臨時急行列車の紛失 - ドイル アーサー・コナン ( ドイル アーサー・コナン )
コナン・ドイル
新青年編輯局訳
はしがき
死刑を宣告されて今マルセイユ監獄に繋がれているヘルバルト・ドゥ・レルナークの告白は、私の信ずるところでは、どこの国の犯罪史を繙(ひもと)いてみても、絶対的に先例が無かっただろう‥‥‥と思われるような、あの異常な事件の上にようやく一道の光明を投げあたえた。官辺では、この事件を論ずることを明らかに避けているけれど、そして新聞もそれに調子を合せてほとんど沈黙を守っているけれど、とにかく我々は、この大犯罪者の告白によって、一つの驚嘆すべき事件の謎が解かれたものと見なければならない。その事件とは、今から八年も前に起った出来事でもあり、かつ、当時はある外交上の危機がわが英国民の注意を一せいに呼集めていた秋(とき)だったため、事件の重大な割合には、人々に感動を与えることが薄かったという事情もあるので、従って、記者がその事件について、集めた材料から知り得た限りの確実さをもって、ここにその顛末を述べるのも無駄ではないと信ずる次第だ。
一
千九百――年。それは六月三日のことだった。一人の旅客が――ルイ・カラタール氏という仏蘭西(フランス)名の紳士――リヴァプール港にある倫敦(ロンドン)西海岸線中央停車場の駅長ジェームス・ブランド氏に面会を求めた。旅客は小柄な中年の紳士で、その妙に猫脊のところが、見るからに脊髄骨の不具であることを物語っていた。その紳士にはひとりの連れがあった。それは骨組のがっしりした堂々たる男だった。が、その男のいかにも恭(うやうや)しげな態度と、絶えずあたりに眼をくばっている様子とで、彼が紳士の従者であることが読まれた。こころもち黒みがかった皮膚の色合では、おそらくスペイン人か南アメリカ人だろうと想像された。見れば、そこには一つの不思議なことがあった。小型の黒革製の文書袋をこの男が左手(ゆんで)に携えていたのだ、そして、それは居合せた一人の事務員の鋭い観察眼によると、革紐で自分の手頸(てくび)にしっかりと結びつけられてあったのだ。この事実は、その時には決して重大なことには見えなかった。が、やがて展開されるべき未曾有の出来事は、その中(うち)にきわめて深長な意義を持っていたのであった。カラタール氏は駅長室に案内された。その間この供の男は室の外に待っていた。
カラタール氏は今日の午後、中部|亜米利加(アメリカ)から入港したばかりであるが、緊急な事件が突発したため、一分も猶予することなく至急|巴里(パリー)まで帰らなければならなくなった。ところが彼は倫敦(ロンドン)行の急行に乗遅れてしまったのだ。そこで臨時急行列車を仕立てさせて飛んで行くほかはない。金は問題ではない、時間こそ凡(すべ)てである――と云った。
駅長のブランド氏は電鈴(ベル)を押して運輸課長のポッター・フード氏を呼んだ。そして五分間内に手筈をことごとく整えさせた。別仕立の列車は四十五分以内に出発させることが出来る。前路の障害なきを期するため、それだけの時間は絶対的に必要なのだ。二輌の客車が、後部に車掌乗用車を添えて、強力な機関車に牽引されることになった。第一の客車は、単に振動を少なくする目的のために着けられた。第二の客車は、例によって、一等室と一等喫煙室、二等室と二等喫煙室という四室に区劃(くぎ)られていた。その機関車に近い方の第一室が、二人の旅客のために用意された客車で、他の三室は空だった。車掌としてジェームス・マックファースンが、火夫としてはウィリアム・スミスがそれぞれ乗込むことになった。
カラタール氏は、一|哩(マイル)について五|志(シルリング)という規定の特別乗車賃の割合で、総額五十|磅(ポンド)五|志(シルリング)を支払うが早いか、あくあくしながら、例の連れの男を促して、まだ三十分はたっぷり間があろうというに、はや仕立てられた客車に乗込んで定めの室に席を占めた。
ところがカラタール氏が駅長室から出て行ったのと、ほとんど入替(いれかわり)に、ホレース・ムーアと名のる一見軍人風の紳士が慌ててそこへ入って来た。彼は倫敦(ロンドン)にいる自分の妻が危篤のために、上京するべく今は一瞬間も失ってはならないというのだ。奇妙な偶然である。真に偶然である。その紳士の心配そうな顔を見ては、駅長も心から出来るだけの便宜をはかってやりたいと思った。といって、更に第二の特別列車を仕立ることは、もちろん問題にならなかった。そこには、しかし、ただ一つの択(えら)ぶべき方法がある。カラタール氏の乗車賃を分担して、その臨時列車の空(す)いた室を譲ってもらうことである――カラタール氏さえ承諾してくれるなら。
が、そのような申出(もうしで)に対して不服を言う人はまず無いだろう。けれども、カラタール氏はそうではなかった。彼は何故(なにゆえ)か絶対的に相客のあることを拒んだ。一たん買切った以上は、列車は自分の専用であると素気(すげ)なく刎ねつけたのである。
ホレース・ムーアは、自分の採るべき唯一の方法が、夕方の六時にリヴァプール発の普通列車に乗るより外(ほか)にないことを知って、極度の困惑の色を面(おもて)に表わしながら停車場を出て行った。停車場の時計でまさに午後四時三十一分、臨時列車は、佝僂(せむし)のカラタール氏と巨人のような従者とを載せ、白い湯気を吐いてリヴァプール駅を発車した。マンチェスター駅まではひた走りに走ることが出来るはずだった。六時前に早くもその大停車場に到着する予定をもって。
