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蟇の血 - 田中 貢太郎 ( たなか こうたろう )

  • 昭和9年 日本怪談全集 第4巻 田中貢太郎 改造社
  • #日本怪談全集 Ⅱ 田中貢太郎 桃源社
  • $日本怪談全集Ⅰ 田中貢太郎著 桃源社
  • $日本逸話全集 田中貢太郎著 桃源社
  • # 日本怪談実話 全 田中貢太郎著 桃源社 初版
  • 田中貢太郎 日本怪談全集 全2巻 桃源社 昭和45年発行
  • $情鬼・朱唇 田中貢太郎著 桃源社
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      ※  三島(みしま)讓(じょう)は先輩の家を出た。まだ雨が残っているような雨雲が空いちめんに流れている晩で、暗いうえに雨水を含んだ地べたがじくじくしていて、はねあがるようで早くは歩けなかった。そのうえ山の手場末(ばすえ)の町であるから十時を打って間もないのに、両側の人家はもう寝てしまってひっそりとしているので、非常に路(みち)が遠いように思われてくる。で、車があるなら電車まで乗りたいと思いだしたが、夕方来る時車のあるような処もなかったのですぐそのことは断念した。断念するとともに今まで先輩相談していた女のことが意識に登って来た。
(もすこし女の身元や素性(すじょう)を調べる必要があるね)と云った先輩の詞(ことば)が浮んで来た。法科出身の藤原君としては、素性も何も判らない女と同棲することを乱暴だと思うのはもっともなことだが、過去はどうでも好いだろう、この国の海岸の町に生れて三つの年に医師(いしゃ)をしていた父に死なれ、母親が再縁した漁業会社社長をしている人の処で大きくなり、三年|前(ぜん)に母が亡くなった比(ころ)から家庭が冷たくなって来たので、昨年になって家(うち)を逃げだしたと云うのがほんとうだろう、血統のことなんかは判らないが、たいしたこともないだろう……。
(一体女がそんなに手もなく出来るもんかね)と云って笑った先輩の詞(ことば)がふとまた浮んで来る。……なるほど考えて見るとあの女を得たのはむしろ不思議と思うくらいに偶然な機会からであった。しかし、世間一般の例から云ってみるとありふれた珍しくもないことである。己(じぶん)は今度の高等文官試験の本準備にかかる前(まえ)に五六日海岸の空気を吸うてみるためであったが、一口に云えば壮(わか)い男が海岸遊びに往っていて、偶然に壮い女と知己(しりあい)になり、その晩のうちに離れられないものとなってしまったと云う、毎日新聞社会記事の中にある簡単事件で、別に不思議でもなんでもない。
 女と交渉を持った日の情景がぼうとなって浮んで来る。……黄いろな夕陽の光が松原の外にあったが春の日のように空気が湿っていて、顔や手端(てさき)の皮膚がとろとろとして眠いような日であった。彼は松原に沿うた櫟林(くぬぎばやし)の中を縫うている小路(こみち)を抜けて往った。それはその海岸へ来てから朝晩に歩いている路(みち)であった。櫟の葉はもう緑が褪(あ)せて風がある日にはかさかさと云う音をさしていた。
 その櫟林の前(さき)はちょっと広い耕地になって、黄いろに染まった稲があったり大根や葱(ねぎ)の青い畑があった。そこには櫟林に平行して里川(さとがわ)が流れていて柳が飛び飛びに生えている土手に、五六人の者がちらばって釣を垂れていた。人の数こそちがっているが、それは彼が毎日見かける趣であった。その魚釣(うおつり)の中には海岸遊びに来ている人も一人や二人はきっと交(まじ)っていた。そんな人は宿の大きなバケツを魚籃(びく)のかわりに持っていて、覗(のぞ)いてみると時たま小さな鮒(ふな)を一二|尾(ひき)釣っていたり、四五寸ある沙魚(はぜ)を持っていたりする。
