老中の眼鏡 - 佐々木 味津三 ( ささき みつぞう )
一
ゆらりとひと揺(ゆ)れ大きく灯(ほ)ざしが揺れたかと見るまに、突然パッと灯(あか)りが消えた。奇怪な消え方である。
「……?」
対馬守(つしまのかみ)は、咄嗟(とっさ)にキッとなって居住いを直すと、書院のうちの隅(すみ)から隅へ眼を放ち乍(なが)ら、静かに闇(やみ)の中の気配を窺(うかが)った。
――オランダ公使から贈られた短銃(たんづつ)も、愛用の助広(すけひろ)もすぐと手の届く座右(ざう)にあったが、取ろうとしなかった。刺客(しかく)だったら、とうに覚悟がついているのである。
だが音はない。
呼吸のはずみも殺気の取(うご)きも、窺い寄っているらしい人の気配も何一つきこえなかった。
しかし油断はしなかった。――少くも覚悟しておかねばならない敵は三つあるのだ。自分が井伊大老の開港政策を是認し踏襲(とうしゅう)しようとしているために、国賊と罵(ののし)り、神州を穢(けが)す売国奴と憤(いきどお)って、折あらばとひそかに狙っている攘夷(じょうい)派の志士達は勿論(もちろん)その第一の敵である。開港政策を是認し踏襲しようとしており乍ら倒れかかった江戸大公儀を今一度支え直さんために、不可能と知りつつ攘夷の実行を約して、和宮(かずのみや)の御降嫁(ごこうか)を願い奉った自分の公武合体の苦肉の策を憤激している尊王派の面々も、無論忘れてならぬ第二の敵だった。第三は頻々として起る外人襲撃を憤って、先日自分が声明したあの言質に対する敵だった。
「公使館を焼き払い、外人を害(あや)めて、国難を招くがごとき浪藉(ろうぜき)を働くとは何ごとかっ。幕政に不満があらばこの安藤を斬れっ。この対馬を屠(ほふ)れっ。それにてもなお憤りが納まらずば将軍家を弑(しい)し奉ればよいのじゃ。さるを故なき感情に激して、国家を危(あや)うきに導くごとき妄動(もうどう)するとは何事かっ。閣老安藤対馬守、かように申したと天下に声明せい」
そう言って言明した以上は、激徒が必ずや機を狙っているに違いないのだ。――刺客としたら言うまでもなくそのいずれかが忍び入ったに相違ないのである。
対馬守は端然として正座したまま、潔よい最期(さいご)を待つかのように、じいっと今一度闇になった書院の中の気配を窺った。
だがやはり音はない。
「誰(た)そあるか」
失望したような、ほっとなったような気持で対馬守は、短銃と一緒にオランダ公使が贈ったギヤマン玉の眼鏡をかけ直すと、静かに呼んで言った。
「道弥(みちや)はおらぬか。灯りが消えたぞ」
「はっ。只今持参致しまするところで厶(ござ)ります」
応じて時を移さずに新らしい短檠(たんけい)を捧げ持ち乍ら、いんぎんにそこへ姿を見せたのは、お気に入りの近侍(きんじ)道弥ならで、茶坊主の大無(たいむ)である。
「あれは、道弥はおらぬと見えるな。もう何刻頃であろう喃(のう)?」
「只今四ツを打ちまして厶ります」
「もうそのような夜更(よふ)けか。不思議な消え方を致しおった。よく調べてみい」
「……?」
「首をひねっておるが、何としてじゃ」
「ちといぶかしゅう厶ります。油も糸芯も充分厶りますのに――」
「喃!……充分あるのに消えると申すは不思議よ喃。もし滅火の術を用いたと致さば――」
「忍びの術に達した者めの仕業(しわざ)で厶ります」
「そうかも知れぬ。伊賀流のうちにあった筈(はず)じゃ。そう致すと少し――」
「気味のわるいことで厶ります。御油断はなりませぬぞ」
「…………」
「およろしくば?」
「何じゃ」
「さそくに宿居(とのい)の方々へ御注進致しまして、取急ぎ御警固の数(すう)を増やすよう申し伝えまするで厶りますゆえ、殿、御意(ぎょい)は?」
「…………」
「いかがで厶ります。およろしくば?」
「騒ぐまい。行けい」
「でも――」
「国政多難の昨今、廟堂(びょうどう)に立つものにその位の敵あるは当り前じゃ。行けい」
秋霜烈日(しゅうそうれつじつ)とした声だった。
斥(しりぞ)けて対馬守は眼鏡をかけ直すと、静かに再び書見に向った。――読みかけていた一書は蕃書取調所(ばんしょとりしらべじょ)に命じて訳述させた海外事情通覧である。
しかしその半頁までも読まない時だった。じいじいと怪しく灯ざしが鳴いたかと見るまに、またパッと灯りが消えた。同時に対馬守は再びきっとなって居住いを直すと、騒がずに気配を窺った。
だがやはり音はない。息遣いも剣気も、刺客の迫って来たらしい気配は何一つきこえないのである。
「大無! 大無! また消えおったぞ」
「はっ。只今! 只今! 只今新らしいお灯り持ちまするで厶ります。――重ね重ね奇態で厶りまするな」
「ちと腑(ふ)におちぬ。油壷予に見せい」
覗(のぞ)いた対馬守の面(おもて)は、まもなく明るい笑顔に変った。消えた理由も、燃えない仔細も忽(たちま)ちすべての謎が解けたからである。
