船医の立場 - 菊池 寛 ( きくち かん )
一
晩春の伊豆半島は、所々(しょしょ)に遅桜(おそざくら)が咲き残り、山懐(やまぶところ)の段々畑に、菜の花が黄色く、夏の近づいたのを示して、日に日に潮が青味を帯びてくる相模灘が縹渺(ひょうびょう)と霞んで、白雲に紛(まぎ)れぬ濃い煙を吐く大島が、水天の際(きわ)に模糊(もこ)として横たわっているのさえ、のどかに見えた。
が、そうした風光のうちを、熱海から伊東へ辿る二人の若い武士は、二人とも病犬か何かのように険しい、憔悴(しょうすい)した顔をしていた。
二人は、頭を大束の野郎に結っていた。一人は五尺一、二寸の小男だった。顔中に薄い痘痕(あばた)があったが、目は細く光って眦(まなじり)が上り、鼻梁(はなばしら)が高く通って、精悍(せいかん)な気象を示したが、そのげっそりと下殺(しもそ)げした頬に、じりじり生えている髭(ひげ)が、この男の風采を淋しいものにした。一人は色の黒い眉の太い立派な体格の男だったが、憔悴していることは前者と異らない。
小男は、木綿藍縞(もめんあいじま)の浴衣(ゆかた)に、小倉の帯を締め、無地木綿のぶっさき羽織を着、鼠小紋の半股引(はんももひき)をしていた。体格の立派な方は、雨合羽(あまがっぱ)を羽織っているので、服装は見えなかった。
小男の方は、吉田|寅二郎(とらじろう)で、他の一人は同志の金子|重輔(じゅうすけ)であった。
二人は、三月の六日から十三日まで、保土ヶ谷に宿を取って、神奈川に停泊しているアメリカ船に近づこうとして昼夜肝胆を砕いた。
最初、船頭を賺(すか)して、夜中|潜(ひそ)かに黒船に乗り込もうとしたけれども、いざその場合になると、船頭|連(れん)は皆しりごみした。薪水(しんすい)を積み込む御用船に乗り込んで、黒船に近づこうとしたけれども、それも毎船|与力(よりき)が乗り込んで行くために、便乗する機会はなかった。
八日の日には、メリケン人が横浜村へ上陸したときいたので、かねて起草しておいた投夷書(とういしょ)を手渡す機会もと駆け付けたが、彼らはすでに船へ去って、メリケン人を見た村人たちのかまびすしい噂をきいただけだった。
九日の日は、金子重輔が舟がとにかく漕げるというのを幸いに、漁舟(ぎょしゅう)を盗んで、黒船へ投じようとした。が、昼間舟の在り処を見定めて、夜行って見ると、舟は何人(なんびと)かが乗り去ったとみえて影もなく、激しい怒涛が暗い岸の砂を噛んでいるだけだった。二人が、失望して茫然と立っていると、野犬が幾匹も集って来て、けたたましく吠えた。
「泥棒をするのが難しいことが、初めてわかったぜ」
勝気な寅二郎は、そういって笑ったが、雨が間もなく降り出し、保土ヶ谷の宿へ丑満(うしみつ)の頃帰ったときは、二人の下帯まで濡(ぬ)れていた。
十一日、十二日と二人は保土ヶ谷の宿で、悶々(もんもん)として過した。
十三日は空がよく晴れ、横浜の沖は、春の海らしく和(なご)み渡った。今夜こそと思っていると、朝四つ刻(どき)、黒船の甲板が急に気色(けしき)ばみ、錨を巻く様子が見えたかと思うと、山のごとき七つの船体が江戸を指して走り始めた。海岸警衛の諸役人が、すわやと思っていると、羽田沖で急に転回し、外海(そとうみ)の方へ向けて走り始めた。
一艘はそのまま本国へ、他の六艘は下田へ向ったという取沙汰であった。
寅二郎と重輔は、黒船の動き出すのを見ると、口惜し泣きに泣いたが、下田へ向ったのを知ると、すぐ保土ヶ谷の宿を払って、その後を慕った。
鎌倉、小田原、熱海と泊って、今日三月十七日熱海を立ったのである。
二人が、伊東へ一里ばかりの海岸へ来たときに、道の両側に蜜柑畑があり、その中には早しらじらと花の咲いたのがあって、香(かん)ばしい匂いが、鼻を衝いた。二人が蜜柑畑の中の畔(あぜ)に腰を下ろして、割籠(わりご)を開こうとしたときだった。蜜柑の畑の中に遊んでいたらしい子供が声を上げた。
