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藤村の文学にうつる自然 - 宮本 百合子 ( みやもと ゆりこ )

  • 島崎藤村/文庫*藤村詩抄-藤村自選/岩波/送料\160=nv
  • ◇夜明け前 第二部 島崎藤村著 藤村長篇小説叢書6 初版本
  • ☆★岩波文庫  藤村詩抄 (島崎藤村自選)
  • 昭和31年 藤村文學読本(春夏篇) 島崎藤村 角川新書初版
  • 靜の草屋 島崎藤村 藤村文庫 昭和13年10月発行
  • FEATHERS ROCK/藤村屋/藤村まき/征当
  • ■単行本■藤村のパリ 河盛好蔵 函・帯・初版 島崎藤村
  • ◇ 東方の門・巡禮 島崎藤村著 新潮社刊 2刷
  • 新潮文庫 島崎藤村 「破戒」S60・95刷
  • SP.藤村一郎。京都祭。栄二。京都音頭。
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 現代日本作家の中で、その作品に最も多く自然をうけ入れ、示しているのは誰であろう。島崎藤村をその一人としてあげ得ると思う。
 藤村は、明治五年、長野県馬籠(まごめ)で生れた。家は馬籠の旧本陣で、そこの大規模な家の構え、召使いなどの有様は、「生い立ちの記」の中にこまかく描かれている。父というひとは、「それは厳格で」「家族のものに対しては絶対の主権者で、私達に対しては又、熱心な教育者で」あった。髪なども長くして、それを紫の紐で束ねて後へ下げ、古い枝ぶりの好い松の樹が見える部屋で、幼い藤村に「大学」や「論語」の素読を教えた。その父の案で、藤村は僅か九歳のとき、兄と一緒に東京の姉の家へ、勉強によこされたのであった。
 そのときから、二十二三歳になった藤村が詩をつくるようになって、文学的生涯に入るようになるとともに思想的な動揺から数年間に亙る放浪の旅へ出るまで、少年藤村毎日明治十三年から二十七年時代東京銀座裏や大川端高輪辺に過された。しかも、これらは、いずれも馬籠の父の家と親類にあたる家か、さもなければ先輩・知人の家で、少年藤村は謂わば寄寓の身の上であった。「生い立ちの記」をよんで見ると、国を出る迄末息子としての藤村が、お牧という専属の下女にかしずかれ、情愛の深い太助爺を遊び対手とし、いかにも旧本陣の格にふさわしい育ち方をしている姿がまざまざと浮んで来る。それが急に言葉から食物まで違う東京、母も姉もお祖母さんも傍にはいないよその家での明暮となり、小さい藤村が、故郷景色を懐しく思い出し、故郷でたべた焼米や椋葉飯やを恋うた心の切なさはまことに想像される。紫紐で髪を結えた藤村の父は、僅か九つ、今日なら小学二年生になったばかりの息子東京へやる餞別として、五六枚の短冊を与えた人である。「行ひは必ず篤敬。云々。」と書き与えた人である。故郷が恋しい、母サンやお祖母サンガ居ナイカラ僕ツマンナイヤ、とは、幼い藤村手紙に決して率直に書かれなかったであろう。
 藤村文学仕事に入った頃、日本文学ロマンチシズムの潮流に動かされていた。当時の文学傾向がそうであったと云うばかりでなく、また、藤村自身が二十歳を越したばかりの多感な時代にあったというばかりでなく、彼の処女詩集若菜集』につづく四冊の詩集が、激しい自然への思慕、ロマンティック自然への没入を示している心理の遠く深いところには、藤村のこの特別な幼年時代から少年時代へかけての境遇が作用しているように思われる。
 明治学院学生時分から、藤村はダンテの詩集などを愛誦する一方で芭蕉芸術に傾倒していた。二十三歳頃吉野の方へ放浪した時も、藤村はこの経験によって一層芭蕉理解することが出来るようになったと語っている。芭蕉芸術はその文学教養の面から、自然に没入する過去日本芸術伝統藤村に植えた。加えて内部には、幼くて故郷から引はなされた者の感情に常に消えない虹となってかかっているふるさと自然への魅力が潜み、更にそれがヨーロッパ文学の積極的な文学表現によって刺戟され、培われたのである。藤村が、芸術源泉秘密の源が「広大無尽蔵自然の間にあることは云うまでもない」と「春を待ちつゝ」の中で云っているのは、決して一朝一夕の思いつきではないのである。
