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自由画稿 - 寺田 寅彦 ( てらだ とらひこ )

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     はしがき  これからしばらく続けて筆を執ろうとする随筆断片の一集団に前もって総括的な題をつけようとすると存外むつかしい。書いてゆくうちに何を書くことになるかもわからないのに、もし初めに下手(へた)な題をつけておくとあとになってその題に気兼ねして書きたいことが自在に書けなくなるという恐れがある。それだから、いつもは、題などはつけないで書きたいことをおしまいまで書いてしまって、なんべんも読み返して手を入れた上で、いよいよ最後に題をきめて冒頭に書き入れることにしているのである。しかし今度は同じ題で数か月続けようとするのだから事情が少しちがって来る。もっとも、有りふれた「無題」とか「断片」とかいう種類のものにすればいちばん無難ではあるが、それもなんだかあまり卑怯(ひきょう)なような気がする。いろいろ考えているとき座右の楽譜の巻頭にあるサン・サーンの Rondo Capriccioso という文字が目についた。こういう題もいいかと思う。しかし、ずっと前に同じような断片群にターナーの画帖(がじょう)から借用した Liber Studiorum という名前をつけたことがあったが、それを文壇の某大家日刊新聞文芸時評で紹介してくれたついでに「こんなラテン語名前などつけるものの気が知れない」と言って非難されたことがあるので、今度もこうした名前慎むほうがよいであろうと思う。いろいろ考えた末に結局平凡な、表題のとおりの名前を選むことになってしまったわけである。全くむつかしいものである。
 この集の内容は例によって主として身辺|瑣事(さじ)の記録追憶やそれに関する瑣末(さまつ)の感想である。こういうものを書く場合何かひと言ぐらい言い訳のようなことをかく人も多いようである。考え方によればそれも必要かもしれない。しかし、いかなる個人でもその身辺にはいやでも時代背景控えている。それで一個人の身辺瑣事の記録には筆者の意識いかんにかかわらず必ず時代世相の反映がなければならない。また筆者の愚痴感想の中にも不可避的にその時代流行思想のにおいがただよっていなければならない。そういうわけであるから現代読者にはあまりに平凡尋常茶飯事(じんじょうさはんじ)でも、半世紀後の好事家(こうずか)には意外な掘り出し物の種を蔵しているかもしれない。明治時代の「風俗画報」がわれわれに無限資料を与え感興をそそるのもそのためであろう。ただし、そういう役に立つためには記録の忠実さと感想の誠実さがなければならないであろう。
 これが私の平生こうした断片的随筆書く場合のおもなる動機であり申し訳である。人にものを教えたり強(し)いたりする気ははじめからないつもりである。
 集中には科学知識を取り扱ったものも自然にしばしば出て来るかもしれない。しかしそれも決して科学知識の普及などということを目的として書くのではない。ただ自分ほんとうにおもしろいと感じたことの覚え書きか、さもなければ譬喩(ひゆ)か説明のために便利な道具として使うための借りものに過ぎない。しかし、そうかと言ってその結果がいくぶんか科学知識普及に役立つことになってもそれはさしつかえはないであろうと思っている。
 ついでながら、断片的な通俗科学読み物は排斥すべきものだというような事を新聞紙上で論じた人が近ごろあったようであるが、あれは少し偏頗(へんぱ)な僻論(へきろん)であると私には思われた。どんな瑣末(さまつ)な科学知識でも、その背後には必ずいろいろな既知の方則が普遍的な背景として控えており、またその上に数限りもない未知の問題胚芽(はいが)が必ず含まれているのである。それで一見いわゆるはなはだしく末梢的(まっしょうてき)な知識の煩瑣(はんさ)な解説でも、その書き方とまたそれを読む人の読み方によっては、その末梢的問題包含する科学大部門の概観が読者の眼界の地平線上におぼろげにでもわき上がることは可能でありまたしばしば実現する事実である。読者頭脳次第では、かなりつまらぬ科学記事からでもいろいろな重大問題の暗示を感知し発見し摂取し発展させることもしばしばあるのである。一方ではまた浅薄な概括的論述を羅列(られつ)した通俗科学読み物がはなはだしく読者をあやまるという場合もしばしばあるであろう。それで、ただ一概に断片的な通俗科学はいかなる場合でも排斥すべきものであるかのような感を読者にいだかせるような所説に対しては、少なくも若干の付加修正を必要とするであろうと思われた。この機会についでながら付記しておく次第である。


     一 腹の立つ元旦

 正月元旦(がんたん)というときっときげんが悪くなって苦(にが)い顔をして家族一同にも暗い思いをさせる老人があった。それは温厚篤実をもって聞こえた人で世間ではだれ一人非難するもののないほどまじめな親切な老人であって、そうして朝晩に一度ずつ神棚(かみだな)の前に礼拝し、はるかに皇城の空を伏しおがまないと気の済まない人であった。それが年の始めのいちばんだいじな元旦の朝となると、きまってきげんが悪くなって、どうかすると煙草盆(たばこぼん)の灰吹きを煙管(きせる)の雁首(がんくび)で、いつもよりは耳だって強くたたくこともしばしばあった。
 その老人のむすこにはその理由がどうしてもわからなかったのであったが、それから三十年たってその老人もなくなって後に、そのむすこが自分家庭をもつようになって、そうして生活もやや安定して来たころのある年の正月元旦(がんたん)の朝清らかな心持ちで起床した瞬間からなんとなく腹の立つような事がいろいろ目についた。きれいに片付いているべき床の間が取り散らされていたり、玄関障子が破けていたり、女中台所何か陶器を取り落としたような音を立てたり、平生なら別になんでもないことが、その元旦に限ってひどく気になり、不愉快になり、やがて腹立たしく思われて来るのであった。その一方ではまた、きょうは元旦だから腹を立てたりしてはいけないという抑制的心理が働いて来る、そうするとかえってそれを押し倒すような勢いで腹立たしさが腹の底から持ち上がって来るのであった。その瞬間にこの男は突然に、実に突然になくなった父のことを思い出してびっくりした。そうして、その瞬間にはじめて今までどうしてもわからなかった、昔の父の元旦の心持ちを理解することができたのである。
 それからまた数年たって後のことである。このむすこのむすこがある年の正月何かちょっとしたことがなるべきようになっていなかったと言ってひどくその母や女中に対しておこっているのをその父親発見してひどくびっくりし、そうしてまた非常に恐ろしくなったのだそうである。
 こういう話を聞いてひどく感心したことがある。つまらない笑い話のようで実はかなり深刻な人間心理の一面を暴露していると思う。こんなのも何か小説の種にはならないものかと思う。
 それはとにかく、正月をめでたいという意味子供の時分から私にはよくわからなかったが、年を取ってもやはりまだ充分にはわからない。少なくも自分場合では正月というととかくめでたからぬことが重畳して発生するように思われるのである。のみならず平日ならそれほどにも感じないような些細(ささい)なめでたからぬことが、正月であるがために特にふめでたに感ぜられる。これはおそらくだれでも同様に感じることであろう。たとえば小さい子供がおおぜいあるような家ではちょうど大晦日(おおみそか)や元日などによくだれかが風邪(かぜ)をひいて熱を出したりする。


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