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蒲団 - 田山 花袋 ( たやま かたい )

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  • ☆★岩波文庫  蒲団・一兵卒(田山 花袋)
  • 岩波文庫 田山花袋 「蒲団・一兵卒」 2000年
  • 旺文社文庫★日本文学2冊 田山花袋★蒲団 一兵卒の銃殺 田舎教師
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        一  小石川切支丹坂(きりしたんざか)から極楽水(ごくらくすい)に出る道のだらだら坂を下りようとして渠(かれ)は考えた。「これで自分彼女との関係は一段落を告げた。三十六にもなって、子供も三人あって、あんなことを考えたかと思うと、馬鹿々々しくなる。けれど……けれど……本当にこれが事実だろうか。あれだけの愛情を自身に注いだのは単に愛情としてのみで、恋ではなかったろうか」
 数多感情ずくめの手紙――二人の関係はどうしても尋常ではなかった。妻があり、子があり、世間があり、師弟関係があればこそ敢(あえ)て烈(はげ)しい恋に落ちなかったが、語り合う胸の轟(とどろき)、相見る眼の光、その底には確かに凄(すさま)じい暴風(あらし)が潜んでいたのである。機会に遭遇(でっくわ)しさえすれば、その底の底の暴風は忽(たちま)ち勢を得て、妻子世間道徳師弟関係も一挙にして破れて了(しま)うであろうと思われた。少くとも男はそう信じていた。それであるのに、二三日来のこの出来事、これから考えると、女は確かにその感情を偽り売ったのだ。自分を欺いたのだと男は幾度も思った。けれど文学者だけに、この男は自ら自分心理客観するだけの余裕を有(も)っていた。年若い女の心理は容易に判断し得られるものではない、かの温(あたたか)い嬉(うれ)しい愛情は、単に女性特有の自然の発展で、美しく見えた眼の表情も、やさしく感じられた態度も都(すべ)て無意識で、無意味で、自然の花が見る人に一種の慰藉(なぐさみ)を与えたようなものかも知れない。一歩を譲って女は自分を愛して恋していたとしても、自分は師、かの女は門弟、自分は妻あり子ある身、かの女は妙齢美しい花、そこに互に意識の加わるのを如何(いかん)ともすることは出来まい。いや、更に一歩を進めて、あの熱烈なる一封の手紙、陰に陽にその胸の悶(もだえ)を訴えて、丁度自然の力がこの身を圧迫するかのように、最後の情を伝えて来た時、その謎(なぞ)をこの身が解いて遣(や)らなかった。女性のつつましやかな性(さが)として、その上に猶(なお)露(あら)わに迫って来ることがどうして出来よう。そういう心理からかの女は失望して、今回のような事を起したのかも知れぬ。
「とにかく時機は過ぎ去った。かの女は既に他人(ひと)の所有(もの)だ!」
 歩きながら渠(かれ)はこう絶叫して頭髪をむしった。
 縞(しま)セルの背広に、麦稈帽(むぎわらぼう)、藤蔓(ふじづる)の杖(ステッキ)をついて、やや前のめりにだらだらと坂を下りて行く。時は九月中旬、残暑はまだ堪(た)え難く暑いが、空には既に清涼の秋気が充(み)ち渡って、深い碧(みどり)の色が際立(きわだ)って人の感情を動かした。肴屋(さかなや)、酒屋雑貨店、その向うに寺の門やら裏店(うらだな)の長屋やらが連(つらな)って、久堅町(ひさかたまち)の低い地には数多(あまた)の工場の煙筒(えんとつ)が黒い煙を漲(みなぎ)らしていた。
