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蓮花図 - 宮本 百合子 ( みやもと ゆりこ )

  • 宮本百合子選集第一巻・小説集 ☆宮本百合子
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 志賀直哉氏編、座右宝の中に、除熙の作と伝えられているがある。蓮池に白鷺が遊んでいるところを描いたものだが、花をつけた蓮に比べて白鷺大変小さいように描いてある。いかにも大きく古き蓮池に霊のような白鷺の遊ぶ趣が幽婉に捕えられている。蓮花の茎が入り乱れて抽(ぬきん)でている下に鷺を配したところも凡手でなく、一種重厚な、美を貫く生の凄さに似たものさえ、その時代のついた画面から漂って来るのだ。

 その絵から私は強い印象を受け、こうやって書いていても、黝んだ蓮の折れ葉の下に戦ぐ鷺の頸の白い羽毛を感じる。――その絵の中に一本の蓼(たで)がある。蓮の中から高く空中に花を咲かせている。不思議な奥深い寂寞の感じは、動かぬその蓼の房花によって語られているかと思われる。
 ところが、偶然その蓼の花を、今年は近く毎日眺め暮すことになった。
 私共の家の裏に、一軒小さな家がある。そこに一人お爺さんが暮していた。私共が引越して来た以前から住んでいた人で、隠居住居らしく、前栽にダリアや豌豆などを作っている。夕方まだ日があるのにポツと一つ電燈部屋の中に点いているのなど、私の家の茶の間から樫の木の幹をすかしてよく眺められた。一人で、さっぱりした座敷の真中に小机を持ち出し書類を調べているひっそりした姿も見た。女気がない。
 時々、若い女の人が前栽に見えたり、
たくさん買っていらっしたのね、おじいさん五十銭!」
などという声が聞えた。土曜から日曜にかけては、男の児が遊びに来た。尺八を吹く男の人も来たし、犬も来る。賑やかなのは一時で、然しじきもとの独り住みの静けさに戻る。ダリアの盛りの頃、私共はその若い女の人から一束の美しい花を貰った。夜にでもなれば、互に互の灯かげを眺めて暮しながら、そうはかばかしくは口もきかない、そういう交際のうちに、三月ばかり前、突然おじいさん引越しをしてしまった。
 そこがおじいさん隠居所で、永く住む人と思っていたのが或る朝荷物を運び出し、やがて人夫が来て物干の杙を倒し始めた。人夫が働くのがひどく淋しかった。生活がそこにないという前の棲み主の心持が露骨に働いているようなのであった。

 丁度、今年の若竹が育つ盛りの時分で、おじいさんの庭にもはぐれて生えた数本の若竹があった。日毎に、日の光を梳いてあつみの増すそれ等の若竹の葉越しに、私共は毎日雨戸をしめた裏の家の軒下を眺めて暮すことになった。
 入梅があけると、空家の庭に苔がつき、めっきり青草が伸びた。雨戸はしまったままだ。
 夏になったので、何処かの子供が、空地を見つける子供本能で早速その叢へ躍り込んで来た。豌豆の手に立ててあった細い竹ぎれを振廻す男の児の裸の腹。
「アラ! いた、いた」
 草の葉を掻き分け、見えたり隠れたりする小娘の赤い兵児帯。――
 子供の心にも、白々と雨戸のしまった空家は、叢が深ければ深いだけ、フッと四辺が森閑とした時変な気持を起させるのか、荒庭は直放棄されてしまった。
 もう子供の声もしない。草がのびる。草ばかり夜昼繁茂する。夜半、目が醒める。微に草の葉のすれ合う音がする。月を吹く風か? いやあの青草のまた伸び上る戦ぎであろう。菁は凄に通ずると感じながらその戦ぎを聞いた。
 その空家の叢の蔭に、いつからとなく一条草が踏みつけられた。そこから白黒斑の雄犬が一匹私共の家へ来る。自由な、親密な感情を持ったこの動物は、主人が、人夫を入れて物干杙を引き抜かせて去っても、私共が彼を呼んだ声を覚えていると見えて、来るのだ。尤も、これには一つ話がある。
 まだ春も夜寒な頃、十時過ぎて或る印刷所の使が玄関に来た。見ると、一匹の犬が、その使の若者と共に、三和土(たたき)のところに坐っている。
「まあ犬をつれて来たの?」
「いいえ。どっかの犬がついて来て離れないんです」
 使は程なく帰ったが、その犬ばかりは三和土から外へ出ようとしない。
「サアもうお帰り」
サヨナラサヨナラ
 お辞儀をして見せても去らぬ。敷台へ前脚をかけ、頻に尾を振り、吠(な)いた。


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