蝙蝠 - 岡本 かの子 ( おかもと かのこ )
それはまだ、東京の町々に井戸のある時分のことであつた。
これらの井戸は多摩川から上水を木樋でひいたもので、その理由から釣瓶(つるべ)で鮎(あゆ)を汲(く)むなどと都会の俳人の詩的な表現も生れたのであるが、鮎はゐなかつたが小鯉(こごい)や鮒(ふな)や金魚なら、井戸替へのとき、底水を浚(さら)ひ上げる桶(おけ)の中によく発見された。これらは井の底にわく虫を食べさすために、わざと入れて置くさかなであつた。「ばけつ持つてお出(い)で」井戸替への職人の親方はさう云つて、ずらりと顔を並べてゐる子供達の中で、特にお涌(よう)をめざして、それ等(ら)のさかなの中の小さい幾つかを呉(く)れた。お涌は誰の目にもつきやすく親しまれるたちの女の子であつた。
夏の日暮れ前である。子供達は井戸替へ連中の帰るのを見すまし、まだ泥土でねば/\してゐる流し場を草履(ぞうり)で踏み乍(なが)ら、井戸替への済んだばかりの井戸側のまはりに集つてなかを覗(のぞ)く。もう暗くてよく判らないが、吹き出る水が、ぴちよん、によん、によんといふやうに聞え、またその響きの勢ひによつて、全体の水が大きく廻りながら、少しづつ水嵩(みずかさ)を増すその井戸の底に、何か一つの生々してゐてしかも落ちついた世界があるやうに、お涌には思はれた。
蝙蝠(こうもり)来い
簑(みの)着て来い
行燈(あんどん)の油に火を持つて来い
……………………
仲間の子供たちが声を揃(そろ)へて喚(わめ)き出したので、お涌も井戸|端(ばた)から離れた。
空は、西の屋根|瓦(がわら)の並びの上に、ひと幅日没後の青みを置き残しただけで、満天は、紗(しゃ)のやうな黒味の奥に浅い紺碧(こんぺき)のいろを湛(たた)へ、夏の星が、強(し)ひて在所を見つけようとすると却(かえ)つて判らなくなる程かすかに瞬(またた)き始めてゐる。
この時、落葉ともつかず、煤(すす)の塊(かたまり)ともつかない影が、子供たちの眼に近い艶沢(つや)のある宵闇の空間に羽撃(はばた)き始めた。その飛び方は、気まぐれのやうでもあり、舵(かじ)がなくて飛びあへぬもののやうでもある。けれども迅(はや)い。ここに消えたかと思ふと、思はぬ軒先(のきさ)きに閃(ひら)めいてゐる。いつかお涌も子供達に交(まじ)つて「蝙蝠来い」と喚きながら今更めづらしく毎夜の空の友を目で追つてゐると、蝙蝠も今日の昼に水替へした井戸の上へ、ひら/\飛び近づき、井戸の口を覗(のぞ)き込んではまた斜に外れ上るやうに見える。お涌は蝙蝠が井戸の中の新しく湧(わ)いた水を甞(な)めたがつてゐるのかとも思つた。ふと、今しがた自分が覗いた生々として落ちついた井の底の世界を、蝙蝠もまた、あこがれてゐるのではあるまいか――
「かあいさうな、夕闇の動物」
お涌は、この小さい動物をいぢらしいものに感じた。
「捕つた/\」
といふ声がして、その方面へ子供が、わーつと喚(わめ)き寄つて行つた。桶屋(おけや)の小僧の平太郎が蝙蝠の一ぴきを竿(さお)でうち落して、両翅(りょうばね)を抓(つま)み拡げ、友達のなかで得意顔をしてゐる。薄く照して来る荒物屋の店の灯(ほ)かげでお涌がすかして見ると、小さい生きものは、小鼠(こねずみ)のやうな耳のある頭を顔中口にして、右へ左へ必死に噛(か)みつかうとしてゐる。細くて徹(とお)つたきいきいといふ鳴声を挙げる。「ほい畜生(ちくしょう)」と云つて平太郎は巧(たくみ)に操りながら、噛みつかれないやうに翅を延(のば)して避ける。ぴんと張り拡げられた薄墨いろの肉翅(にくし)のまん中で、毛の胴は異様に蠢(うごめ)き、小鳥のやうな足は宙を蹴(け)る。二つの眼は黒い南京玉(なんきんだま)のやうに小さくつぶらに輝いて、脅(おび)えてゐるのかと見ると嬉(うれ)しさうにも見える。またきいきいと鳴く。その口の中は赤い。
お涌は、何か、肉体のうちを掠(かす)めるむづむづしたやうな電気を感じ、残忍な征服慾を覚え、早くこの不安なものの動作を揉(も)み潰(つぶ)してしまひ度(た)いやうな衝動にさへ駆られて、浴衣(ゆかた)の両|袂(たもと)を握つたまゝ、しつかり腕を組み合せ、唇を噛んで見入つてゐた。