 その数多工場の一つ、西洋風の二階の一室、それが渠の毎日正午(ひる)から通う処で、十畳敷ほどの広さの室(へや)で中央(まんなか)には、大きい一脚の卓(テーブル)が据えてあって、傍に高い西洋風の本箱、この中には総(すべ)て種々の地理書が一杯入れられてある。渠はある書籍会社嘱託受け地理書の編輯(へんしゅう)の手伝に従っているのである。文学者地理書の編輯! 渠は自分地理趣味を有っているからと称して進んでこれに従事しているが、内心これに甘(あまん)じておらぬことは言うまでもない。後(おく)れ勝なる文学上の閲歴、断篇のみを作って未(いま)だに全力の試みをする機会に遭遇せぬ煩悶(はんもん)、青年雑誌から月毎に受ける罵評(ばひょう)の苦痛、渠(かれ)自らはその他日成すあるべきを意識してはいるものの、中心これを苦に病まぬ訳には行かなかった。社会は日増(ひまし)に進歩する。電車東京市交通を一変させた。女学生は勢力になって、もう自分が恋をした頃のような旧式の娘は見たくも見られなくなった。青年はまた青年で、恋を説くにも、文学を談ずるにも、政治を語るにも、その態度総て一変して、自分等とは永久に相触れることが出来ないように感じられた。
 で、毎日機械のように同じ道を通って、同じ大きい門を入って、輪転機関の屋(いえ)を撼(うごか)す音と職工の臭い汗との交った細い間を通って、事務室の人々に軽く挨拶(あいさつ)して、こつこつと長い狭い階梯(はしご)を登って、さてその室(へや)に入るのだが、東と南に明いたこの室は、午後の烈しい日影受けて、実に堪え難く暑い。それに小僧が無精で掃除(そうじ)をせぬので、卓の上には白い埃(ほこり)がざらざらと心地悪い。渠は椅子に腰を掛けて、煙草(たばこ)を一服吸って、立上って、厚い統計書と地図案内記と地理書とを本箱から出して、さて静か昨日の続きの筆を執り始めた。けれど二三日来、頭脳(あたま)がむしゃくしゃしているので、筆が容易に進まない。一行書いては筆を留めてその事を思う。また一行書く、また留める、又書いてはまた留めるという風。そしてその間に頭脳に浮んで来る考は総て断片的で、猛烈で、急激で、絶望的の分子が多い。ふとどういう聯想(れんそう)か、ハウプトマンの「寂(さび)しき人々」を思い出した。こうならぬ前に、この戯曲をかの女の日課として教えて遣ろうかと思ったことがあった。ヨハンネス・フォケラートの心事と悲哀とを教えて遣りたかった。この戯曲を渠が読んだのは今から三年以前、まだかの女のこの世にあることをも夢にも知らなかった頃であったが、その頃から渠は淋(さび)しい人であった。敢てヨハンネスにその身を比そうとは為(し)なかったが、アンナのような女がもしあったなら、そういう悲劇(トラジディ)に陥るのは当然だとしみじみ同情した。今はそのヨハンネスにさえなれぬ身だと思って長嘆した。
 さすがに「寂しき人々」をかの女に教えなかったが、ツルゲネーフの「ファースト」という短篇を教えたことがあった。洋燈(ランプ)の光|明(あきら)かなる四畳半書斎、かの女の若々しい心は色彩ある恋物語に憧(あこが)れ渡って、表情ある眼は更に深い深い意味を以(もっ)て輝きわたった。ハイカラな庇髪(ひさしがみ)、櫛(くし)、リボン、洋燈の光線がその半身を照して、一巻の書籍に顔を近く寄せると、言うに言われぬ香水のかおり、肉のかおり、女のかおり――書中の主人公が昔の恋人に「ファースト」を読んで聞かせる段を講釈する時には男の声も烈しく戦(ふる)えた。
「けれど、もう駄目だ!」
 と、渠は再び頭髪(かみ)をむしった。

        二

 渠(かれ)は名を竹中時雄と謂(い)った。
 今より三年前、三人目の子が細君の腹に出来て、新婚の快楽などはとうに覚(さ)め尽した頃であった。世の中の忙しい事業も意味がなく、一生作(ライフワーク)に力を尽す勇気もなく、日常生活――朝起きて、出勤して、午後四時に帰って来て、同じように細君の顔を見て、飯を食って眠るという単調なる生活につくづく倦(あ)き果てて了(しま)った。家を引越歩いても面白くない、友人と語り合っても面白くない、外国小説読み渉猟(あさ)っても満足が出来ぬ。


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