午後六時を過ぎること十五分。リヴァプール駅の事務員達は、マンチェスター駅から、臨時急行列車が今もって到着しないが、という電信を受取って非常に驚いてしまった。とりあえず、マンチェスター駅よりは三分の一ほど手前のセント・ヘレンス駅へ問合せの電信をうってみると、次のような返電があった――
『リヴァプール駅長ジェームス・ブランドへ、――臨列、遅刻なく四時五十二分当駅通過、――セント・ヘレンス、ダウサー。
一
千九百――年。それは六月三日のことだった。一人の旅客が――ルイ・カラタール氏という仏蘭西(フランス)名の紳士――リヴァプール港にある倫敦(ロンドン)西海岸線中央停車場の駅長ジェームス・ブランド氏に面会を求めた。旅客は小柄な中年の紳士で、その妙に猫脊のところが、見るからに脊髄骨の不具であることを物語っていた。その紳士にはひとりの連れがあった。それは骨組のがっしりした堂々たる男だった。が、その男のいかにも恭(うやうや)しげな態度と、絶えずあたりに眼をくばっている様子とで、彼が紳士の従者であることが読まれた。こころもち黒みがかった皮膚の色合では、おそらくスペイン人か南アメリカ人だろうと想像された。見れば、そこには一つの不思議なことがあった。小型の黒革製の文書袋をこの男が左手(ゆんで)に携えていたのだ、そして、それは居合せた一人の事務員の鋭い観察眼によると、革紐で自分の手頸(てくび)にしっかりと結びつけられてあったのだ。この事実は、その時には決して重大なことには見えなかった。が、やがて展開されるべき未曾有の出来事は、その中(うち)にきわめて深長な意義を持っていたのであった。カラタール氏は駅長室に案内された。その間この供の男は室の外に待っていた。
カラタール氏は今日の午後、中部|亜米利加(アメリカ)から入港したばかりであるが、緊急な事件が突発したため、一分も猶予することなく至急|巴里(パリー)まで帰らなければならなくなった。ところが彼は倫敦(ロンドン)行の急行に乗遅れてしまったのだ。そこで臨時急行列車を仕立てさせて飛んで行くほかはない。金は問題ではない、時間こそ凡(すべ)てである――と云った。
駅長のブランド氏は電鈴(ベル)を押して運輸課長のポッター・フード氏を呼んだ。そして五分間内に手筈をことごとく整えさせた。別仕立の列車は四十五分以内に出発させることが出来る。前路の障害なきを期するため、それだけの時間は絶対的に必要なのだ。二輌の客車が、後部に車掌乗用車を添えて、強力な機関車に牽引されることになった。第一の客車は、単に振動を少なくする目的のために着けられた。第二の客車は、例によって、一等室と一等喫煙室、二等室と二等喫煙室という四室に区劃(くぎ)られていた。その機関車に近い方の第一室が、二人の旅客のために用意された客車で、他の三室は空だった。車掌としてジェームス・マックファースンが、火夫としてはウィリアム・スミスがそれぞれ乗込むことになった。
カラタール氏は、一|哩(マイル)について五|志(シルリング)という規定の特別乗車賃の割合で、総額五十|磅(ポンド)五|志(シルリング)を支払うが早いか、あくあくしながら、例の連れの男を促して、まだ三十分はたっぷり間があろうというに、はや仕立てられた客車に乗込んで定めの室に席を占めた。
ところがカラタール氏が駅長室から出て行ったのと、ほとんど入替(いれかわり)に、ホレース・ムーアと名のる一見軍人風の紳士が慌ててそこへ入って来た。彼は倫敦(ロンドン)にいる自分の妻が危篤のために、上京するべく今は一瞬間も失ってはならないというのだ。奇妙な偶然である。真に偶然である。その紳士の心配そうな顔を見ては、駅長も心から出来るだけの便宜をはかってやりたいと思った。といって、更に第二の特別列車を仕立ることは、もちろん問題にならなかった。そこには、しかし、ただ一つの択(えら)ぶべき方法がある。カラタール氏の乗車賃を分担して、その臨時列車の空(す)いた室を譲ってもらうことである――カラタール氏さえ承諾してくれるなら。
が、そのような申出(もうしで)に対して不服を言う人はまず無いだろう。けれども、カラタール氏はそうではなかった。彼は何故(なにゆえ)か絶対的に相客のあることを拒んだ。一たん買切った以上は、列車は自分の専用であると素気(すげ)なく刎ねつけたのである。
ホレース・ムーアは、自分の採るべき唯一の方法が、夕方の六時にリヴァプール発の普通列車に乗るより外(ほか)にないことを知って、極度の困惑の色を面(おもて)に表わしながら停車場を出て行った。停車場の時計でまさに午後四時三十一分、臨時列車は、佝僂(せむし)のカラタール氏と巨人のような従者とを載せ、白い湯気を吐いてリヴァプール駅を発車した。マンチェスター駅まではひた走りに走ることが出来るはずだった。六時前に早くもその大停車場に到着する予定をもって。
午後六時を過ぎること十五分。リヴァプール駅の事務員達は、マンチェスター駅から、臨時急行列車が今もって到着しないが、という電信を受取って非常に驚いてしまった。とりあえず、マンチェスター駅よりは三分の一ほど手前のセント・ヘレンス駅へ問合せの電信をうってみると、次のような返電があった――
『リヴァプール駅長ジェームス・ブランドへ、――臨列、遅刻なく四時五十二分当駅通過、――セント・ヘレンス、ダウサー。
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