「粗忽者(そこつもの)共よ喃。
「……?」
対馬守(つしまのかみ)は、咄嗟(とっさ)にキッとなって居住いを直すと、書院のうちの隅(すみ)から隅へ眼を放ち乍(なが)ら、静かに闇(やみ)の中の気配を窺(うかが)った。
――オランダ公使から贈られた短銃(たんづつ)も、愛用の助広(すけひろ)もすぐと手の届く座右(ざう)にあったが、取ろうとしなかった。刺客(しかく)だったら、とうに覚悟がついているのである。
だが音はない。
呼吸のはずみも殺気の取(うご)きも、窺い寄っているらしい人の気配も何一つきこえなかった。
しかし油断はしなかった。――少くも覚悟しておかねばならない敵は三つあるのだ。自分が井伊大老の開港政策を是認し踏襲(とうしゅう)しようとしているために、国賊と罵(ののし)り、神州を穢(けが)す売国奴と憤(いきどお)って、折あらばとひそかに狙っている攘夷(じょうい)派の志士達は勿論(もちろん)その第一の敵である。開港政策を是認し踏襲しようとしており乍ら倒れかかった江戸大公儀を今一度支え直さんために、不可能と知りつつ攘夷の実行を約して、和宮(かずのみや)の御降嫁(ごこうか)を願い奉った自分の公武合体の苦肉の策を憤激している尊王派の面々も、無論忘れてならぬ第二の敵だった。第三は頻々として起る外人襲撃を憤って、先日自分が声明したあの言質に対する敵だった。
「公使館を焼き払い、外人を害(あや)めて、国難を招くがごとき浪藉(ろうぜき)を働くとは何ごとかっ。幕政に不満があらばこの安藤を斬れっ。この対馬を屠(ほふ)れっ。それにてもなお憤りが納まらずば将軍家を弑(しい)し奉ればよいのじゃ。さるを故なき感情に激して、国家を危(あや)うきに導くごとき妄動(もうどう)するとは何事かっ。閣老安藤対馬守、かように申したと天下に声明せい」
そう言って言明した以上は、激徒が必ずや機を狙っているに違いないのだ。――刺客としたら言うまでもなくそのいずれかが忍び入ったに相違ないのである。
対馬守は端然として正座したまま、潔よい最期(さいご)を待つかのように、じいっと今一度闇になった書院の中の気配を窺った。
だがやはり音はない。
「誰(た)そあるか」
失望したような、ほっとなったような気持で対馬守は、短銃と一緒にオランダ公使が贈ったギヤマン玉の眼鏡をかけ直すと、静かに呼んで言った。
「道弥(みちや)はおらぬか。灯りが消えたぞ」
「はっ。只今持参致しまするところで厶(ござ)ります」
応じて時を移さずに新らしい短檠(たんけい)を捧げ持ち乍ら、いんぎんにそこへ姿を見せたのは、お気に入りの近侍(きんじ)道弥ならで、茶坊主の大無(たいむ)である。
「あれは、道弥はおらぬと見えるな。もう何刻頃であろう喃(のう)?」
「只今四ツを打ちまして厶ります」
「もうそのような夜更(よふ)けか。不思議な消え方を致しおった。よく調べてみい」
「……?」
「首をひねっておるが、何としてじゃ」
「ちといぶかしゅう厶ります。油も糸芯も充分厶りますのに――」
「喃!……充分あるのに消えると申すは不思議よ喃。もし滅火の術を用いたと致さば――」
「忍びの術に達した者めの仕業(しわざ)で厶ります」
「そうかも知れぬ。伊賀流のうちにあった筈(はず)じゃ。そう致すと少し――」
「気味のわるいことで厶ります。御油断はなりませぬぞ」
「…………」
「およろしくば?」
「何じゃ」
「さそくに宿居(とのい)の方々へ御注進致しまして、取急ぎ御警固の数(すう)を増やすよう申し伝えまするで厶りますゆえ、殿、御意(ぎょい)は?」
「…………」
「いかがで厶ります。およろしくば?」
「騒ぐまい。行けい」
「でも――」
「国政多難の昨今、廟堂(びょうどう)に立つものにその位の敵あるは当り前じゃ。行けい」
秋霜烈日(しゅうそうれつじつ)とした声だった。
斥(しりぞ)けて対馬守は眼鏡をかけ直すと、静かに再び書見に向った。――読みかけていた一書は蕃書取調所(ばんしょとりしらべじょ)に命じて訳述させた海外事情通覧である。
しかしその半頁までも読まない時だった。じいじいと怪しく灯ざしが鳴いたかと見るまに、またパッと灯りが消えた。同時に対馬守は再びきっとなって居住いを直すと、騒がずに気配を窺った。
だがやはり音はない。息遣いも剣気も、刺客の迫って来たらしい気配は何一つきこえないのである。
「大無! 大無! また消えおったぞ」
「はっ。只今! 只今! 只今新らしいお灯り持ちまするで厶ります。――重ね重ね奇態で厶りまするな」
「ちと腑(ふ)におちぬ。油壷予に見せい」
覗(のぞ)いた対馬守の面(おもて)は、まもなく明るい笑顔に変った。消えた理由も、燃えない仔細も忽(たちま)ちすべての謎が解けたからである。
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