 藤村の『若菜集』(明治三十年。二十六歳)引きつづいて翌三十一年の春出版された『一葉舟』『夏草』、第四詩集である『落梅集』などが、当時の若い人々の感情をうごかし捉えた力というものは、今日私達の想像以上のものがあったらしい。日露戦争の後、日本自然主義文学運動擡頭する前、日清戦争勝利によって、新しく世界登場するようになったばかりの日本社会には、謳うべくしてその言葉を知らないような新鮮な亢奮が漲ってもいただろう。与謝野晶子が、その「みだれ髪」によって人々を恍惚とさせたのもこの前後のことであった。藤村若菜集は、二十六歳の青年詩人情熱をもると同時に自らその当時の社会の若々しい格調を響かせたのであった。
若菜集』の序のうたに、藤村自分詩作葡萄の実になぞらえている。この一巻に収められている「草枕」「あけぼの」「春は来ぬ」「潮音」「君がこゝろは」「狐のわざ」「林の歌」等いずれも、自然にうち向かって心を傾け物を云いかけ、人か自然自然か人かというロマンティックな境地にひたって作者自然擬人化し、それに対置して「されば、落葉と身をなして、風にふかれて翻」る我身という関係において、謳っているのである。
 ロマン派の諸詩人達が西洋でも東洋でもこのんで「鷲」を題材とするのは、何と興味ある一つの通有性であろう。『若菜集』の後に出た『一葉舟』で、藤村は「鷲の歌」を抒事詩風にうたっている。ここで藤村は雄渾な自然「削りて高き巖角にしばし身をよす二羽の鷲」の、若鷲の誇高き飛翔描き日影にうつる雲さして行へもしれず飛ぶやかなたへ」という和歌の措辞法を巧に転化させた結びで技巧の老巧さをも示しているのであるが、「春やいづこ」にしろ、やはり『若菜集』に集められた詩と同じく、自然作者主観的な感懐の対象とされている。移りゆき、過ぎゆく自然の姿をいたむ心が抽象的うたわれているのである。
『夏草』には、前の二つの詩集とちがった要素を加えて自然うたわれ初めているのが見える。愛すべき「小兎のうた」には農村生活作物に対する農民心配と小兎との関係が、人間の側の心持から、写実的に、簡素に修飾すくなくうたわれているのが私達の注目をひく。「うぐひす」には、これまでの詩の華麗流麗な綾に代る人生行路難の暗喩ロマンティック用語につつまれつつ、はっきり主体をあらわしている。「野路の梅」にも同じ傾きとして、浮薄な世間毀誉褒貶(きよほうへん)を憤る心が沁み出ている。これは、『若菜集』によって、俄に盛名をあげた藤村がこれまでと異った身辺の事情・角度から人生の波の危くしのぎがたいのを感じた心の反映として深い興味を覚える。
 この境地から脱し、当時の文壇の騒々しさから脱しようとして、二十八歳の詩人藤村は「もっと自分を新鮮に、そして簡素にするところはないか」と求めた。信州小諸(こもろ)「古城のほとり」なる小諸の塾の若い教師として藤村赴任した内的な理由は、そこにあったと思える。
 都会の遽(あわただ)しさや早老を厭わしく思った時、藤村は心に山を描いた。幼心に髣髴(ほうふつ)とした山々を。故郷の山を。明治三十二年から三十三年までの一年に編まれた『落梅集』は、実に明らかにこの詩人が、歩み進んで来た成長の道、生活の路を語っている。
若菜集』におけるあの婉(しな)やかな曲線表現は、「常盤樹」に来て、非常直線的な格調をもちはじめた。用語も、和文脈から漢詩の様式を思い浮ばせる形式に推移して来る。「常盤樹」にしろさらに「鼠をあわれむ」「炉辺雑興」「労働雑詠」等に到って、この詩人が、小諸農村生活日常結びつくことで、こんなに自然を観る態度が異って来たかとおどろくばかりのものがある。三四年前、「されば落葉と身をなして、風に吹かれて翻りつゝ」ロマンティック文学放浪にあった時代作者は、『夏草』において次第に自然と自己とを平静に対置して眺めあわせることを学び、『落梅集』に来ては、人間あっての自然人間生活によって眺め、関係されるところの自然労働の対象としての自然を眺めることを、生活から学びとっているのである。現代農民野良に出てゆく時の複雑な心理を、その「労働雑詠」がとらえていないということを、きびしく云うには当らない。


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