「やあ! 千石船が通るぞ。やあ、千石船よりもまだ大きいぞ。しかも二艘じゃ」
寅二郎は、なんの気もなく海上を見た。見ると、海岸から一里も隔っている海上を、異様な怪物が、黒色の煙を揚げつつ疾駆(しっく)しているのだった。それは、夢にも忘れない黒船だった。今日は、その三重の帆を海鳥の翼のごとく広げ、しかもそれでも足りないで、両舷の火輪(かりん)を回して、やや波立っている大洋を、巨鯨(きょげい)のごとく走っているのだった。
「見られい! あの勢いを」
寅二郎は敵愾(てきがい)の心も忘れて、嘆賞した。
「毛唐め! やりおる! やりおる! あのように皇国(みくに)の海を人もなげに走りおる!」
慷慨家(こうがいか)の金子は、翼なき身を口惜しむように、足摺(あしず)りしながら叫んだ。
「なに、今にメリケンヘ渡ってあの術を奪ってやるのだ。夷人(いじん)の利器によって夷人を追い払うのだ」
寅二郎は、熱海の湯の宿で作ってくれた大きい握り飯をほおばりながら叫んだ。
二
二人が、下田へ着いたのは、翌十八日の午後であった。昨日途中で見た二艘の火輪船は、港口近くに停泊していた。二人は宿を取ると、すぐ港を警衛している役人たちに会って、それとなく黒船の様子をきいてみた。
役人たちの話によると、この二艘は先発隊で、大将ペリーはまだ来ていない。その上、漢語ばかりでなく、オランダ語を話す通辞(つうじ)さえいないので、薪水(しんすい)積込(つみこ)みの応答にさえ困っているということであった。通辞がいないとすれば、潜(ひそ)かに乗り付けて、事情を陳(の)べて、便乗することは、絶対に不可能である。二人は、ペリーが乗っている将艦が入港するのを待つよりほかはなかった。
二十日の朝だった。寅二郎は、自分の指の股や腕首に、四、五日前からできている腫物(はれもの)が膿を持っているのに気がついた。
鎌倉の宿を立った朝、彼は自分の指間(しかん)や腕首や肱(ひじ)に、小さいイボのようなぶつぶつがいくつもできているのを知った。その夜小田原の宿で泊ると、小さいぶつぶつの各々が虫の匍(は)うような、いじりがゆさを与えた。彼はこれを幾度も掻いた。掻けば掻くほど、痒(かゆ)さが増した。
二人は、頭を大束の野郎に結っていた。一人は五尺一、二寸の小男だった。顔中に薄い痘痕(あばた)があったが、目は細く光って眦(まなじり)が上り、鼻梁(はなばしら)が高く通って、精悍(せいかん)な気象を示したが、そのげっそりと下殺(しもそ)げした頬に、じりじり生えている髭(ひげ)が、この男の風采を淋しいものにした。一人は色の黒い眉の太い立派な体格の男だったが、憔悴していることは前者と異らない。
小男は、木綿藍縞(もめんあいじま)の浴衣(ゆかた)に、小倉の帯を締め、無地木綿のぶっさき羽織を着、鼠小紋の半股引(はんももひき)をしていた。体格の立派な方は、雨合羽(あまがっぱ)を羽織っているので、服装は見えなかった。
小男の方は、吉田|寅二郎(とらじろう)で、他の一人は同志の金子|重輔(じゅうすけ)であった。
二人は、三月の六日から十三日まで、保土ヶ谷に宿を取って、神奈川に停泊しているアメリカ船に近づこうとして昼夜肝胆を砕いた。
最初、船頭を賺(すか)して、夜中|潜(ひそ)かに黒船に乗り込もうとしたけれども、いざその場合になると、船頭|連(れん)は皆しりごみした。薪水(しんすい)を積み込む御用船に乗り込んで、黒船に近づこうとしたけれども、それも毎船|与力(よりき)が乗り込んで行くために、便乗する機会はなかった。
八日の日には、メリケン人が横浜村へ上陸したときいたので、かねて起草しておいた投夷書(とういしょ)を手渡す機会もと駆け付けたが、彼らはすでに船へ去って、メリケン人を見た村人たちのかまびすしい噂をきいただけだった。