「お呉(く)れよ、お呉れよ」
とまはりの子供達が強請(せが)む中に、平太郎はお涌を見つけると愛想笑ひをして
「お涌ちゃんに、これ、やらうね、さあ」
といつて、抓み方を教へ乍(なが)ら、お涌にこの小さい動物を指移しに渡した。
お涌は、不気味さに全身緊張させ、また抓んだ指さきの肉翅のあまり華奢(きゃしゃ)で柔かい指触りの快いのに驚きながら、その小動物を自分の体からなるたけ離すやうにして、そろ/\自宅の方へ持ち運んで行つた。お涌に蝙蝠を取られた他の子供達がうしろから嫉妬(しっと)の喚きを立てゝ囃(はや)した。
お涌が、自宅の煉瓦塀(れんがべい)のところまで来ると、あとから息せき切つて馳(か)けて来た日比野の家の女中が声をかけて
「お嬢さま、あなたが蝙蝠をお貰(もら)ひになつたのを、うちの坊ちやまが窓から御覧になつてまして、是非(ぜひ)標本に欲しいから、頂いて来て呉れろと仰言(おっしゃ)いますので…………ほんたうに御無理なお願ひで済みませんが…………坊ちやまのお母さまもお願ひして来るように仰言いますので…………」
お涌は、大人の女中の使者らしい勿体(もったい)振つた口上にどぎまぎして、蝙蝠も惜(おし)くはあるが遣(や)らなければならないものと観念して、小さい声で
「ええ、あげますわ」
といつて女中の前に小動物を差出した。
「ほんとに、済みませんで御座(ござ)います」
女中は礼を繰返しながら蝙蝠をお涌の手から抓(つま)み代へて受取らうとする。蝙蝠は口を開けてきいきい鳴き続ける。二三度試みて、たうとう指さきを臆(おく)させてしまつた女中は
「お嬢さま、まことに恐れ入りますが、とても私の手にはおへませんから、このまま蝙蝠を宅までお持ち願へませんか」
お涌は大人にこれほど叮嚀(ていねい)に頼まれる子供の侠気(きょうき)にそゝられて承知した。
日比野の家は、この町内で子供達が遊び場所にしてゐる井戸の外柵の真向(まむか)ひで、井戸より五六軒|距(へだた)つたお涌の家からはざつと筋向うといへる位置にあつた。前に大溝(おおどぶ)の幅広い溝板が渡つてゐて、粋(いき)でがつしりした檜(ひのき)の柾(まさ)の格子戸の嵌(はま)つた平家の入口と、それに並んでうすく照りのある土蔵とが並んでゐた。土蔵の裾(すそ)を囲む駒寄(こまよ)せの中に、柳の大木が生えてゐる。枝に葉のある季節には、青い簾(すだれ)のやうにその枝が、土蔵の前を覆うてゐた。町内のどの家と交際してゐるといふこともなかつた。
土蔵には、鉄格子の組まれた窓があつた。その中が勉強部屋になつてゐるらしく、末息子の皆三の顔がよく見えた。
子供達のなかの誰もこの家のことをよく知らなかつた。富んでゐる無職業(しもたや)の旧家(きゅうか)であることだけは判つたが、内部の家族の生活振りや程度のことなど、子供|等(ら)の方から、てんで知り度(た)い慾望もなかつたのである。ただ土蔵の窓から、体格のしつかりしてさうな眉目(びもく)秀麗な子供の皆三が、しよつちゆう顔を見せてゐる癖に、決して外へ出て、みんなと一緒に遊ばない超然たるところを子供達は憎んだ。さういふ型違ひな子供のゐる日比野の家は、何か秘密がありさうな不思議な家と漠然と思つてゐるだけだつた。
子供達は、お涌も時に交(まじ)つて、その土蔵の外の溝板(どぶいた)に忍び寄り、俄(にわ)かに足音を踏み立てて「ひとりぼつち――土蔵の皆三」と声を揃(そろ)へて喚(わめ)く。お涌もこの皆三の超然たるところを憎むことに於て、他の子供達に劣らなかつた。が、喚き立てる子供達の当て擦(こす)りの下卑(げび)た荒々しい言葉が、あの緊密|相(そう)な男の子の神経にかなり深刻に響いて、彼をいかに焦立(いらだ)たせるかとはらはらして堪(たま)らない気もした。それでゐてお涌自身も、子供達と一しよにますます喚き立て度(た)い不思議な衝動にいよ/\駆られるのであつた。お涌はさういふ気持ちで喚く時、脊筋(せすじ)を通る徹底した甘酸(あまずっぱ)い気持ちに襲はれ頸筋(くびすじ)を小慄(こぶる)ひさせた。
