芸術が必要とする科学 関連リンク

宮本 百合子 のオススメ作品

作家別索引

作品別索引

芸術が必要とする科学 - 宮本 百合子 ( みやもと ゆりこ )

  • 超芸術トマソン 赤瀬川原平 ちくま文庫 町の超芸術を探せ!他
  • 絶版!!飯村隆彦『芸術と非芸術の間』メカスレノンフルクサス
  • 即決*芸術写真**人体の摂影芸術 *S1
  • 高校教科書★芸術科 音楽MOUSAムーサ1 教育芸術社
  • 古い雑誌【映画芸術研究 11集 第3年第1集】1935 ルネ・クレエル
  • ◆古い映画チラシ38ノーストリングス◆ヒビヤ芸術座/雪村/高島
  • レコード芸術1987.8 1996.12 音楽現代 1989.9 切手可
  • ★FC枠★8/20(金)PLAYZONE 大阪梅田芸術劇場 今井翼 S席 1枚②
  • 関口工芸 芸術丸Ⅱ アート トラック ストラップ 
  • 即決!『中学生の音楽 2・3上下 教育芸術社』 2151
次のページ
          一  去年の八月頃のことであった。三日ばかり極端に暑気のはげしい日がつづいた。日の当らないところに坐っていても汗が体から流れハンケチなんか忽ち水でしぼったようになった。その時の私の生活状態は特別なもので、その暑中に湯を浴ることもできなければ、櫛で髪をとかすことも自由にはできない有様であったから、大変疲労した。胸の前で、自分の汗に濡れたハンケチくるくるとまわしてやっとあたりの臭い空気をうごかし、蝉の声さえ聞えて来ることのない日中を過ごした。
 そういう日のある午後、私は風通しのある二階の一部屋に出され、窓ぎわにあるテーブルに肱をかけて、何心なくそとの景色を眺めていた。窓から見える青空は、広々として雲一つなく日光燃えあふれている。青桐の茂った梢が見える。乾いた屋根屋根が高く低く連なっている。路地の奥に一本の樟木(くすのき)が見え、その枝に這いのぼったへちまの黄色い花もいくつか見える。
 疲れた頭の中までを風に吹かせるような心持でそれらの外景を眺めていた私は、ふと一種異様な愕きを心に感じた。それは全く変なことであった。自然の景物が黒と白との二色にしか感じられていないという自覚は。それで一層気をつけてみると、そうやって、しおたれ浴衣を着た私は空が燦々した真夏の青空であることを理解し、青桐の葉がふっさりとした緑であることも知ってはいる。誰か人がいて、この空は何色かと訊いたら、私は碧い空だと答えただろう。青桐は? といわれたら、葉は緑と返事しただろう。が、私の感覚は、空は淋しく濁った一面の白に感じ、その前に聳えている青桐の梢は泥絵具のような重い黒で感じているのであった。神経疲労のこの現象は、短い瞬間に非常に多くのことを私に暗示した。
 肉体疲労が、こんな工合に色彩に対する感覚作用し、われわれが頭で知っている色感と現実感覚反応との間にこんな分裂が生じるということを自分の体で味わったのは、私として生れて初めての経験であった。私は自分異常感覚を感じ観察しながら、画家生活というものを考えた。黒と白だけで全部を表現する版画家人生に対する感情にさまざまな点から新しい興味を喚起されたし、文化の程度の低い民族あるいは社会層の者ほど原色配合を好み、高級となり洗練された人間ほど微妙間色の配合、陰翳を味わう能力を増すといわれているありきたりな概括にまで思い及んだのであるが、今度は立場を逆にして、画家はどの程度にまで自分の絵を鑑賞しようとする人々の生理的条件――その疲労とか休安とかの実状を考慮に入れているであろうかと、こと新たな省察を深められた。
 勤労階級生活感情を反映するプロレタリア絵画領域問題とされたのは、先ず第一絵画主題、題材の社会性であり、色彩はそれらのものに応じて自ら選択される必然性の範囲においてとりあげられていたように思われる。新しい理解芸術におけるリアリズムが提唱された場合にも、持ち出されかたはほぼ同様であった。
 私には、自身のその経験――色が分っているがその色として感情にまで感覚されなかった時のおどろきが、その原因となった疲労から恢復した後も忘られなかった。そして、しばしば考えた。勤務する大多数の男女は激しく長い時間労働によって疲れ恐らく想像しているより遙かにつよい程度で色彩感覚麻痺されているのであろうが、プロレタリア美術のために努力している画家たちははたしてどのくらいまでそれを実感として把握しているであろうか。社会的モラルの問題となし得る先行的な事実、新たな芸術創造のための素地の探求、理解具体性として、生活事情と色感とのなまなましい関係今日問題としていかに深められているか、と考えるのであった。

