその通りをやっていたが、早くから自分のやっていたことなので、学校といっても唯自分の家の延長のようなもので別段かわったところでも何でもなかった。
 この彫刻の同級にいた人で今特に記憶しているのは水谷鉄也君といって片瀬乃木大将銅像を作った人、後藤良君も木彫で仲間であったが、その他の人はよく判らなくなってしまった。僕の一年前には武石弘三郎君という人が居り、そのもっと前には渡辺長男君という人が居た。こういう人達と三年位までは特に変ったこともなく、先ず当然のことを無事にやって居ったのである。またその時分の学科といえば黒川真頼日本歴史詩人本田種竹という人が通鑑の講義をして居った。森鴎外先生美学の方をやり、久米桂一郎先生解剖学を受持たれた。その学科というものはひどく簡単でほんの申訳みたようなものだったので、僕は馬鹿馬鹿しくて自分勉強した。試験の時百二十点貰ったことがある。大村西崖先生の時だったが、日常自分で読んでいるものが試験に出てくるのだからそんなことになるのだろう。随分のんきな時代であった。
 ちょうど明治さかんな頃のこととて世の中はどんどん進んでくる。僕たち青年の眼には庭の色までもまるで毎日変化し、生き生きとして見えるようであった。そういう時代には何でも実に面白かったし、僅かな間ではあるが朝から晩まで実際大へんな勉強をしたものだった。当時はまだ電灯はなくて蝋燭(ろうそく)やランプで、ランプも昔は五分|芯(しん)三分芯などがあったが改良されて芯を丸くした空気ランプというのが出来、それが非常に明るいのでそれを使って一生懸命勉強した。ホヤのついた西洋蝋燭行灯(あんどん)みたようなものもあって、これはお客様用に使ったりしていた。
 僕の住居は矢張り今の林町だったが、まだあの辺一帯は田畑や竹藪(たけやぶ)で道の両側は孟宗竹(もうそうちく)が密生していた。あの辺は江戸時代からお茶の畑が多く、今でも地つづきに武蔵狭山というお茶の名産地が残っている程である。そんなわけで所々に家があり、家と家との間は殆んど茶畑であった。学校にも近いので都合はよかったが、あの団子坂などが昔は随分と急な坂で人力車などは上ることが出来なかった。ようやく上っても今度は下りる時には止まらない。命がけで上ったり下りたりするような坂であった。下の谷中道の両側はずっと田圃(たんぼ)になっており、山岡鉄舟全生庵等があった。毎年秋になると団子坂菊人形で賑(にぎ)わった。森鴎外先生はその頃から団子坂上の藪下という所に居られて馬に跨(またが)って通って居られるのを見かけた。鴎外先生という人は講義をする時でも何時でも、始終笑顔一つしないでむずかしい顔をしていたので、鴎外先生というと無闇に威張って怖い顔をしている先生と思っていた。年中軍服サーベルを着け凡(およ)そ二年間美学講義をせられたが、学年の終りに生徒に向い、今日まで教えたことについて分らない所があったら何んでもよいから質問をするようにということであった。
 みんなはそれぞれと質問をし、疑問の点を尋ねた。その時に生徒一人が、先生仮象というのは何ですかと言い出した。


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