夏の日暮れ前である。子供達は井戸替へ連中の帰るのを見すまし、まだ泥土でねば/\してゐる流し場を草履(ぞうり)で踏み乍(なが)ら、井戸替への済んだばかりの井戸側のまはりに集つてなかを覗(のぞ)く。もう暗くてよく判らないが、吹き出る水が、ぴちよん、によん、によんといふやうに聞え、またその響きの勢ひによつて、全体の水が大きく廻りながら、少しづつ水嵩(みずかさ)を増すその井戸の底に、何か一つの生々してゐてしかも落ちついた世界があるやうに、お涌には思はれた。
蝙蝠(こうもり)来い
簑(みの)着て来い
行燈(あんどん)の油に火を持つて来い
……………………
仲間の子供たちが声を揃(そろ)へて喚(わめ)き出したので、お涌も井戸|端(ばた)から離れた。
空は、西の屋根|瓦(がわら)の並びの上に、ひと幅日没後の青みを置き残しただけで、満天は、紗(しゃ)のやうな黒味の奥に浅い紺碧(こんぺき)のいろを湛(たた)へ、夏の星が、強(し)ひて在所を見つけようとすると却(かえ)つて判らなくなる程かすかに瞬(またた)き始めてゐる。
この時、落葉ともつかず、煤(すす)の塊(かたまり)ともつかない影が、子供たちの眼に近い艶沢(つや)のある宵闇の空間に羽撃(はばた)き始めた。その飛び方は、気まぐれのやうでもあり、舵(かじ)がなくて飛びあへぬもののやうでもある。けれども迅(はや)い。ここに消えたかと思ふと、思はぬ軒先(のきさ)きに閃(ひら)めいてゐる。いつかお涌も子供達に交(まじ)つて「蝙蝠来い」と喚きながら今更めづらしく毎夜の空の友を目で追つてゐると、蝙蝠も今日の昼に水替へした井戸の上へ、ひら/\飛び近づき、井戸の口を覗(のぞ)き込んではまた斜に外れ上るやうに見える。お涌は蝙蝠が井戸の中の新しく湧(わ)いた水を甞(な)めたがつてゐるのかとも思つた。ふと、今しがた自分が覗いた生々として落ちついた井の底の世界を、蝙蝠もまた、あこがれてゐるのではあるまいか――
「かあいさうな、夕闇の動物」
お涌は、この小さい動物をいぢらしいものに感じた。
「捕つた/\」
といふ声がして、その方面へ子供が、わーつと喚(わめ)き寄つて行つた。桶屋(おけや)の小僧の平太郎が蝙蝠の一ぴきを竿(さお)でうち落して、両翅(りょうばね)を抓(つま)み拡げ、友達のなかで得意顔をしてゐる。薄く照して来る荒物屋の店の灯(ほ)かげでお涌がすかして見ると、小さい生きものは、小鼠(こねずみ)のやうな耳のある頭を顔中口にして、右へ左へ必死に噛(か)みつかうとしてゐる。細くて徹(とお)つたきいきいといふ鳴声を挙げる。「ほい畜生(ちくしょう)」と云つて平太郎は巧(たくみ)に操りながら、噛みつかれないやうに翅を延(のば)して避ける。ぴんと張り拡げられた薄墨いろの肉翅(にくし)のまん中で、毛の胴は異様に蠢(うごめ)き、小鳥のやうな足は宙を蹴(け)る。二つの眼は黒い南京玉(なんきんだま)のやうに小さくつぶらに輝いて、脅(おび)えてゐるのかと見ると嬉(うれ)しさうにも見える。またきいきいと鳴く。その口の中は赤い。
お涌は、何か、肉体のうちを掠(かす)めるむづむづしたやうな電気を感じ、残忍な征服慾を覚え、早くこの不安なものの動作を揉(も)み潰(つぶ)してしまひ度(た)いやうな衝動にさへ駆られて、浴衣(ゆかた)の両|袂(たもと)を握つたまゝ、しつかり腕を組み合せ、唇を噛んで見入つてゐた。
「お呉(く)れよ、お呉れよ」
とまはりの子供達が強請(せが)む中に、平太郎はお涌を見つけると愛想笑ひをして
「お涌ちゃんに、これ、やらうね、さあ」
といつて、抓み方を教へ乍(なが)ら、お涌にこの小さい動物を指移しに渡した。
お涌は、不気味さに全身緊張させ、また抓んだ指さきの肉翅のあまり華奢(きゃしゃ)で柔かい指触りの快いのに驚きながら、その小動物を自分の体からなるたけ離すやうにして、そろ/\自宅の方へ持ち運んで行つた。お涌に蝙蝠を取られた他の子供達がうしろから嫉妬(しっと)の喚きを立てゝ囃(はや)した。
お涌が、自宅の煉瓦塀(れんがべい)のところまで来ると、あとから息せき切つて馳(か)けて来た日比野の家の女中が声をかけて
「お嬢さま、あなたが蝙蝠をお貰(もら)ひになつたのを、うちの坊ちやまが窓から御覧になつてまして、是非(ぜひ)標本に欲しいから、頂いて来て呉れろと仰言(おっしゃ)いますので…………ほんたうに御無理なお願ひで済みませんが…………坊ちやまのお母さまもお願ひして来るように仰言いますので…………」