 彼が歩いて来た道がその里川に支えられた処には、上に土を置いた板橋がかかっていた。その橋の右の袂(たもと)にも釣竿(つりざお)を持った男が立っていた。それは鼻の下に靴ばけのような髯(ひげ)を生やした頬骨の出た男で、黒のモスの兵児帯(へこおび)を尻高(しりだか)に締めていた。小学校教師巡査かとでも云う物ごしであった。彼はその脚下(あしもと)に置いてある魚籃を覗いて見た。そこには五六尾の沙魚が入っていた。
沙魚が釣れましたね)
 と、彼が挨拶のかわりに云うと、
今日天気の具合が好いから、もすこし釣れそうなもんですが、釣れません)
(やっぱり天気によりますか、なあ)
(あんまり、明るい、水の底まで見える日は、いけないですよ、今日も、もすこし曇ると、なお好いのですが)
(そうですか、なあ)
 彼はちょっと空の方を見た。薄い雲が流れてそれが網の目のようになっていた。彼はその雲を見た後(のち)に川の土手の方へ往こうと思って、板橋の上に眼をやったところで橋のむこう側に立ってこっちの方を見ている壮(わか)い女を見つけた。紫の目立つ銘仙(めいせん)かなにかの華美(はで)な模様のついた衣服(きもの)で、小柄なその体を包んでいた。ちょっと小間使か女学生かと云うふうであった。色の白い長手(ながて)な顔に黒い眼があった。彼はどこかこのあたりの別荘へ来ている者だろうと思ったきりで、それ以上べつに好奇心も起らないので、女のことは意識の外に逸(いっ)してその土手上流(かみて)の方へ歩いて往った。
 二丁ばかりも往くともう左側に耕地がなくなって松原赭土(あかつち)の台地が来た。そこにも川のむこうへ渡る二本の丸太を並べて架けた丸木橋があったが、彼はそれを渡らずに台地の方へ爪(つま)さきあがりの赭土を踏んであがって往った。
 そこには古い大きな黒松があってその浮き根がそこここに土蜘蛛(つちぐも)が足を張ったようになっていた。彼は昨日(きのう)も一昨日(おととい)もその一つの松の浮き根に腰をかけて雑誌を読んでいたので、その日もまた昨日腰をかけて親しみを持っていた浮根へ往って腰をかけながら下流(かわしも)の方を見た。薄い鈍(にぶ)い陽(ひ)の光の中に釣人達は絵に画(か)いた人のように黙黙として立っていた。彼はさっきの女のことをちょっと思いだしたので、見なおしてみたがもうそれらしい姿は見えなかった。
 彼は何時(いつ)の間にか懐(ふところ)に入れていた雑誌を執(と)りだして読みはじめた。読んでいるうちに面白くなって来たので、もうほかのことはいっさい忘れてしまって夢中になって読み耽(ふけ)っていた。それは軍備縮少の徹底的主張とか、生存権の脅威から来る社会的罪悪の諸相観とか、華盛頓(ワシントン)会議軍備制限とか、そう云うような見出しを置いた評論文であった。そして、実生活の煩労(はんろう)から哲学宗教世界へと云うような、思想家として有名な某文士の評論読みかけたところで、頭を押しつけられるような陰鬱(いんうつ)な感じがするので、読むことを止(や)めて眼をあげると、もう陽が入ったのか四辺(あたり)が灰色になっていた。旅館で飯(めし)の準備(したく)をして待っているだろうと思ったので、帰ろうと思って雑誌を懐に入れながらふと見ると、右側のちょっと離れた草の生えた処に女が一人低まった方に足を投げだし、双手(りょうて)で膝を抱くようにして何か考えるのか首を垂れている。それは衣服(きもの)の色彩の具合がさっき板橋のむこうで見た女のようであった。
 彼は不審に思った。さっきの女が何故(なぜ)今までこんな処にいるのだろう。それとも己(じぶん)と同じように一人退屈しているから散歩に来て遊んでいるのだろうか、しかし、あんなにうな垂(だ)れて考え込んでいるところを見ると何か事情があるかも判らない、傍へ寄って往ったら鬼魅(きみ)を悪がるかも判らないが一つ聞いてやろうと思った。で、腰をあげて歩きかけたが、そっと往くのは何か野心があってねらい寄るようで疚(やま)しいので、軽い咳(せき)を一二度しながらいばったように歩いて往った。


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