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老子化胡経 - 桑原 隲蔵 ( くわばら じつぞう )

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  • 即決▲絶版▲希少▲『老子と現代物理学の対話』長谷川晃/著
  • 時代屋 久谷 色絵金彩 老子 水指 茶道具
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老子化胡經 桑原隲藏          一  如何なる宗教でも、他の國民の間に傳播して行く際には、その國民の有して居つた舊信仰衝突するものである。佛教支那に東漸してから、支那人固有の道教儒教衝突した。殊に道教とは尤も長く尤も激しく衝突した。
 佛教支那に將來されたのは、普通東漢明帝永平十年(西暦六七)の頃と認められ、『漢法本内傳』(唐の智昇の『續集古今佛道論衡』引く所による)によると、その後ち間もなく永平の十四年に、五嶽の同士等佛教の弘布を憤り、道士の重なる者六百九十人上表して佛僧と術を角せんことを願ひ出た。その結果勅命で國都洛陽の西郊の白馬寺南門外に壇を築き、壇上に道經を積み火を放つた所が、道士等の祕術を盡したにも拘らず、道經は悉く焚け盡し、術に破れたる道士等は悉く出家して佛門に歸したと記載してある。これが道佛二教衝突の發端といふことで、あらゆる佛教歴史引用されて居る。又河南白馬寺へ往くと、白馬寺の六景と稱するものがあつて、その第二を焚經臺といひ、即ち漢代に道經を焚いた舊蹟と傳へてゐる。吾が輩の河南旅行の際は、前程を急ぎしこととて、所謂焚經臺を親覩せなんだが、勿論後世の附會で信憑するに足らぬ。『漢法本内傳』といふ書は、南北時代から存在はするが、對道教的のもので、餘り信用することが出來ぬ。當時の事情からいうても、新來※々の佛教に弘布の餘裕なく、從つて五嶽道士衝突する筈もない。第一その當時已に所謂道士なるものが存在したかが疑問である。要するに東漢永平年間に於ける道佛二教の衝突は、到底事實として認めることが出來ぬ。
 東漢の末から三國時代にかけて、一方では佛教が漸く民間に流通するし、又一方では道教が次第に組織されるに從ひ、始めて道佛の衝突が起り、兩晉・南北朝・隋・唐時代は申すに及ばず、宋・元時代までかけて、絶えずこの兩教は衝突した。支那佛教にとつて、道教第一の法敵であつた。佛家で三武の厄と稱する、佛教に尤も激しき迫害を加へた帝王は、何れ道教信者である。即ち第一北魏太武帝道士寇謙之信用して佛教迫害を加へた。北周武帝佛教迫害したが、これは道士の張賓や衞元嵩に聽いた結果である。唐の武宗道士の趙歸眞を信じて、寺院を破壞し僧侶還俗せしめた。『佛道論衡』とか『弘明集』『廣弘明集』などを見ると、南北朝・隋・唐時代に於ける道佛二教の衝突の有樣はよく判然するが、この間に在つて何時も爭論の中心となり、尤も舞臺を賑はしたのは『老子化胡經』即ち略稱の『化胡經』である。『老子化胡經』の來歴は、やがて道佛二教の衝突小史である。

         二

老子化胡經』とは、老子西域印度へ出掛けて、幾多の胡國を教化したことを書いたもので、西晉の惠帝の頃に、道士の王浮(或は王符に作る)といふ者の僞作に係る。王浮がこの書を僞作するに至つたには相應の由來がある。
第一) 一體老子の學説は頗る印度色彩を帶びて居る。老子の學説を波羅門哲學と對比すると、兩者の間に尠からざる類似がある。故に歐洲の學者は多く老子印度影響受けたものと信じて居る。甚しきは老子その人も印度より支那移住して來たものとさへ信じて居る。有名フランス支那學者 Pauthier などは、六七十年から以前に已にこの説を唱へて居り、支那西方との古代文化の關係を研究目的として居つた Lacouperie は、尤も熱心に老子印度人たるべきを主張して居る。現代支那學者では、ドイツの Hirth 氏なども餘程この説に傾いて居る。兎も角も老子印度臭い、彼の學説には幾分佛教の教理とも相通ずべき點の存するといふことが、『老子化胡經』の作者の附け目である。
(第二) 老子はもと周に仕へたが、世の衰ふるを見て官を捨て、西方に出掛けたといふ傳説がある。『史記』の老莊申韓傳を見ると、老子はその晩年に關を出でて莫知其所終と載せてある。單に關とあつては不明なれど、『史記正義』には散關と註す。散關は長安古都より四百〔支那〕里餘西に當つて、今の陝西省鳳翔府寶※縣に在る。或は函谷關といふ説もある。函谷關は今の河南省河南府靈寶縣に在つて、洛陽古都より西四百〔支那〕里に當つて居る。何れにしても老子東周の都から西方に出掛けたので、『正義』によつて散關を出たとすると、或は遠く西域地方へ出掛けたものと想像すべき餘地もあるやうで、殊に莫知其所終の一句は、遠く往つて再び支那に歸らぬやうに聞えて、老子西域行に附會するに誠に都合が好い。それで西漢の末頃から、老子は遠く流沙の西に出掛けたといふ傳説があつた。漢の劉向の作といふ『列仙傳』に、その事を載せてあつたといふが、本書が今日に傳らぬから、眞僞如何は斷言が出來ぬ。
(第三) 『後漢書』卷六十下の襄楷傳によると、襄楷は當時の天子桓帝に上書して時事を論じたが、その書中に、

或言老子入夷狄爲浮屠。

とあるから、東漢の末に已に化胡の説の行はれたことが明かである。桓帝の時は佛教漸く流通し、殊に桓帝は老佛に歸依して、宮中に二者を併せ祀つた故に、當時老子に左袒する人は、かかる説を唱へて、暗に佛教を抑へたものと見える。また曹魏の魚豢の『魏略』(『三國志』の魏志東夷傳の註に引く所による)には、

浮屠所載與中國老子經相出入。蓋以爲老子西出關。過西域。之天竺。教胡浮屠。

と記して、老子化胡の説を尤も分明に表示して居る。化胡説の流行と共に、佛道二教の爭の漸く激烈を加へたことは申す迄もない。『老子化胡經』の僞作者王浮は、是等の説を繼承し、又利用したのである。老子の學説は佛説と似て居る所があり、老子晩年に中國を後に西方に往つたといふ傳説もあり、殊に老子天竺に往つて佛教を唱へたといふ説も行はれて居ること故、之を大成して『老子化胡經』を作つたのである。


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