お涌は、大人の女中の使者らしい勿体(もったい)振つた口上にどぎまぎして、蝙蝠も惜(おし)くはあるが遣(や)らなければならないものと観念して、小さい声で
「ええ、あげますわ」
といつて女中の前に小動物を差出した。
「ほんとに、済みませんで御座(ござ)います」
女中は礼を繰返しながら蝙蝠をお涌の手から抓(つま)み代へて受取らうとする。蝙蝠は口を開けてきいきい鳴き続ける。二三度試みて、たうとう指さきを臆(おく)させてしまつた女中は
「お嬢さま、まことに恐れ入りますが、とても私の手にはおへませんから、このまま蝙蝠を宅までお持ち願へませんか」
お涌は大人にこれほど叮嚀(ていねい)に頼まれる子供の侠気(きょうき)にそゝられて承知した。
日比野の家は、この町内で子供達が遊び場所にしてゐる井戸の外柵の真向(まむか)ひで、井戸より五六軒|距(へだた)つたお涌の家からはざつと筋向うといへる位置にあつた。前に大溝(おおどぶ)の幅広い溝板が渡つてゐて、粋(いき)でがつしりした檜(ひのき)の柾(まさ)の格子戸の嵌(はま)つた平家の入口と、それに並んでうすく照りのある土蔵とが並んでゐた。土蔵の裾(すそ)を囲む駒寄(こまよ)せの中に、柳の大木が生えてゐる。枝に葉のある季節には、青い簾(すだれ)のやうにその枝が、土蔵の前を覆うてゐた。町内のどの家と交際してゐるといふこともなかつた。
土蔵には、鉄格子の組まれた窓があつた。その中が勉強部屋になつてゐるらしく、末息子の皆三の顔がよく見えた。
子供達のなかの誰もこの家のことをよく知らなかつた。富んでゐる無職業(しもたや)の旧家(きゅうか)であることだけは判つたが、内部の家族の生活振りや程度のことなど、子供|等(ら)の方から、てんで知り度(た)い慾望もなかつたのである。ただ土蔵の窓から、体格のしつかりしてさうな眉目(びもく)秀麗な子供の皆三が、しよつちゆう顔を見せてゐる癖に、決して外へ出て、みんなと一緒に遊ばない超然たるところを子供達は憎んだ。さういふ型違ひな子供のゐる日比野の家は、何か秘密がありさうな不思議な家と漠然と思つてゐるだけだつた。
子供達は、お涌も時に交(まじ)つて、その土蔵の外の溝板(どぶいた)に忍び寄り、俄(にわ)かに足音を踏み立てて「ひとりぼつち――土蔵の皆三」と声を揃(そろ)へて喚(わめ)く。お涌もこの皆三の超然たるところを憎むことに於て、他の子供達に劣らなかつた。が、喚き立てる子供達の当て擦(こす)りの下卑(げび)た荒々しい言葉が、あの緊密|相(そう)な男の子の神経にかなり深刻に響いて、彼をいかに焦立(いらだ)たせるかとはらはらして堪(たま)らない気もした。それでゐてお涌自身も、子供達と一しよにますます喚き立て度(た)い不思議な衝動にいよ/\駆られるのであつた。お涌はさういふ気持ちで喚く時、脊筋(せすじ)を通る徹底した甘酸(あまずっぱ)い気持ちに襲はれ頸筋(くびすじ)を小慄(こぶる)ひさせた。
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蝙蝠 (こうもり) のリンク元
- http://atpedia.jp/word/%E7%84%A1%E8%81%B7
- http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1568746119&owner_id=7184021&org_id=1568351215
- [[OCN]] 之泥土踏む施
- http://search.nifty.com/websearch/search?cflg=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&select=2&q=%E5%B3%B6%E5%B4%8E%E8%97%A4%E6%9D%91+%E8%9D%99%E8%9D%A0%E3%81%AE&ck=&ss=up
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