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花は勁し - 岡本 かの子 ( おかもと かのこ )

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  • 鮨 岡本かの子 初版 戦前 文学 小説 昭和16年
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  • 0805 日本の文学46 宇野千代・岡本かの子 昭和44年4月初版
  • 佐藤春夫 『掬水譚』 岡本かの子宛署名本 谷崎潤一郎
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 青みどろを溜めた大硝子箱の澱んだ水が、鉛色に曇つて来た。いままで絢爛に泳いでゐた二つのキヤリコの金魚が、気圧重さのけはひをうけて、並んで沈むと、態と揃へたやうに二つの顔をこちらへ向けた。うしろは青みどろの混沌に暈けて二ひきとも前胴の半分しか見えない。箱のそとには黄色琥珀の粒の眼をつけた縞馬の置物が、水粒が透けて汗をかいたやうな硝子板に鼻を擦りつけてゐる。
 箱の蓋の上に置いてある鉢植のうす紅梅がぽろ/\散つて、逞しい蕊が小枝に針を束ねたやうに目立つ。
 新興活花の師三保谷桂子は、弟子夫人や令嬢たちが帰つたあとで、材料の残りの枝を集めて、自分だけ慰みの活花をずんどうに挿して、少時(しばらく)眺め入つてゐたが、俄に変つて来た空の模様硝子戸越しに注意しながら、少しの天候変化からもぢきに影響される金魚の敏感な様相を観まもつた。
 空の模様はます/\険悪になり、しぶき始めた雨と一緒に光り出した稲妻の尖端が、窓硝子を透して座敷の中の炭炉にさした。
金魚縞馬、花、稲妻――まるで幻想詩派(サンボリスト)の文人たちの悦びさうなシーンだね」
 落ちついて水を持つて来た姪のせん子に、聞かせるといふほどの意志もなく桂子はいつた。
 それから桂子は、桂子がフランスを発つて来る間際まで、世紀末生残りの詩人が、まだ飽きずにこんな感じの詩を作つてゐたことを、ちよつとの間、憶ひ出してゐた。
 未完成のまゝ花器の根元を持つてそつと桂子が押しやつたずんどうの花活(はないけ)へ、水を差しながらせん子がいつた。
先生けふは三十日――あしたは晦日――今夜でも小布施さんにお金を持つてつてあげないぢや」
 小布施は桂子の遠い親戚息子で、もと桂子が画を習つてゐた時の同門でもあつた。不遇で病弱で、長く桂子に物質補助をうけてゐる画家であつた。
 桂子は花の屑を包んで膝かけを外しながら、いつも病気勝ちな小布施何かにつけて気を配るせん子をいぢらしいと思つた。ひよつとしたら内心、小布施を愛してゐるのかも知れない。桂子はそれから襟元を少し掻き寛げ、右手拇指を右の前脇の帯に突き込んで扱くと同時に、体格のいゝ胴を捻つた。博多の帯がきし/\鳴つた。
「あゝ窮屈だつた。お弟子達には行儀よくしてなくちやならないから辛いね。せん子、お茶でも持つて来ておくれ」
 茶室造りの畳の根太の下に響いて、やゝ烈しい雷鳴が一つしたあとは、ずつと音響が空の遠くへ退いて行つた。桂子は、姪でも内弟子でもあるせん子を相手に麦落雁を二つ三つ撮んでから漆塗りの巻絵の台に載つてゐる紙包の嵩をあつさり掴んだ。これは今日弟子達が置いて行つた月謝の全部だ。桂子はそれを袱紗に包んで、
「どれ、若い恋人に会ひに行かうかね」
 なかばせん子の気を牽きながらかういつた。
 せん子はまはりを見廻して眉を顰めた。
冗談にもそんな云ひ方はよくありませんわ。人聴きが悪い……」
 その声には、伯母でもあり先生でもある桂子の身の上を憶ふ、純粋な響きだけだつた。
「ひとり身の女がこんな口を利くやうになるのはよく/\のことよ」
 いくらか桂子は悵然とした口調でかういつた。
 だが空が和んで来て生毛のやうに柔く短く截れて降る春雨を傘に凌いで、内玄関から出て行くときには、桂子は均斉のとれた大柄な身体を、何の蟠りもなくすつくりと伸して、昼間は人目につくと云つて小布施を訪ねるのをとめだてするせん子を見返つて、
昼間堂々と行く方が、世間の噂に逆襲をして却つていゝんだよ」といつた。
 せん子は今更ながら美しい若い伯母の優しい気立てのなかに、どんな苦労も力強く凌いで行く精神力の潜むのを感じ、それをそのまゝ現はしてゐるやうな桂子の後姿を、信頼の眼差で見送つた。それから自分にもその元気が移りでもしたやうな張つた声で、勝手元の方を向いて云つた。
「ばあや、前庭の桃葉珊瑚(あをき)に実が一ぱいついてるよ。青い葉の間に混つて青い実がついてるものだから、まるで気がつかなかつたわ。」
 活溌な足音がして内弟子の桑子と書生が、婆やより先にせん子の佇つてゐる洋館の内玄関の扉口の方へ駈けて来た。


 桂子は邸宅商家と肩を闘はして入れ混つてゐる山手の一劃から、窪地へ低まつてゆく坂道を降りて行つた。桜の並木があり、道の縁を取つてゐるまだらな竜の髭に、品格のある庭木が藪からしや烏瓜の蔓に絡まれながら残つてゐる。むかし相当の庭園の入口でゞもあつたものを、庭は住宅に埋められて、道だけ残されたものであらうか。硬い老幹と、精悍な痩せた枝の緊密な組み合せは、鋼鉄鋳鉄を混ぜ合せて作つた廊門を想はせる。
 桂子はこの鋼鉄の廊門のやうな堅く老い黯(くろ)ずんだ木々の枝に浅黄色若葉が一面に吹き出てゐる坂道に入るとき、ふとゴルゴンゾラのチーズを想ひ出した。脂肪が腐つてひとりでに出来割れ目に咲く、あの黴の華の何と若々しく妖艶な緑であらう。世の中には殆ど現実とは見えない何とも片付けられない美しいものがあると桂子は思つた。
 桂子は一人になつて寂しい所を歩いてゐると、チーズのやうな何か強い濃厚(しつこ)いものが欲しくなつた。講習所の先生として、せん子などを相手にお茶請けを麦落雁ぐらゐな枯淡なもので済ます時の自分を別人のやうに思ふ。外国へ行つてから向うの食物に嗜味を執拗にされたためであらうか。
 雨は止んで、日ざしが黄薔薇色の光線漏斗形に注ぐと、断れ/\に残つてゐる茨垣が、急に膠質の青臭い匂ひを強く立てた。桂子は針の形をしてゐながら、色も姿も赤子のやうに幼い棘の新芽を、生意気にも可愛らしく思つた。
「刺すなら刺してご覧。」
 桂子は、指紋の渦が緻密で完全に巻いてゐる人差指を伸して、棘の尖を押した。
 新芽の棘は軽い抵抗を示しながら、ふによ/\と撓んだ。強く押すと芽の腹の皮の外側は、はち切れさうになり、内側は皺が寄つた。するとその芽が切なく叫んだやうに、赤子泣き声が桂子の耳の奥に幻聴を起させた。桂子は指を引込めた。


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