九日の日は、金子重輔が舟がとにかく漕げるというのを幸いに、漁舟(ぎょしゅう)を盗んで、黒船へ投じようとした。が、昼間舟の在り処を見定めて、夜行って見ると、舟は何人(なんびと)かが乗り去ったとみえて影もなく、激しい怒涛が暗い岸の砂を噛んでいるだけだった。二人が、失望して茫然と立っていると、野犬が幾匹も集って来て、けたたましく吠えた。
「泥棒をするのが難しいことが、初めてわかったぜ」
勝気な寅二郎は、そういって笑ったが、雨が間もなく降り出し、保土ヶ谷の宿へ丑満(うしみつ)の頃帰ったときは、二人の下帯まで濡(ぬ)れていた。
十一日、十二日と二人は保土ヶ谷の宿で、悶々(もんもん)として過した。
十三日は空がよく晴れ、横浜の沖は、春の海らしく和(なご)み渡った。今夜こそと思っていると、朝四つ刻(どき)、黒船の甲板が急に気色(けしき)ばみ、錨を巻く様子が見えたかと思うと、山のごとき七つの船体が江戸を指して走り始めた。海岸警衛の諸役人が、すわやと思っていると、羽田沖で急に転回し、外海(そとうみ)の方へ向けて走り始めた。
一艘はそのまま本国へ、他の六艘は下田へ向ったという取沙汰であった。
寅二郎と重輔は、黒船の動き出すのを見ると、口惜し泣きに泣いたが、下田へ向ったのを知ると、すぐ保土ヶ谷の宿を払って、その後を慕った。
鎌倉、小田原、熱海と泊って、今日三月十七日熱海を立ったのである。
二人が、伊東へ一里ばかりの海岸へ来たときに、道の両側に蜜柑畑があり、その中には早しらじらと花の咲いたのがあって、香(かん)ばしい匂いが、鼻を衝いた。二人が蜜柑畑の中の畔(あぜ)に腰を下ろして、割籠(わりご)を開こうとしたときだった。蜜柑の畑の中に遊んでいたらしい子供が声を上げた。
「やあ! 千石船が通るぞ。やあ、千石船よりもまだ大きいぞ。しかも二艘じゃ」
寅二郎は、なんの気もなく海上を見た。見ると、海岸から一里も隔っている海上を、異様な怪物が、黒色の煙を揚げつつ疾駆(しっく)しているのだった。それは、夢にも忘れない黒船だった。今日は、その三重の帆を海鳥の翼のごとく広げ、しかもそれでも足りないで、両舷の火輪(かりん)を回して、やや波立っている大洋を、巨鯨(きょげい)のごとく走っているのだった。
「見られい! あの勢いを」
寅二郎は敵愾(てきがい)の心も忘れて、嘆賞した。
「毛唐め! やりおる! やりおる! あのように皇国(みくに)の海を人もなげに走りおる!」
慷慨家(こうがいか)の金子は、翼なき身を口惜しむように、足摺(あしず)りしながら叫んだ。
「なに、今にメリケンヘ渡ってあの術を奪ってやるのだ。夷人(いじん)の利器によって夷人を追い払うのだ」
寅二郎は、熱海の湯の宿で作ってくれた大きい握り飯をほおばりながら叫んだ。
二
二人が、下田へ着いたのは、翌十八日の午後であった。昨日途中で見た二艘の火輪船は、港口近くに停泊していた。二人は宿を取ると、すぐ港を警衛している役人たちに会って、それとなく黒船の様子をきいてみた。
役人たちの話によると、この二艘は先発隊で、大将ペリーはまだ来ていない。その上、漢語ばかりでなく、オランダ語を話す通辞(つうじ)さえいないので、薪水(しんすい)積込(つみこ)みの応答にさえ困っているということであった。通辞がいないとすれば、潜(ひそ)かに乗り付けて、事情を陳(の)べて、便乗することは、絶対に不可能である。二人は、ペリーが乗っている将艦が入港するのを待つよりほかはなかった。
二十日の朝だった。寅二郎は、自分の指の股や腕首に、四、五日前からできている腫物(はれもの)が膿を持っているのに気がついた。
鎌倉の宿を立った朝、彼は自分の指間(しかん)や腕首や肱(ひじ)に、小さいイボのようなぶつぶつがいくつもできているのを知った。その夜小田原の宿で泊ると、小さいぶつぶつの各々が虫の匍(は)うような、いじりがゆさを与えた。彼はこれを幾度も掻いた。掻けば掻くほど、痒(かゆ)さが増した。
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