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- 芥川 竜之介 ( あくたがわ りゅうのすけ )

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  • 絶版■芥川龍之介【邪宗門・杜子春】新潮文庫帯/昭和42年/葱.秋
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芥川龍之介  おれは締切日を明日(みょうにち)に控えた今夜、一気|呵成(かせい)にこの小説を書こうと思う。いや、書こうと思うのではない。書かなければならなくなってしまったのである。では何を書くかと云うと、――それは次の本文を読んで頂くよりほかに仕方はない。

       ―――――――――――――――――――――――――

 神田(かんだ)神保町辺(じんぼうちょうへん)のあるカッフェに、お君(きみ)さんと云う女給仕がいる。年は十五とか十六とか云うが、見た所はもっと大人(おとな)らしい。何しろ色が白くって、眼が涼しいから、鼻の先が少し上を向いていても、とにかく一通り美人である。それが髪をまん中から割って、忘れな草の簪(かんざし)をさして、白いエプロンをかけて、自働ピアノの前に立っている所は、とんと竹久夢二(たけひさゆめじ)君の画中の人物が抜け出したようだ。――とか何とか云う理由から、このカッフェの定連(じょうれん)の間には、夙(つと)に通俗小説と云う渾名(あだな)が出来ているらしい。もっとも渾名(あだな)にはまだいろいろある。簪の花が花だから、わすれな草。活動写真に出る亜米利加(アメリカ)の女優に似ているから、ミス・メリイ・ピックフォオド。このカッフェに欠くべからざるものだから、角砂糖。ETC. ETC.
 この店にはお君さんのほかにも、もう一人年上の女給仕がある。これはお松(まつ)さんと云って、器量(きりょう)は到底お君さんの敵ではない。まず白|麺麭(パン)と黒麺麭ほどの相違がある。だから一つカッフェに勤めていても、お君さんとお松さんとでは、祝儀収入非常違う。お松さんは勿論、この収入の差に平(たいら)かなるを得ない。その不平が高(こう)じた所から、邪推もこの頃廻すようになっている。
 ある夏の午後、お松さんの持ち場の卓子(テエブル)にいた外国語学校生徒らしいのが、巻煙草(まきたばこ)を一本|啣(くわ)えながら、燐寸(マッチ)の火をその先へ移そうとした。所が生憎(あいにく)その隣の卓子(テエブル)では、煽風機(せんぷうき)が勢いよく廻っているものだから、燐寸の火はそこまで届かない内に、いつも風に消されてしまう。そこでその卓子(テエブル)の側を通りかかったお君さんは、しばらくの間(あいだ)風をふせぐために、客と煽風機との間へ足を止(と)めた。その暇に巻煙草へ火を移した学生が、日に焼けた頬(ほお)へ微笑を浮べながら、「難有(ありがと)う」と云った所を見ると、お君さんのこの親切が先方にも通じたのは勿論である。すると帳場の前へ立っていたお松さんが、ちょうどそこへ持って行く筈の、アイスクリイムの皿を取り上げると、お君さんの顔をじろりと見て、「あなた持っていらっしゃいよ。」と、嬌嗔(きょうしん)を発したらしい声を出した。――
 こんな葛藤(かっとう)が一週間に何度もある。従ってお君さんは、滅多にお松さんとは口をきかない。いつも自働ピアノの前に立っては、場所がらだけに多い学生の客に、無言愛嬌(あいきょう)を売っている。あるいは業腹(ごうはら)らしいお松さんに無言ののろけを買わせている。
 が、お君さんとお松さんとの仲が悪いのは、何もお松さんが嫉妬(しっと)をするせいばかりではない。お君さんも内心、お松さんの趣味の低いのを軽蔑している。あれは全く尋常小学を出てから、浪花節(なにわぶし)を聴いたり、蜜豆(みつまめ)を食べたり、男を追っかけたりばかりしていた、そのせいに違いない。こうお君さんは確信している。ではそのお君さんの趣味というのが、どんな種類のものかと思ったら、しばらくこの賑(にぎや)かなカッフェを去って、近所の露路(ろじ)の奥にある、ある女髪結(おんなかみゆい)の二階を覗(のぞ)いて見るが好い。何故(なぜ)と云えばお君さんは、その女髪結の二階に間借をして、カッフェへ勤めている間のほかは、始終そこに起臥(おきふし)しているからである。
 二階は天井の低い六畳で、西日(にしび)のさす窓から外を見ても、瓦屋根のほかは何も見えない。その窓際の壁へよせて、更紗(さらさ)の布(ぬの)をかけた机がある。もっともこれは便宜上、仮に机と呼んで置くが、実は古色を帯びた茶ぶ台に過ぎない。その茶ぶ――机の上には、これも余り新しくない西洋|綴(とじ)の書物が並んでいる。「不如帰(ほととぎす)」「藤村(とうそん)詩集」「松井須磨子(まついすまこ)の一生」「新朝日記」「カルメン」「高い山から谷底見れば」――あとは婦人雑誌が七八冊あるばかりで、残念ながらおれの小説集などは、唯一の一冊も見当らない。それからその机の側にある、とうにニスの剥げた茶箪笥(ちゃだんす)の上には、頸(くび)の細い硝子(ガラス)の花立てがあって、花びらの一つとれた造花百合(ゆり)が、手際よくその中にさしてある。察する所この百合は、花びらさえまだ無事でいたら、今でもあのカッフェの卓子(テエブル)に飾られていたのに相違あるまい。最後にその茶箪笥の上の壁には、いずれも雑誌の口絵らしいのが、ピンで三四枚とめてある。一番まん中なのは、鏑木清方(かぶらぎきよかた)君の元禄女(げんろくおんな)で、その下に小さくなっているのは、ラファエルマドンナ何からしい。と思うとその元禄女の上には、北村四海(きたむらしかい)君の彫刻の女が御隣に控えたベエトオフェンへ滴(したた)るごとき秋波(しゅうは)を送っている。但しこのベエトオフェンは、ただお君さんがベエトオフェンだと思っているだけで、実は亜米利加(アメリカ)の大統領ウッドロオ・ウイルソンなのだから、北村四海君に対しても、何とも御気の毒の至(いたり)に堪えない。――
 こう云えばお君さんの趣味生活が、いかに芸術色彩に富んでいるか、問わずしてすでに明かであろうと思う。また実際お君さんは、毎晩遅くカッフェから帰って来ると、必ずこのベエトオフェン alias ウイルソン肖像の下に、「不如帰(ほととぎす)」を読んだり、造花百合(ゆり)を眺めたりしながら、新派悲劇活動写真月夜場面よりもサンティマンタアルな、芸術的感激に耽(ふけ)るのである。
 桜頃(さくらごろ)のある夜、お君さんはひとり机に向って、ほとんど一番鶏(いちばんどり)が啼く頃まで、桃色をしたレタア・ペエパアにせっせとペンを走らせ続けた。が、その書き上げた手紙の一枚が、机の下に落ちていた事は、朝になってカッフェへ出て行った後(のち)も、ついにお君さんには気がつかなかったらしい。


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