          二

 こういう一つの偶然実験――体や神経疲労がひどい時には、ある色彩が頭でわかっても、その色の感じを感覚的には感じられないという珍らしい経験をもって、私はそれから市ケ谷に移された。
 そこで又計らず他の経験をかさねた。
 あすこにはラジオがある。コンクリートの広い廊下のはずれの高いところに一つラジオの拡声器が据えつけてあって、朝ラジオ体操のかけ声を鳴り響かす。そして、たまに音楽中継なども聴かすのであるが、どういうセットをつかっているのであるか、私のいた方のラジオでは第一放送と第二放送とがごっちゃになって聞えた。新響の放送であろうと思われるような交響楽が鳴り出して、諧調ある美しい音に神経突然快くゆるめられたと思う間もなく、「ああ打ちました! 打ちました!」などと叫ぶアナウンサアの声がわり込み、音楽野球実景放送とがしばらくあやめも分らずもつれ合ったあげく、拡声器はブブブ、ヒューと、自身の愚劣さを嘲弄するように喚いて、終には一二分何も聞えないようになってしまうのであった。
 ああいう沈黙生活の中で音楽は実に大きいうるおいであり、ほとんど一つの生理的必要である。体がポーと熱し本ばかり読んでいる頭は、恍惚に誘われようと欲して音波にしたがう準備をはじめる。ところが、そういう事情で、こちらに期待する感情自然な要求として強ければ強いだけ、時代ばなれのしたラジオの乱脈はもどかしい。しかも、こちらは、愚劣な雑音の氾濫を頭から浴びせられているばかりで、それを調整するために自分の手を出すことはもちろん、やかましいスウイッチ切る自由さえも与えられていない。それは役所の日課の時間割によって、忠実になされているのであるから。私はしまいに、ラジオで音楽が鳴り出すと、決して終りまで心持よく聴くことなどを初めから期待しないという抵抗力をつけた。さもなければ、緊張中絶との全然受動的なくり返しで、かえって気が疲れるのである。
 ガアガアと反響のつよい建物中をあれ狂っていたラジオが消えると、ホッとした休安を感じつつ、ある日曜午後、私はかつて音に関して自分注意をひいたことのある一つのことを思い出した。それは、ひどく疲れた時には、同じピアノの同じ鍵の音が変に遠方に余韻なく聞えることである。そのとき私は奇妙に思って、一つ音を何度も同じつよさで鳴らして聴いてみたが、鼓膜が耳の中で厚ぼったくなったような感じで、どうしても本当の音がきこえなかった。次の日になって疲れが癒ったらピアノの音は平常の音量音色とをもって聞くことができた。その後、一二度ためして見て疲労の一定の限度までは、音は正しく聴かれ、音楽として味わうことができるが、疲れがそれ以上になると、少くとも私は音楽に無反応に陥るらしいのである。
 この音楽的音についての自身の経験は前にいった色彩感覚疲労との関係についての実験自然連関した。そして、私に生活芸術創造、その鑑賞などについての新しい省察を刺戟した。折から、友人が、日本詩歌のリズムを心理学的な実験によって研究した本を差入れてくれた。東京帝大心理学実験室でなされたこの仕事は、題目としては過去において七五調が永年日本人にしたしまれて来たその心理学的根拠をしらべたものであった。私はだんだん読んで行くうちに、非常に感興を覚え、この種の科学研究は、新しく、そして科学的な社会観の上に立って芸術創造し、そういう創造力開発してゆくために、もっともっと多方面にわたって活溌になされてゆかなければならないと信じるようになったのである。


次のページ

宮本 百合子 (みやもと ゆりこ) 以外のオススメ作品

芸術が必要とする科学 (げいじゅつがひつようとするかがく) のリンク元

「芸術が必要とする科学-宮本 百合子」の関連ページ


関連ページ
Web Services by Yahoo! JAPAN